心の音

日々感じたこと、思ったことなど、心の中で音を奏でたことや、心に残っている言葉等を書いてみたいと思います。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語9

2005-04-06 22:16:30 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(3月30日)を要約します。
1「故郷で活躍」
 1999年3月、鹿児島工業高校。プロとして初のキャンプを終えた川崎は、卒業式に出席するため一時帰郷した。最後の学生服姿でクラスを代表して受け取った卒業証書。パシャ、パシャとフラッシュが光った瞬間、暗い気分も吹っ飛んだ感じがした。
 ドラフトでホークスに指名されてから3ヶ月あまり。自主トレ、キャンプで痛感した体力差にがく然となり、教え子がかつてない壁にぶつかっていることを担任の田中健司も知っていた。
 壇上で、校長からクラス40人分の証書をまとめて受け取る「総代」。川崎がキャンプでドロまみれになっているころ、仲間達は誰が言い出すでもなく話をまとめていた。「ムネに受け取ってもらおう」。
 挫折を知らない友から口々に「頑張って」と声をかけられ、どこか救われたような気がした卒業式。そんな故郷のぬくもりには、プレーで答えるのが一番だ。7月、鹿児島県阿久根市で行われたウエスタン・リーグ阪神戦。チームでただ一人2安打を放ち、スタンドに駆け付けた約2000人の応援団を熱狂させた。自分のプレーでファンに一喜一憂してもらえる。夢を与えられる。そんな事実を体感できたことがうれしかった。
2「主力と参加」
 キャンプでは貧弱な体を見られたくなくて、入浴は常に最後。部屋に戻れば思いつめたように壁に向かって座っていた。そんな様子を伝え聞いていた両親には、今、目の前ではつらつと動き回っている姿がうれしかった。
 将来のスター候補生。技術的、肉体的、そして精神的な未熟さも踏まえた上で、2軍首脳陣は試合で使い続けた。「まだまだ1軍には遠かった。ただ非力でもバットに当てるセンスはあった。野手の上は越えていかないが、このまま鍛えていけば・・」と。荒削りなプレーには課題も山積していたが、この年、ウエスタン・リーグで打率3割、打撃ランキング5位に入った19歳に、1軍の首脳も熱視線を注いでいた。11月、川崎はチームの主力とともに、高知での秋季キャンプに参加することが決まった。
 精神的なショックもあった1年目、川崎は夏場に肝臓を悪くしていた。そのことを聞いていた1軍内野守備・走塁コーチの森脇浩司はキヤンプに帯同させるかギリギリの判断を迫られたという。が、のんびりしてはいられない。将来のチーム像を考えれば、現われた逸材を黙って放っておくことはできなかった。
3「来季へ希望」
 森脇の組んだメニューはハードだった。不安の残る体調、スタミナ不足も承知の上で、あえて厳しい練習を課した。その中で森脇が感じたことがある。「ただやるだけではない。向かってくる姿勢を感じた」
 怒とうの流れで過ぎていった1年目。プロ入り時に64キロしかなかった体重が、気がつけば4キロも増えていた。2年目、ウエスタン・リーグで29盗塁を記録し「足」も注目を浴び始めたころ、待ちに待ったお呼びがかかった。9月30日のことだった。「明日から1軍だ。神戸に来るように」。昇格を知らせる電話だった。すでにチームは来年のV奪回を見据えた準備に入っている。チャンスを生かさない手はない。10月3日、オリックス戦。この年の最終戦で「2番遊撃」でスタメン出場した川崎は、残念ながらプロ初安打を記録することはできなかった。が、思いはさらに強まった。
 「来年は絶対1軍でやるつもりだから」。試合後、電話で両親に誓った20歳の約束。あどけなさの残る横顔が確かな輝きを放ち始めていた。(山本泰明氏の記事より)