論語を現代語訳してみました。
子罕 第九
《原文》
子曰、鳳鳥不至。河不出圖。吾已矣夫。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、鳳鳥〔ほうちょう〕 至〔いた〕らず。河〔か〕 図〔と〕を出〔い〕ださず。吾〔われ〕 已〔や〕んぬるかな。
《現代語訳》
先師はまた、遠くを眺めるようにして、次のように仰られました。
〈ところがじゃ、そんな純粋で誠実な人を召しかかえようとする〉寛大な心をもった為政者はおらず、また、乱れた世を正そうとする為政者もいないのだよ。
よって私には、〈その人を〉どうしてやることもできなったのじゃ…、と。
〈おわり〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
『鳳鳥 至らず』を「寛大な心をもった為政者はおらず」と訳した背景としては、伝説の怪鳥、鳳凰〔ほうおう〕をなぞらえました。そして『河図を出ださず』を「乱れた世を正そうとする為政者もいない」と訳した背景としては、河の中から出て、その目を開けると世の中が明るくなると云われている伝説上の神獣『燭竜〔しょくりゅう〕』になぞらえてみました。
こうしたことからも、当時の為政者たちが如何に、国家政道というものを軽んじ、己の利益ばかりを求め(=個人主義)、目先だけしか見えずにいたのかが窺えてきますし、こうしたことも含めて孔子は、この世の虚しさや残酷さみたいなものを感じ取っていったのではないでしょうか。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考