【半休中】Beyond talk to oneself

子どもや日常、スポーツ回顧、時事の疑問に世の声の1人として触れていきます。競馬予想はあくまで履歴と仲間向けです。

物心付いたら滝野川

2010年04月14日 18時50分58秒 | Nostalgie
さて、昨日に続いた第2弾はここに向かった核心の話。
ジャンルとすればノスタルジーかな?何十年も昔の話。

思えば昨日紹介の冒頭画像は飛鳥山の南側。
うちの区はそれよりも北だから、飛鳥山を通り過ぎていることが不思議。
バスで行ったなら王子駅前で降りて登っていけばいいだけの話。
帰りも王子駅前からバスに乗ればいいので明治通りに行く必要なんか無いのだ。

だがしかしバスは王子駅前を越した次のバス停である飛鳥山で降りた。
停留所が飛鳥山だからではない。意図を持ってここにしたのだ。
もう回りくどいからハッキリ言うが、ここに住んでいたのだ。
私が物心付いた3歳の時に滝野川に住んでいた。
元々大田区の田園調布…の隣町の下丸子で生まれ、
ガス橋だか丸子橋だかが近くにある多摩川に近いところだったらしいが
すぐに大森に引っ越したみたいで、そのどっちも当然記憶が無い。
親父の職場は上野だったために山手線沿線か京浜東北線が理想であり、
どんな意図があったのかは知らないが、この滝野川に引っ越したのだ。
そこには親父とお袋、婆ちゃんに私の4人が住んでいた。
木造アパートの2Fの部屋。我が人生薄っすらと記憶があるのはここからだ。
それ以前の記憶はまるで無い。
その後団地がブームになり埼玉の物が当たって
そこでも高崎線で通えるのでそっちに4歳の時に転居し
(私が転居が多いのも血筋か!?)
10歳の時に今の土地に来てそこで根付いているのが厳密な話。

だから飛鳥山公園は幼児期に散々遊んだところなのだよ。
もう完全に30年以上も昔の話だ。40年かも知れんな。
親父が2003年の大晦日に亡くなって、そんな私の記憶に無い時期の話を
することも無くなってしまい、歳を重ねたからなのか、
親父が亡くなったからなのか、特に近年昔の足跡を見たいという
そんな気持ちが強くなってきていたのだ。
それですぐ近くだから、住んでたところも見たいと話して、
家族3人で行ってみたのだった。

行く前にはお袋にTELで聞いてみた。滝野川の住所を。
しかし当然ながら見事に覚えてない。
私の記憶だと飛鳥山を背にした明治通りの右側で、
西巣鴨の交差点までのちょうど真ん中辺だったと言う印象だった。
だがお袋はすかさず否定して、そんな遠くではなく、
飛鳥山のすぐ近くとのこと。アパートから見えてたんだから。と。

そんな近くだったのか!!!!\(◎o◎)/
確かに3歳児には全てがでかいよな。
アパートから飛鳥山まで婆ちゃんと歩いていったのが
それなりの距離に感じていたよ。
しかしそれを踏まえても真ん中ぐらいだろうと思ったら、
飛鳥山交差点付近だなんていわれた日にはドンダケ!?とは思った。
そしてお袋にそんなに交差点に近いのに車の音もあまり記憶に無いといったら
それは昔は今ほど走ってないからね。とのこと。
などほど確かに。
昔は1車線か大きくても2車線だったのだろう。
ところが今は冒頭画像の通りよ。

確か以前は3車線だったと思う。それが今は2車線。
・・・減ってんじゃん。ということだが、それはそうなんだけど、
真ん中に高速が走ったからだ。首都高中央環状線が、
足立区の江北橋までで直線的に足立川口線になっていたのだが、
環状線というように、そこから南下して池袋線と繋がったのだよ。
もう何年なるかな?5~6年かな?
なので埼玉や東北道方面を目指す車が高速を通るようになったので、
その分車線自体は減ったわけ。そしてこのデカイ中央分離帯の花壇の下を
高速道路が走っているのだよ。ゆえに明治通りの幅員は今がMAXに思う。
私の幼い頃の幅員は覚えてないが、高速が通る以前はここまで広くなく、
多分道はこのサイズだけど、歩道の分広がったとかかも知れない。
(実は幅員は高速完成前と一切変わってないのかも?)



ホラ、飛鳥山と逆方向を見ると、中央になにやらあるでしょ?
これは上を通ってきた高速道路がここから地下トンネルを潜るのだよ。
そう、飛鳥山交差点から飛鳥山の下と、王子駅の下を通って、
その先でまだ地上に出てくるのだ。
やはり鉄道もあるし、飛鳥山公園の景観を大事にしたのではないかと思う。
実際高速の工事は、荒川や隅田川の上はとっとと終わってたのに、
なかなか繋がらなかったのは、この辺の工事が難航していたのかも?
でももはや明治通りは私が生活していた頃とはまるで別物。



そして全てがまるで変わってしまった中、本能だけが私を動かす。
お袋の言っていたのは飛鳥山交差点のすぐそば。
それだけで一つの道を勝手に歩が進んでいった。
そしてその先にある路地を見て「ここだ!!」と確信した。
どれもが全て違っている。当時あったものは何も無い。
だけど道の様子を見て解ったのだ。
この道沿いを青一色の足で漕ぐ車をキコキコと漕いでたのがこの道。
鉄ではなくプラスチックでライトとバンパーらしきの枠だけの出っ張りが
安っぽかったけどウルトラマンっぽい顔でアメ車っぽさもあったのが
なんとなく好きだったが、例えば私の名前が「まなべかおり」だったら
何故だか知らないが名付け親のうちの親父がその車の横に
目一杯の大きな文字で「まなべかをり」と書いたのだよ。
3~4歳でも既に神童と呼ばれて賢かった私は
「なんでボクの名前は【お】なのにこれは【を】なの」と
納得の答えが得られないので親父にお袋に婆ちゃんに何度も聞いていた。
(最後は思い出せば何回も聞くので親父が軽くキレて
「お父さんが間違ったんだ!!」と言ってた)
きっと眞鍋かをりもそう言うことで名前が付いたんだろう。うんうん。



角度を変えてみた。何故なら家が見えてなかったからだ。
ではこの突き当りの家がそうかと言えば違う。アパートだからね。
この突き当りの右手の家の庭らしき部分が私の家だよ!!
その2F部分の何も無い空間に住んでいたのだ!!
(もちろん浮いて生活していたわけではない)
まるで違うのに解るって不思議だよな。
誤解かもしれないけどそうとは思えないし事実間違ってないと思う。
建物は変わっても道はそうそうに変わらないのだよ。
なにせ昔の子だから一人で歩ければその辺を一人でも遊ぶ。
↑で書いた車に乗ったり、三輪車に乗ったり、縄跳びとか、
土に木の枝でガリガリ絵を描いたり。
それはアパートから見える範囲なので、この道の撮影したところまでが
私の許された自由だったのだ。

そして毎朝出社する親父に同じ台詞を言ってた。
「行ってらっしゃ~いお父さ~ん。お土産にバナナ買って来てね~!」
この当時はまだややバナナは高級品だった。そして大好きだった。
アメ横には叩き売りの人が居たので、職場のそばで売っているのを知ってるし
毎日でも買ってきて欲しくてたまらなかったのだ。
(実は当時うちの親父は今は奥に引っ込んだがABABの並びにあった
靴屋のセントメリーフジヤマに勤めていた。お袋はしのばず口正面に見える
おもちゃのヤマシロヤに勤めていた両者販売員で、上野で出会ったのだよ)
それが最初の頃は「あいよ~」とか言ってたが、
毎日続くとさすがに大人は付き合いきれなくなり、
ある日は「そんなの毎日買えねぇよ」みたいに言ってた。
なので「何~?」と聞き返すと「な…なんでも無い。あいよ~」と
言ってくれていたこともなんとなく覚えている。
なんで毎日言うようになったのかは、最初にお願いした日に
忘れずに買ってきてくれたのだ。だから願えば買ってくれるものだと
そう言うシステムなんだと思いこんでたね。
それが親父はこの道を進んで行き、左に曲がって駅に行ってたんだよな。
それを窓から毎日のように見送ってたし、遊べる範囲だったので、
その道がこれだと確信を持てたのだと思う。



↑の画像を撮っていた場所を右を向くとこうなっている。
突き当たりは明治通りだ。そこから入ってきてこの距離に↑の道が
T字路としてぶつかっている。本当にすぐそばだ。
そしてこの画像の左で前の画像の右端に写っている建物のところは
確か当時は駐車場だと思った。
当時車を持っているうちは少なかったが、多少は居たので
その保管場所も当然少なからずあるわけで、
親父を見送る目前には駐車場があって、それをぐるっと左に回りこんで
歩いていく姿をうっすらと記憶している。



そしてその目線の位置に立ってみた。
あああ!!この電柱!当時からやや斜めてった!!
いつか倒れてくるんじゃないかと思った記憶がある。
ん?!待てよ!?当時は木か?
コンクリにしたのに又斜めに!?・・・良く解らん。
でも道を塞ぐように電柱があったのはあった。
こんなど真ん中ではなかったような気もしたが。
そして駐車場の入り口はこの左手のど真ん中だった気がする。
この絵面で完全にここだと自信を持った。



そこを振り返るとこういう状態。
アパートがあっただろう所を取った。
そう、民家のところではなく、この庭のようなところ。
何世帯あったのかも覚えてないが、多分1Fと2Fで2世帯ずつだと思う。
なのでこの庭の部分だけの縦長のものか、母屋も含んだ部分か、
さすがに今となっては良く解らない。
でも親父を見送る様と道が見えていることを思うと、
この庭の上部に部屋があったことは間違いない。

この時代に私は小児喘息になった。
掃除機は普及していたが、婆ちゃんが文明の利器を使えずにホウキ。
それが年寄りだから寒さにめっぽう弱くて十二単かというぐらいに
昔の人が着る着物でもなければなんだろう?肌襦袢みたいなものとか、
とにかく合わせて紐で縛るような着物をいくつも着ていた。
それだけに掃除のときも寒いからと窓も開けず玄関も開けず、
密封状態で掃除するのでハウスダストやカビや畳を大量に吸い込み、
そうなってしまったのだよ。実際その後検査したら、
モロにその3つが最大のアレルギー反応の物質だった。
親父からしてガリガリなんで、私も元々体が弱かったのに、
弱いからと過保護にしすぎた婆ちゃんにとどめ刺されたとは・・・。
お袋が言ってもまるで聞く耳持たなかったから、
これ以上はとして言えなかったそうな。
たまにケンカしてたのは見たことあったね。
やはり昔の人って自分がやってきたことが全てだし、
新しいことって受け入れられないんだよな。
情報とか常識とか、掃除機にしてもそうだしね。
部屋の中の印象は殆ど無いのだが、一つだけ記憶にあるものがある。



これ。ほくさんバスオール。
なんでも大阪でやたら売れたらしいけど、東京でも売れてたよ。
なにせ民家は全て平屋。サザエさんの家がその典型のように。
なのでアパートは2Fで高さがあって景観が良かったのだ。
当時ビルも殆ど無かったし、あってもMAX5Fとかね。
この近所には無かったかと思ったけどな。だから窓から飛鳥山が見えたんだ。
そして大金持ちの家しか風呂なんて無く、みんな銭湯。
そこで初の(多分)ユニットバスが誕生した。
それがこれだった。
何でも給料の1か月分ぐらいしたらしい。
でも銭湯に行くことを考えると家族が居れば安上がりか。
(そういやこの頃毎日銭湯なんて行かなかったな。金が持たないので)

この話は以前もしたことがあったんだが、ここに住んでた時に使ってた。
ある日突然業者がこれを組み立てていき、親父は誇らしげで、
お袋は不思議そうだが喜んでいたような。。。
婆ちゃんは乗り超えられないので変わらず銭湯に行ってた。
そういやこれにお湯をためるとき、相当備え付けの瞬間湯沸かし器が遅いのか
鍋でお袋が何度もお湯を沸かしてはここに入れてたな。
設置場所は流しの脇。狭いのに良く置いたねぇ。

でもこれが当時の私には嫌な代物なのだ。
何故なら給湯だから冷めるので、親父が1番風呂だし、
私と入りたがるのでお湯がとにかく熱いのだ。
熱いと言ってもお母さんが入る時にぬるくなるので少し我慢といわれ
何度かは解らないが、43~44度とかのお湯に入らされていた印象。
そんな熱湯コマーシャル以前にそんなバツゲームを受けていた私だが
もう一つ嫌だったことが、親父のグロテスクでボーボーなチンチンが
デロ~ンの目前にあることだ。
どう言うことかというと、これ洗い場が無いでしょ?
どうするのかと言うと、半分蓋を閉めてその上で洗うのだよ。
だから私が洗われる時は、親父が浴槽内に膝立ちして行い、
親父が洗うときは私は浴槽に立ってて頭が出ている程度の身長。
実際年齢的に大人のやることは全て見ている時代。
それを一つ一つ真似して出来るようになっていくのが幼児。
だから体はどうやって一人で洗うのだろうと見ていると、
そのグロいものが否が応でも私の視界の中心部に存在し続けたのだよ。
いくら親子でも、自分の実父のチンチンを目前の30cm程度に見るって
ありえないことだぜよ!?それが凄く印象にあったアパート。

でもこれユニットに目一杯の浴槽でどうやってたんだろ?
浸かるのはいいけど洗ったら流すよね?
でもこれパンパンなんだよな確か。
もしかしたら上げ底で確か蓋は水が左右に流れるような溝が
多数あった記憶があるので、僅かな隙間があって裏の底に溜まってたのかな?
画像には排水のものがなにも無いけど、しないとならないから
洗濯機のホースのようなものはあったはず。
なんとなくその洗濯機の排水のところに流していたか、
そんな気の利いたもんが無ければ玄関から垂れ流し!?
なんにしても長いこと使った記憶が無い。
それが1年や長くて2年程度しか住んでなかったから?
実際4歳で埼玉の団地に行った時に4Fだったので、
「ボクが4歳だから4階にしたの?」と子どもだけに世の中の何も知らないから
そんなことを親父に聞いたことも覚えているので、
ここのアパートは4歳のある日までしか住んでなかったのでね。
そんな短い利用だったのにバスオールは凄く覚えている。

そしてふと思った。
確かアパートの目の前に横に行く道があったことを。
なんとなく行き止まりだった気もするが、
例の如く行動範囲を決められていたので、
それ以降が無いと思いこんでいるのかもしれない。
いや、あった。確実に。



やはりあった。
これはアパートがあっただろう場所から左を見たもの。
画像では車が止まっているが、車があるってことは行き止まりじゃない。
そう思うと親父の行動が不思議だ。
何故ならアパート前の道を真っ直ぐ進み、
突き当たって左に折れる。
その先は明治通りでそこを左に行って飛鳥山で、その先が王子駅。
ということは、アパート前のこの道を進んで行けばもっと近い。
♪だのに~~~~なぁぜぇ~~~~~
!!!思い出した!!!
これ、私の我侭なのだ!!
この画像の道を行ってしまうと、すぐに親父が見えないのだ。
でも駐車場を回り込んで行ってくれれば、暫く見られるのだ。
だから私がすぐに横に行かないで、真っ直ぐの道から行ってくれと
親父にお願いをしたのだよ。それを億劫がらずにそうしてくれていたのだ。
我が親ながらなかなか優しいじゃねぇか!!気に入った!(何様だ)
そんなことも思い出せたのが嬉しいし来て良かった。

しかし懐かしいなぁ。当時もこんな感じに石が埋められてたかなぁ?
でもローセキを持って、道に落書きをしていた記憶もあるので、
土ばかりだったらそれが出来ないから、ここは石が埋まってたのかもね。
右手の電柱の補助の黄色いのがあるが、その辺まで駐車場だった。



これは止まっている車の前のほうから逆に撮ってみた。
あぁこんな砂利道だらけだったよ。ここはこの通りだったと思う。
そして変なエロい子が居たことも思いだした。
名前は忘れたが、遊びたくない子だった。
でも近所だからよく会うんだよね。
年は1~2歳上だったけど、すぐにパンツを脱ぎたがる子だったんだよ。
男の子なんだけど、丸出しにしたお尻を道に落ちている釘に押し当てたり、
(それをこの道の端っこでやってたのだよ)
5歳児がやるようなことではないことばかりを面白がってする子だった。
それを強制的に見て見てと言って見せられるのも何か狂いそうだったし、
しかもそれを私にもやってみろと言うし、年上の子だから怖い部分もあって
逆らいにくいから近いことまでして勇気が無くて出来ないよみたいに言い、
拒絶はしてないけどどうしても出来ないという姿勢を見せないとならないと
思って気遣うというか、とにかくあまりにもおかしいことばかりなので、
物凄く嫌だったのだ。こんな子後にも先にもこの子しか見たこと無い。
多分今では凄まじい性犯罪者になって留置されてそう・・・。

そんなのばかりでもなく、同じ年だった糸井君と言う仲良しも居た。
明るい普通の男の子で、その子と遊ぶのが大好きだった。
この名前も全く忘れていたが、これを書いてて突然思い出した。
名前は・・・サトシくんだったかな?違うなぁ。
当時は苗字ではなく名前で呼んでいた。
(追記:思い出した!糸井たかし君という名前だ!!)
例の私の青い車に二人で座って、誰に買って貰ったのか、
ビニールに入ったポップコーンの輪ゴムで縛ったとば口を
私がかじって頭を嫌々と振ったのを糸井君も真似してやりだし、
その様子を写真に写されたものが確か古いアルバムに残っている。
この子と別れて引っ越すのが嫌だったなぁ。
目がクリッとした劇団ひとりに似たような顔立ちだったなぁ。
埼玉に行った後、数回手紙のやり取りもしたけど、
時の流れと共にどちらからとも無くフェードアウトしたなぁ。

あ、そうそう。変態の子と同じ年でカッコいい子も居た。
その子はケーキ屋ケンちゃんをもっと精悍な顔にしたような感じで、
頼もしくて優しいお兄さんの印象だった。
同じ年で近所に居るもの同士なのに変態の子とは雲泥の差だった。
いろいろ思い出すなぁ。3~4歳の記憶なのに凄いなぁ。



↑の道の途中にあった消火器だけど、左のやつは相当錆びて古そう。
そして右端にある物干し竿の土台も苔が凄い。
全てが新しく変わってしまった中で、
何の確証も無いし、きっとそうではないと思うが、
私が居た時代からそのままあるものと認定した。
とりあえずそう思いたい。



そんな風に思って、車の前に続く道は本当にあるのか
帰りがけにそっちに向かったが、突き当たって左に行ったら、
すぐに又突き当たり、それをさらに左に行くと道がカーブして
思いっきり北本通りに出た。要は飛鳥山交差点を王子駅に向かう途中。
そして逆に戻ると飛鳥山交差点から1つ目の路地だった。
やはり駅に向かう道があったのに、親父は遠回りしてくれていたんだ。
ちなみに親父は大通りに面した改札は利用してなかった。
昨日紹介した歩道橋を渡って、飛鳥山公園を通過して、
唯一のお店がある裏手の階段を下りていき、
線路の上の橋を渡って、その先にある改札を利用していた。

そしてこの画像は、最初の車の先が突き当たった時に右に行ったら
すぐ左手にあったものだ。なにやらはんこ屋さんだね。
これが当時からあった記憶は全くないし、知らなかったものだが、
この建物の様子からして、当時はこんな感じのものばかりだった。
私の居たアパートの壁も木造だからこんな感じだった記憶。
そう思うと2階建ての家ってあったのかな?増築したのかな?
思わずピンポンして尋ねてみたい気もしたけど、
不審者と思われたらややこしいし、女どもが結構呆れているので
この辺でさっさと公園に行ったほうがいいなと後にしたのだった。

そんなわけで、今回の目的地の中で一番遠い場所がここだったわけ。
だからバスを飛鳥山で降りてここに向かったんだよね。
そしてその後昨日紹介の飛鳥山公園へといったわけよ。

誰もが1度くらいは転居すると思う。しない人も居るけど。
もし可能な所にあるのだったら、記憶を頼りに彷徨ってみるといいかも。
失われた記憶がいろいろ蘇ってくる。
温故知新ではないけど、原点中の原点の自分や家族などの周りに居た人にも
ふれることができるかと。そこで又新たな何かも見えるかもよ?
そして失われた何かも。
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2 コメント

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行きなはれ (ぜっとし)
2010-04-16 13:16:12
キミも行ってきなはれぇぇぇぇ~~!!

そこって川崎なのかな?
それだとこっちに来るのもなかなかなのに、
目的がそれではないと難しいかもね?
そのついでに実家に寄るような感じで。

うちの親父、私のこと大好きだったからね。
なんたって誰が見てもそう思う、自分にソックリな子だったから。

でも大人って大人だけに付き合いきれないんだよな。
知恵も知識も豊富だから億劫がって。
でもそれが少ない子どもレベルに合わせてあげることだけが正解。
知ってか知らずかそうしてくれていたのが嬉しいね。

まぁ家族でと言っても無理やり付き合わせただけで、
喜んでコーフンしてたのは私だけよ。
かみさんも娘もなんのゆかりもないからね。
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昔の記憶をたどって (王国のたぬきち)
2010-04-16 06:40:20
私も小さい頃小学三年生まで住んでいた所があって、凄く懐かしくなりました


実家に帰ったときに私もバスを途中下車して行きたいなあってすごく思いました

あの道も、この道もきっと懐かしいんだろうな


アパートから見えた駐車場からお父さんに行ってらっしゃーいしてたなぁ


思い出してきた~


ぜっとしさん、お父様が子どものために遠回りして通勤してたなんて優しいし、すてきですね

家族で思い出の場所に行けていいな~

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