ゆぅすけです。
権利の乱用(1・2)では、"対象者に対し保障される具体的な権利"というものを重点においてお話してまいりましたが、今回は『権利』の歴史を振り返ってみたいと思います。
人に対する権利というものが発生した歴史は相当古く、人類が誕生してまもなくのことであると思うのでありますが、そんな時代には言葉も文字もありませんから、権利というのは人類が未来永劫の繁栄を達成していく上で必要不可欠な要素ともいえます。ですから一概に権利を主張することが間違ってるとはいえないのであります。
では人類が誕生してまもない権利とはどのようなものだったのでしょうか。それはまさに人間が生きていく上で、大自然の恵みを頂戴する権利だったと考えることが一般的だと思います。
衣食住は自然の恵みがあってこそでありますから、人類が生まれながらに与えられた権利を行使するということは、言葉や文字などで表現するものではなく、まさに生まれ持った本能をただただ行使することなのであります。
そんな中、人類はこうした生まれ持った権利を効率よく行使できるカタチとして集団を形成していくことになります。個人で衣食住を満たすためには相当な労力が必要となりますが、集団ならばその労力は半減します。みんなで力を合わせる、助け合うという考え方はこの時に成熟したものと考えられます。
こうした人類共通の権利が保たれるのは、集団があってこそであります。集団とは第一に家族であります。次に地域、そして国家、さらには全世界であります。これら集団を保つこと、これこそが真の保守であるのではないかと考えています。
そして、まずはこうした人類共通の権利というものをしっかり考えていかなければなりません。
さらには戦後60年が過ぎ70年を向かえようとする現在のわが国の状況と、徳川家康が幕府を開いてからの日本の歴史というものも比較してみたいと思います。
徳川家康は、それまで150年あまりという長い戦国の世を終焉させることに成功しました。それまで民衆は戦乱の中、明日をも知れぬ生活を余儀なくされていましたが、徳川幕府が開かれてからは民衆の気持ちにも何かしら安堵の心が芽生えてきたことでしょう。
そして衣食住は安定され、学問や思想がどんどん民衆の中にも発達していくことになります。戦乱終焉から60年70年が過ぎようとしていた時代、まさに元禄文化が華開こうという世であります。時の征夷大将軍といえば、そうです。徳川幕府五代将軍の綱吉であります。綱吉は家康の玄孫で、戦乱期を知りません。父家綱も知りませんから、まあ現在でいうところの団塊ジュニアであります。(私も団塊ジュニアですが・・・)
その綱吉が定めようとしたものに、皆さんご存知の、"生類憐れみの令"があります。その内容は説明するまでもないとは思いますが、生類憐れみの令が出来るまでの過程というのを、ほとんどの日本人には知られていないと思います。
まずは、ウィキペディアからの引用ではありますが、一部ご紹介させていただきます。
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は、貞享4年(1687年)殺生を禁止する法令を制定した。生類憐みの令が出された理由について従来、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされる。生類憐みの令が出された理由については、他に長寿祈祷のためという説もあった。
当初は「殺生を慎め」という意味があっただけのいわば精神論的法令であったのだが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられ、元禄9年(1696年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。このため単なる精神論を越えた監視社会と化してしまい、その結果、「悪法」として一般民衆からは幕府への不満が高まったものと見られている。
悪法かどうかといのはさておき、過程には動物に対する殺生を慎めという思想があります。動物といえども人間と等しく生きる権利があるという考え方であります。これに対して何も異論はありません。むしろ大切なことだと思います。ですが人間にも生きる権利がありますから、どちらか一方の権利を優先すれば、その反対側にいる一方は苦しむわけです。人間を優先すれば動物が苦しみ、動物を優先すれば人間が苦しむ。簡単なことであります。
ではなぜ、そんな当たり前のことをあえて法令にしてしまったのでしょうか。ここで気になるのが隆光僧正という人物像であります。僧の身でありながら為政者に近づき、その庇護を得えているようにしか思えないのでありますが、庇護を受けるだけならまだしも、僧の身でありながら何ゆえ動物の生きる権利を重要視し、人間の生きる権利と相違えるようなことを綱吉に進言してしまったのでしょうか?
(ちなみに、この動画では、奈良の寺社はあくまで観光資源という観点でしかない!というのが筆者の実感であることだけは付け加えとくますね。)
人間であろうと動物であろうと生きる権利を必要以上に害することは絶対あってはならないことはいちいち申すことでもありません。しかしこの動画では、いかにも『当時の日本人の心は荒んでいた』と強調しているようにしか思えないのであります。
私たち日本人は争いを好む民族ではありません。これは権利を強調すれば争いが絶えない世になることをよくよく知っていた当時の日本人が、綱吉の政策に対して悪法と言わしめたわけであります。
それとは裏腹に隆光僧正は、僧の身でありながら為政者に近づき、寺社の大改修を助けたとしても、まさに『権利』というような言葉を安易に使ってははならなかったのだと思うであります。
綱吉の死後、生類憐れみの令が廃されることにより、徳川幕府はその後、安定した政権基盤を育んでいくことになります。
現在のように権利がオンパレードすれば、やがては生類憐れみの令のような政策が実施されかねません。
それが人権救済擁護法となり得るのかもわかりませんが・・・。もしもそのような政策が実施されることになれば、現代日本人では、もはや廃することは不可能かと思うのであります。
そうならないためには、ひとりひとりが考え、親子、友人、同僚などと話し合うことが大切であります。
そうした願いも込めまして、今回はこのあたりで・・・。
権利の乱用(1・2)では、"対象者に対し保障される具体的な権利"というものを重点においてお話してまいりましたが、今回は『権利』の歴史を振り返ってみたいと思います。
人に対する権利というものが発生した歴史は相当古く、人類が誕生してまもなくのことであると思うのでありますが、そんな時代には言葉も文字もありませんから、権利というのは人類が未来永劫の繁栄を達成していく上で必要不可欠な要素ともいえます。ですから一概に権利を主張することが間違ってるとはいえないのであります。
では人類が誕生してまもない権利とはどのようなものだったのでしょうか。それはまさに人間が生きていく上で、大自然の恵みを頂戴する権利だったと考えることが一般的だと思います。
衣食住は自然の恵みがあってこそでありますから、人類が生まれながらに与えられた権利を行使するということは、言葉や文字などで表現するものではなく、まさに生まれ持った本能をただただ行使することなのであります。
そんな中、人類はこうした生まれ持った権利を効率よく行使できるカタチとして集団を形成していくことになります。個人で衣食住を満たすためには相当な労力が必要となりますが、集団ならばその労力は半減します。みんなで力を合わせる、助け合うという考え方はこの時に成熟したものと考えられます。
こうした人類共通の権利が保たれるのは、集団があってこそであります。集団とは第一に家族であります。次に地域、そして国家、さらには全世界であります。これら集団を保つこと、これこそが真の保守であるのではないかと考えています。
そして、まずはこうした人類共通の権利というものをしっかり考えていかなければなりません。
さらには戦後60年が過ぎ70年を向かえようとする現在のわが国の状況と、徳川家康が幕府を開いてからの日本の歴史というものも比較してみたいと思います。
徳川家康は、それまで150年あまりという長い戦国の世を終焉させることに成功しました。それまで民衆は戦乱の中、明日をも知れぬ生活を余儀なくされていましたが、徳川幕府が開かれてからは民衆の気持ちにも何かしら安堵の心が芽生えてきたことでしょう。
そして衣食住は安定され、学問や思想がどんどん民衆の中にも発達していくことになります。戦乱終焉から60年70年が過ぎようとしていた時代、まさに元禄文化が華開こうという世であります。時の征夷大将軍といえば、そうです。徳川幕府五代将軍の綱吉であります。綱吉は家康の玄孫で、戦乱期を知りません。父家綱も知りませんから、まあ現在でいうところの団塊ジュニアであります。(私も団塊ジュニアですが・・・)
その綱吉が定めようとしたものに、皆さんご存知の、"生類憐れみの令"があります。その内容は説明するまでもないとは思いますが、生類憐れみの令が出来るまでの過程というのを、ほとんどの日本人には知られていないと思います。
まずは、ウィキペディアからの引用ではありますが、一部ご紹介させていただきます。
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は、貞享4年(1687年)殺生を禁止する法令を制定した。生類憐みの令が出された理由について従来、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされる。生類憐みの令が出された理由については、他に長寿祈祷のためという説もあった。
当初は「殺生を慎め」という意味があっただけのいわば精神論的法令であったのだが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられ、元禄9年(1696年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。このため単なる精神論を越えた監視社会と化してしまい、その結果、「悪法」として一般民衆からは幕府への不満が高まったものと見られている。
悪法かどうかといのはさておき、過程には動物に対する殺生を慎めという思想があります。動物といえども人間と等しく生きる権利があるという考え方であります。これに対して何も異論はありません。むしろ大切なことだと思います。ですが人間にも生きる権利がありますから、どちらか一方の権利を優先すれば、その反対側にいる一方は苦しむわけです。人間を優先すれば動物が苦しみ、動物を優先すれば人間が苦しむ。簡単なことであります。
ではなぜ、そんな当たり前のことをあえて法令にしてしまったのでしょうか。ここで気になるのが隆光僧正という人物像であります。僧の身でありながら為政者に近づき、その庇護を得えているようにしか思えないのでありますが、庇護を受けるだけならまだしも、僧の身でありながら何ゆえ動物の生きる権利を重要視し、人間の生きる権利と相違えるようなことを綱吉に進言してしまったのでしょうか?
(ちなみに、この動画では、奈良の寺社はあくまで観光資源という観点でしかない!というのが筆者の実感であることだけは付け加えとくますね。)
人間であろうと動物であろうと生きる権利を必要以上に害することは絶対あってはならないことはいちいち申すことでもありません。しかしこの動画では、いかにも『当時の日本人の心は荒んでいた』と強調しているようにしか思えないのであります。
私たち日本人は争いを好む民族ではありません。これは権利を強調すれば争いが絶えない世になることをよくよく知っていた当時の日本人が、綱吉の政策に対して悪法と言わしめたわけであります。
それとは裏腹に隆光僧正は、僧の身でありながら為政者に近づき、寺社の大改修を助けたとしても、まさに『権利』というような言葉を安易に使ってははならなかったのだと思うであります。
綱吉の死後、生類憐れみの令が廃されることにより、徳川幕府はその後、安定した政権基盤を育んでいくことになります。
現在のように権利がオンパレードすれば、やがては生類憐れみの令のような政策が実施されかねません。
それが人権救済擁護法となり得るのかもわかりませんが・・・。もしもそのような政策が実施されることになれば、現代日本人では、もはや廃することは不可能かと思うのであります。
そうならないためには、ひとりひとりが考え、親子、友人、同僚などと話し合うことが大切であります。
そうした願いも込めまして、今回はこのあたりで・・・。