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ちょっと気の早い話だが、9月16日は「敬老の日」である。
この地区の敬老会は10月の初めに行われるが、この敬老会への出欠を確認し、記念のタオルを配布するために町内の60人ほどの老人を訪ねまわっていた。暑い中、一軒ずつ回りながらこんなことを考えていた・・・・・・・
どうもこの「敬老」という言葉自体が死語であるように思うがどうだろう?
長生きしている老人を敬うという思想が今の日本人には無くなっていると思う。個人のレベルでは、自分の会社などにおいては尊敬すべき年老いた先輩もいるだろうし自分の手本としたい老人もいるだろう。そのように個々の人に関して言えば「敬老」の気持ちが失せている訳ではないのかもしれない。
しかし老人を「masse」(塊)として捉えると、老人は既に社会的な役割を終了した人々であり、過去の多大な貢献を大いに評価はしても、「今・あるいはこれから将来に向かって、何かの価値を新しく作り出してはいない」ということか。
そこに、「老人自決論」に象徴されるような、老人は社会の「澱」であり不要なものとの認識が蔓延っているのだろう。若い人(どれくらいの年代を言うかはさておき)からすれば、自分たちの金を吸い上げて年金で遊んで暮らしている邪魔な存在と映っているのかもしれない。
しかし、老人が存在するからこそ社会構造で言えば、「コンクリートから医療・福祉・ひとづくり」などへの転換をもたらしているのだろう。
モノづくりに代表されるような「優秀な工業製品」を賛美してきた日本だが、一方では、長い間の「ひとづくり」が必要ないわゆる「職人」を育て、その職人が作り出すような「工芸品」はほとんど消えかかっている。
どの様な社会にあっても人を大切にし育んでいくための投資を忘れた国家は瘦せ細っていくだけだ。目先に拘り「国際〇〇学部」だの「先端〇〇学部」だのばかりを作っていっても本当の意味で人は育たないと思う。
人口が減りつつある日本、若者から老人まで人を大切にしてゆく社会にしない限り日本は貧しい国となっていくだろう。