ここ何ヶ月か強烈にキリスト教に傾倒していて、それは「役に立った」
一番役に立ったと思ったのは、本当にご都合主義だが、「自分」にとって良くないと思われるようなことでも「神」はそれを望んでおられるとか、何か自分が望んだことは神がその時と場所を都合よくしてくれるという考えである。
で、実際そうなのである。例えば人間関係において、これは不思議なもんでちょっとでもなんか微妙だなと思う、この人嫌だなと思うような人をどうにか遠ざけたいでも傷つけたくないというようなアンバランスさ(特に僕の場合は異性関係など)をどう解消していいか悩むことがあったのです。
でもその人間関係も神を通して考えるならば、必要な時私に会わせ、必要な時に私から去らせるのだろうという考え方に変わったように思う。そうすると、本当に用が済んだみたいにいなくなったりするもんである。その時寂しいと思いつつ安心も感じたりしているのである。
それを人生まで拡大するならばあらゆる困難も苦悩もどこかのタイミングで必要な時があるのだろうと感じる。
しかし一方でこれは、人生における困難をただ奴隷のようにキリスト教は追認しているだけなのでは?という批判は当然にあるだろうと思われる。
けれども追認してることは確かでも、そう言って「やり過ごす」ことはテクニックの一つであると感じる。
困難に対して戦って戦って疲弊して最後には自ら死ぬような事よりは幾分かマシである。
ここまで長々とタイトル詐欺のようにキリスト教について、あくまで僕の知る超浅いレベルのキリスト教に関して語ってきたが僕は元々仏教にシンパシーを感じていた。
それで最近、YouTubeで南直哉さんと宇宙飛行士の人の対談の動画を見たのである。
そこでやっぱいいなぁと思ったり、関連動画でマインドフルネスについて語るみたいな動画があり、その中でネルケ無方というドイツ出身の禅僧(曹洞宗)がマインドフルネス批判をしていて本当にその通りと思っていました。
マインドフルネス批判は僕は著名な方だと苫米地英人あたりがしていたのを本で読んだ(確か成瀬雅春との共著)
結局は、より大きなお金を稼ぐため、効率よく働き頭を動かし生産性を高めるためにマインドフルネスというのは、煩悩の塊なのである。たしかにそうだ。
煩悩を強化してよりうまく競争しよう、より良い生活をしようというのはやはり禅的ではない。
じゃあ禅の僧侶は何のために坐禅しているのかと問えば、多くの人は悟るためだというかもしれないが坐るために坐っているのである。
それは何かの役に立つとか、坐禅をすることによって何かが得られることを期待しないでただ坐るという事なのである。
それが結果的に集中力がついたとか、現実の問題に対処しやすくなったとかそうなったとしてもそれを目的にしてはいけないのである。その時点で禅ではない。
というわけで、ネルケ無方さんの本を読んでみようかなと思う。
外国の方が見る仏教というのにも何かしらヒントがあるやもしれぬ。