那須与一は1166~1169年のいずれかのあいだに、那須家初代当主・那須資隆の十一男として生まれました。
本名は宗隆むねたかといい、与一というのは十一男という意味の通称。
下野国那須郡(栃木県那須郡那珂川町)にあった神田城にて、育ったとされています。
幼いころから弓の腕前は隋一だった
与一は史上でも稀な弓の名手として語られますが、その才能は幼いころからすでに片鱗を見せていました。
幼少時代に兄たちの前でその腕前を披露し、父を驚かせたという伝説が残っています。
幼少からといわれると生まれつきセンスがあったように感じさせられますが、それ以上に与一は相当な努力家でした。
なんでも、弓を練習しすぎて左右の腕の長さが違っていたのだとか…。
また11歳のころには、のちに源平合戦で仕えることになる源義経とも出会っています。
このとき父の資隆が、兄の十郎為隆じゅうろうためたかと与一を源氏の兵として従軍させることを義経と約束したとのこと。
与一はこのときも弓の練習中だったということで、たまたま通りかかった義経が彼の腕を見込んだのかもしれません。
11歳の子どもが戦力になると判断されるとは…末恐ろしいですね。
源平合戦に従軍し「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」で活躍
1185年になると、父が義経と交わした約束通り、与一と兄の為隆は源氏の兵として「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」に参加します。
ここで登場するのが、与一の逸話でも特に有名な「扇の的伝説」です。
屋島の戦いにて源氏側に意表を突かれ、海上へ敗走した平家は「負けを認めたくない」という考えから、船上に扇を掲げて源氏側に射貫かせる余興を行いました。
要は挑発なのですが、これを射損じてしまえば、源氏の軍を率いていた源義経の立場がありません。
そのおり、弓の名手として与一に声がかかり、彼は70メートルも先の波間に揺れる小さな扇を見事射落としてみせたのです。
これにより源氏は勝機をつかみ、続く壇ノ浦の戦いで平家を追い詰め、勝利をものにします。
この活躍によって与一は源家当主の頼朝から、5ヵ国に荘園(私有地)を賜り、那須家の地位を一気に台頭させたのです。
幼少より積んで来た弓の訓練が、このときすべて報われたわけですね!
実は兄のほうが弓は巧かった?
幼少期の逸話や扇の的伝説を見ると、与一は那須家でも特別弓が巧かったように思えます。
しかし「実は兄の為隆のほうが、弓が巧かったのでは?」という推測があります。
というのも、屋島の戦いで扇の的が掲げられたおり、最初は与一ではなく、為隆に声がかかっていたという話があるからです。
このとき為隆は自分が怪我をしていることを理由に、弟の与一を指名したといいます。
考えてみれば兄弟でこの2人だけが源氏の兵として従軍したわけです。
為隆と与一は弓の腕が特に優れている2人として、兄弟でも取り沙汰されたのでしょう。
そう思うと兄から先に声がかかるのも道理で、兄のほうが巧かったというより、実力は甲乙つけがたかった…とも考えられます。
那須家の家督を相続・罪に問われていた兄たちに領土を分け与える
源平合戦を経て源頼朝に引き立てられた与一は、十一男でありながらも父の資隆から家督を継ぎ、那須家の2代目当主となりました。
これは戦での活躍ももちろんありますが、残りの兄たちが全員平家側の味方をして、罪に問われてしまったからだといいます。
ちなみにともに源氏の兵として従軍した為隆も、義経の命に背いたため罪に問われてしまったのだとか。
どうして兄弟間で意見が割れてしまったのかははっきりしませんが、兄たちは才能をもつ与一に嫉妬していたのでは…など、なんとなく想像できますね。
そして与一が弓の腕だけではない、人格者だったことを示すエピソードがここから。
当主になって那須家の領土を受け継ぐと、与一は罪に問われていた兄たちを助け、それぞれに分け与えたというのです。
この行いで那須家はさらに繁栄し、後世へと続いていくことになります。
まじめな努力家で、兄想い…
権力にも奢らなかったその性質が那須氏の基礎を作ったわけです。
死後各地に作られた与一の墓
善人ほど早く亡くなってしまうということなのか、与一の生涯は約20年と、非常に短いものでした。
あまり記録が残っていないのは、早死にだったことも関係しているのではないでしょうか。
亡くなったのは山城国(京都府)の即成院とされています。
兄のひとり、資之すけゆきが分骨を別に埋葬したといい、代々受け継がれていった現在は栃木県大田原市の玄性寺げんしょうじが本墓とされています。
安土桃山時代に22代目当主の那須資景すけかげが建立したものということで、ほぼ間違えありません。
実はこのほかに兵庫県神戸市の碧雲寺宗照院へきうんじしゅうしょういんにも、与一の墓はあります。
墓ではありませんが、
・神戸市の須磨神社
・山形県米沢市の西蓮寺
・岡山県井原市の永祥寺
など、与一を祀った寺や神社は全国各地に点在しています。
分骨を埋葬したのは資之だけではなく、供養はさまざまな場所で行われていたということですね。
それだけ多くの人に慕われていたのでしょう。
昔「那須与一」のマンガが家にあった たぶん祖父のもの