キリスト教vs.イスラム教(1)神々は戦争を望むのか 後
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● 最終戦争を避けるために
キリスト教文明とイスラムの対立をやわらげるには、アメリカ文明に対するイスラム側の嫉妬を解消することも重要になる。それには、「イスラム教の教えのなかに(中略)自助努力の思想を導入する必要があるでしょう。『自分たちが貧しいことを神のせいにするのではなく、もう少し、勉強するなり、努力するなり、工夫するなりしたらどうか』ということです」(『救世の法』)
一方、ユダヤ・キリスト教側が戦闘神ミカエルの影響を受けて強硬策を続ければ、イスラエルと因縁の国・イランの間で核戦争が起こる危険性が高まる。そんな最悪の事態を避けるには、
「もう一段、優れた宗教によって、仲裁をするなり、融和を図るなりしていく必要があると思います。(中略)幸福の科学の教えを浸透させていって、キリスト教とイスラム教の戦いが、本格的な最終戦争にならないようにしながら、じわじわと、新しい時代の宗教を築いていきたいと考えています。(中略)やはり、宗教同士が仲良く調和しながら、そのなかで発展を目指していくことが、望ましいあり方であると考えています」(同)
§4 「兄弟宗教」 千年対立の歴史
キリスト教とイスラム教──現代ではそれぞれ22億人、15億人の信徒数を誇る大宗教だが、過去においても両者は覇を競い合うライバルだった。因縁浅からぬ両宗教の関係史をまとめてみた。
① イスラム拡大期
キリスト教は4世紀にローマ帝国で公認・国教化され、帝国の支配下にあった地中海世界に広がっていた。
7世紀、宿命のライバルとなるイスラム教が登場。イスラム教徒たちは、イスラム世界を広げるという宗教的大義に基づき、盛んに対外戦争(ジハード)を行った。7世紀から8世紀にかけてはイスラムの初期大征服時代と言える。
ムハンマドがアラビア半島を制圧したのを皮切りに、イスラム教徒は次々とキリスト教世界を切り取っていく。東ローマ(ビザンティン)帝国を破り、シリアとエジプトを奪う。その際、キリスト教にとっても聖地であるエルサレムを支配下に置いている。さらに北アフリカを西に進み、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島をも支配した。
今日、イスラム教徒は自分たちを「平和と寛容の教え」と言うが、成立直後の大征服を見ても単純にそうとは言い切れない。
② イスラム文明黄金期
続く9~10世紀はイスラム文化の大繁栄期である。アッバース朝の首都バグダッドは100万都市となり、空前の繁栄を遂げた。西欧が失った古代ギリシャの諸学問を保存・発展させ、これが西欧に逆輸入されたところから、ルネサンスや科学革命が起こったと言われる。
キリスト教徒側はこの事実を無視し、自分たちをギリシャ文明の直系としたがる。この忘恩がイスラムを苛立たせると同時に、この黄金期の記憶が、「理想時代に帰れ」というイスラム復興主義のもとにもなっている。
③ 十字軍期
11世紀末、聖地エルサレム奪還を大義名分とするキリスト教側の第1回十字軍がイスラム世界を襲う。十字軍は一時エルサレムを奪うものの、約1世紀後に奪還された。その後も十字軍は編制されたが、結局、当初の目的は達成できず撃退される形となった。
各地で虐殺を行ったとされる十字軍は、イスラム教徒の心に深い傷を残した。13世紀にはモンゴル人がイスラム各国を侵略するが、彼らは征服した先の教えであるイスラム教に改宗した。それに対しキリスト教徒は、侵略だけしてイスラム教に心服しない、救いがたい野蛮人と映ったのだ。
④ オスマン・トルコ強勢期
14世紀、イスラム諸国は世界各地に成立していたが、キリスト教世界との関係で重要なのはオスマン・トルコ帝国である。オスマン帝国は積極的な拡張政策を採り、近世の西欧諸国にとって直接的な脅威となった。
オスマン帝国は千年以上続いた東ローマ帝国を滅ぼしてバルカン半島やハンガリーを支配。さらにウィーンを包囲してヨーロッパを威圧した。また、最盛期のスペインを海戦で破り、一時は地中海の制海権を握った。
しかし、17世紀後半、第2次ウィーン包囲の失敗を境に、オスマン帝国は衰退期に入る。
⑤ ヨーロッパ帝国主義期
18世紀はヨーロッパとイスラム世界の逆転が決定的となった時代である。産業革命によって武器性能が飛躍的に向上したヨーロッパがイスラム世界を蚕食していった。かつて強勢を誇ったオスマン帝国は領土を縮小させ、インドのイスラム国家であったムガール帝国もイギリスの植民地となってゆく。
19世紀に入ると、オスマン帝国は英仏露の圧力に耐えかね、分割されていった。イランのカージャール朝はかろうじて植民地化を免れるが、常にロシアの南下に悩まされる。イスラム教国の多かったアフリカはほとんどがヨーロッパの植民地となった。
⑥20世紀以降
第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国はついに滅亡。イスラム諸国には苦難の時代が続く。
第二次世界大戦後に多くの国が独立したが、近代化を進める政府やそれを支援する西欧諸国と、「イスラムの理想時代に帰れ」と叫ぶイスラム復興主義とが対立するようになる。
1948年、パレスチナのイスラム住民を追い出す形でユダヤ人国家イスラエルが建国されると、これを認めないアラブ諸国とイスラエルの間で何次にもわたる中東戦争が勃発。これ以降、世界のイスラム教徒たちは、イスラエルとそれを支援するアメリカへの憎しみを募らせる。
79年、イスラム復興主義の高まったイランで、王制を倒してイスラム法学者を最高指導者とするイラン革命が起き、西欧諸国は警戒感を強めた。
91年の湾岸戦争は多くのイスラム諸国も容認したものだが、その後、米軍がイスラム二大聖地のあるサウジアラビアに駐留を続けると、一部のイスラム教徒は嫌悪感をあらわにした。
こうして溜まりに溜まった怒りが爆発したのが2001年の9・11テロである。これに続くアフガン戦争やイラク戦争で、一般市民が犠牲となり、それに対する報復としてテロが発生するという悪循環に陥っている。
キリスト教とイスラム教の対立の背景にはこうした長い歴史的因縁があり、解決の糸口はいまだ見えていない状況だ。
挑戦と応戦の歴史
次はイスラムがリベンジか?
キリスト教vs.イスラム教 関連年表
緑はイスラム側の対キリスト教優位、赤はキリスト教側の優位を示す
① イスラム拡大期(7~8世紀)――――――――世界史の舞台に衝撃の登場
・ムハンマドがアラビア半島を制圧(630年頃)。
・シリア(640年)、エジプト(641年)征服。
・北アフリカ西進(641~693年)。
・イベリア半島征服(710年)。
※東方ではイラク(641年)、イラン(651年)、中央アジア(711年)を征服。
② イスラム文明黄金期(9~10世紀)――――――――――今なお残る繁栄の記憶
・イスラム文化発展。アッバース朝(首都バグダッド)の繁栄。
・10世紀以降、イスラム世界は分裂
(北アフリカ、中東、中央アジアで王朝乱立)。
③ キリスト教側による十字軍期(11~13世紀)――――――千年経っても引きずるトラウマ
・第1回十字軍(1096~1099年)、エルサレムを占領。
・エジプトのサラディンがエルサレム占領。キリスト教側は第3回
十字軍(1189~1192年)でその奪回を目指すが撃退される。
・その後もキリスト教側は13世紀後半に至るまで何度も十字軍を派
遣したが失敗に終わる。
④ オスマン・トルコ強勢期(14~17世紀)――――――恐怖するキリスト教世界
・キリスト教連合軍をバルカン半島で撃破(1396年)。
・首都コンスタンティノープルを攻略し東ローマ帝国を滅ぼす(1453年)。
・16世紀前半、何度かの戦役でハンガリーを制圧する。
・第1次ウィーン包囲(1529年)。
・スペイン等の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握る(1538年)。
・第2次ウィーン包囲失敗(1683年)。
・ヨーロッパ諸国とカルロヴィッツ条約を結び、帝国領土(ハンガ リー)を失う(1699年)。
⑤ ヨーロッパ帝国主義期(18~19世紀)―――――キリスト教国に蚕食されるイスラム
・イギリスがフランスを排除し、インド・ベンガル地方の支配権を
確立(1757年)。
・ギリシャが英仏露の支援を受けてオスマン帝国から独立(1829年)。
・フランスがオスマン帝国からアルジェリアを奪う(1830年)。
・インドのムガール帝国が滅亡し、イギリスの直轄領となる(1858年)。
・イギリスがエジプトを保護国化(1882年)。
・ベルリン西アフリカ会議(1884~1885年)により、西欧による
アフリカ分割が加速。
⑥ 現代(20世紀~)――――――――――――戦争とテロの応酬
・オスマン帝国滅亡(1922年)。
・西欧側の後押しでパレスチナにイスラエル建国(1948年)。
・パレスチナ問題をめぐる中東戦争(第1次~4次、1948~1973年)。
・イラン革命(1979年)。
・湾岸戦争(1991年)。
・9・11同時多発テロ(2001年)。
・アフガニスタン戦争(2001年~)。
・イラク戦争(2003年)。
§5 なぜ神々が争うのか? 教義に見る対立の背景
キリスト教には「汝の敵を愛せ」というイエスの教えがある。イスラムは、その名称自体が「平和」という意味だ。そんな両者が、なぜ戦争を繰り返すのか?
実は、それぞれの聖典に「敵を滅ぼせ」と命ずるきわめて好戦的な教えが入っている。
イスラム創始期にムハンマドは、クライシュ族との戦いを通して勢力を広げた。そのせいか、『コーラン』には不信仰者の殺戮を命ずるアッラーのこんな言葉がある。「あなた方が不信仰者と(戦場で)出会った時は、(彼らの)首を打ちなさい。彼らを皆殺しにするまで」(47章4節)
まるで、平和や寛容を説くアッラーとは別人格の神の言葉が、そこだけ紛れ込んだかのようだ。こうした戦争肯定が、彼らの「ジハード」(聖戦。元々は「努力」の意)の根拠になっている。
同じく、クリスチャンでない日本人が『旧約聖書』を開けば、ユダヤ人が神の名の下に殺戮を行う場面に違和感を覚えるはずだ。たとえば「ヨシュア記」11章には、「彼ら(ユダヤ人)は、人という人を剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。主がその僕モーセに命じられた通り、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはその通りにした」とある。
こうした〝殺戮命令〟を刷り込まれたかのように、のちのキリスト教はイスラムに対する十字軍、キリスト教のグノーシス派やカタリ派、異言派などの殲滅、中南米やアフリカへの血なまぐさい帝国主義的征服など、「敵を愛する」のとは180度異なる行為を重ねていく(キリスト教がゲルマン人の間に広がる過程で、戦いの思想が強いゲルマンの原始宗教と混交し、戦闘性が強くなったとの説もある)。
●〝殺戮を命ずる神〟と愛を説く神の混在
ところが『旧約聖書』には、こうした命令とはまったく性格の異なる「神の言葉」も出てくる。たとえば『箴言』にはこうある。
「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。乾いているなら水を飲ませよ」(25章)
つまり『旧約聖書』には、異教徒の殲滅を命ずる非常に偏狭で民族神的な教えと、それとは水と油の、民族の枠を超えて救済しようとする普遍的な教えが混ざっているのだ。アメリカにおける宗教研究の第一人者、ハーバード大学神学部のハーヴィ・コックス教授も著書で、普遍的な教えと排他的で不寛容な教えが矛盾しながら聖典に混在する点を指摘している(注1)。
双方の聖典の中に、愛や平和を説く神の言葉とは思えない異質な要素があり、それを「神の言葉」として従ってきたことが、キリスト教とイスラム教が戦争を繰り返す原因の一つにあるようだ。
●「自由と平等」の対立
自由と平等──。フランス革命期から強く出てきた近代政治の考え方に照らすと、イスラム教は、はっきりと「平等」のほうに軸足を置いている。
イスラム教徒の意味で使われる「ムスリム」は、自分の意志を放棄し、すべてを神の心に任せた「絶対帰依者」のこと。アッラーの前では人は皆、小さく平等な存在にすぎない。イスラム共同体(ウンマ)の一員として、アッラーがコーランにおいて示した信仰生活を従順に守ることにより、万人が等しく救われる──。その徹底した平等主義が、貧しい地域の人々の心にも訴え、イスラムは民族や国家を越えて広がりを見せてきた。
一方、イスラムが反感を強めている最大のキリスト教国アメリカは「自由の大国」である。自由は「格差」を広げる面もあるが、技術や組織、社会のイノベーションが起きて、国民が豊かになるための必須条件だ。逆に、平等主義のイスラムの国々は、前出の宮田准教授も言うように、おしなべて貧しい。
そして、特にサウジアラビア、イラン、アフガニスタンなどの中東諸国は、社会のイノベーションが起きにくい事情がある。これらの国ではムハンマドが7世紀にまとめたイスラム法(シャリーア)が厳格に運用され、宗教のみならず市民の権利や、商法、刑法、憲法までも規定している。日本でいえば奈良時代以前にできた仕組みに縛られていることが、イスラム社会の発展を遅らせているのだ。
● 欧米文明への嫉妬
イスラムは完成した教えのはずなのに、自分たちは貧しく、異教徒は繁栄している──。
こうなると火がつきやすいのが嫉妬の心だ。中東史研究の権威、プリンストン大学のバーナード・ルイス名誉教授は著書にこう記している。
「(9・11の)テロのニュースを聞いて、アラブやその他のイスラム諸国の街頭で人々が喜びを表明している様子が報道され、映像まで紹介された。ある意味で、この反応は嫉妬に基づくものだった」(注2)
フランス革命もそうだが、平等が強調されると流血が多くなる傾向がある。富んでいる者たちを消してしまえば、「自分たちが貧しく、後れている」という苦い現実を直視して自ら努力しなくても済む。あるいは、嫉妬の対象を暴力的に破壊してスカッとすることができる。それが9・11の背景にある〝思想〟と言っていいだろう。
しかもアメリカはパレスチナ問題で、イスラムにとって屈辱の象徴であるイスラエル国家を支持している。これによってイスラム側の反感が高まり、問題が複雑になっている。
§6 兄弟宗教は歩み寄れるか
● 排他性と寛容を超えて
キリスト教には「汝の敵を愛せ」というイエスの教えがある。イスラムは、その名称自体が「平和」という意味だ。そんな両者が、なぜ戦争を繰り返すのか?
実は、それぞれの聖典に「敵を滅ぼせ」と命ずるきわめて好戦的な教えが入っている。イスラム創始期にムハンマドは、クライシュ族との戦いを通して勢力を広げた。そのせいか、『コーラン』には不信仰者の殺戮を命ずるアッラーのこんな言葉がある。「あなた方が不信仰者と(戦場で)出会った時は、(彼らの)首を打ちなさい。彼らを皆殺しにするまで」(47章4節)
まるで、平和や寛容を説くアッラーとは別人格の神の言葉が、そこだけ紛れ込んだかのようだ。こうした戦争肯定が、彼らの「ジハード」(聖戦。元々は「努力」の意)の根拠になっている。
同じく、クリスチャンでない日本人が『旧約聖書』を開けば、ユダヤ人が神の名の下に殺戮を行う場面に違和感を覚えるはずだ。たとえば「ヨシュア記」11章には、「彼ら(ユダヤ人)は、人という人を剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。主がその僕モーセに命じられた通り、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはその通りにした」とある。
こうした〝殺戮命令〟を刷り込まれたかのように、のちのキリスト教はイスラムに対する十字軍、キリスト教のグノーシス派やカタリ派、異言派などの殲滅、中南米やアフリカへの血なまぐさい帝国主義的征服など、「敵を愛する」のとは180度異なる行為を重ねていく(キリスト教がゲルマン人の間に広がる過程で、戦いの思想が強いゲルマンの原始宗教と混交し、戦闘性が強くなったとの説もある)。