そもそも僕たちの存在は他人から来て他人によって承認されて初めて立ち上がる。
親という他人から生まれてきて命名されそれを承認されて初めてヒトになる。
誰も他人抜きで存在することができないというこの事実一つとっても承認欲求を捨てるという主張が馬鹿げた絵空事であることがわかると思う。
嫌われる勇気とかいう本が流行る前に僕も買って読んだことがある。最初から衝撃的ですごいなと思ったが2回か3回読んだらとてつもない違和感が拭えず処分してしまった。
最近になってその承認欲求云々についてなんか書こうと思ったのは、YouTubeでなんか東大理科三類の人が塾で小学生にお話しする動画を見たからである。そこで、他人の期待がなければ頑張る理由もない的なことを言っていた気がする。他人がいないのなら別に何もかもする必要がない。何かしようとするのはそこに他人がいるからだ。
それでその違和感は他の思想やライフハックや哲学にまで広がっていった。
結局のところ生と死を扱わないようなものは僕にはあんまり合わないんじゃないかと思った。
例えば嫌われる勇気の目的論にしたって、誰も目的があって生まれることを選んでいないわけだから土台で失敗している。
土台失敗してるから全体としてこじつけのような違和感にしかならないのである。
思想にしても哲学にしてもある一部分を切り取って、こうだあーだ言うのはそれを理不尽に生み出す/奪い去る生と死を前にしたらなんだかあってもなくてもいいようなちっぽけなものに感じる。
ライフハックも同様。ただ人生の今この瞬間たったこれだけを良くしたいというのはあんまりうまくいくないように思った。
結局人生全体にわたってどうするのかを考えた方が結果的に目の前の小さな現実も変わる気がする。
ボトムアップで目の前のことからやろうとすると何もかも重要に見えて行動が止まる。
ゴールが見えていれば目の前の膨大なタスクも優先順位が決まるし、やらなくていいこともわかる。
しかし他方で夢を持たなければダメだという社会もダメだと思う。
某プ◯ルを見た東野が夢を持たない人間はダメだと言われてるように感じたと言うが、まさに今の社会はそのような風潮がある。
夢を持って大きなことをすべきだ、個性を出してオリジナルで、自分のやりたいように生きよと。
でも本当にそうだろうか?いつからそんな夢を持たなければ生きる価値がないみたいな風潮ができたのか。
結局金である。金をもっと効率よく動かすには夢を持ってもらわねば困る。
むしろ夢を背負って苦しんでる人が多すぎる。いいじゃないか夢を持たない人生でも。
夢と同様に個性もよーーーーく言われる。
日本の教育は横並びで個性が出せないと。
でもね、ある程度ならしてもなお突出するのが個性だと思うんですよね。
例えば太陽の絵を描いてくださいという指示と自由に絵を描いてくださいという指示だったらどっちの方が個性が見えるかと言ったら太陽の方なんですよ。
自由に絵を描いてという指示だとみんな各々普通の絵を描くはずです。みんなが描くようなことを描く。ある人は家族の絵、ある人は動物の絵、それでどれが個性なのか?とは分かりません。絵のうまさはわかるだろうけど。
一方で太陽の絵というとそこには明確な差が出てくる。だいたいは同じような太陽の絵を描くだろうが、こんな太陽の絵を描くのかというのがはっきりと出てくる。
ある程度枠を作りそこからはみ出たものが個性として初めて認識される。
もしその人が個性的ならどんなに枠に入れようとしてもはみ出る。だからこそそのたまに枠が必要なのだ。
枠がなければはみ出ていることに気づくこともない。
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