心の音

日々感じたこと、思ったことなど、心の中で音を奏でたことや、心に残っている言葉等を書いてみたいと思います。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語4

2005-02-26 16:28:59 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(2月23日)を要約します。 
1「源流」
 重富少年野球の元監督・緒方さんは「私にとっても忘れられない子でしてね。野球を教えていて、こちらが楽しくなるというのか、いい思いをさせてくれました」と語る。19年に及んだ指導暦の中で、ひときわ強い輝きを放っていた俊足プレーヤー。それはまさしく、のちの盗塁王の源流でもあった。
 自らのもとを巣立った中から初めてプロ選手が誕生した1999年の秋、すでに監督を引退していた緒方さんは、改めて川崎の戦績をひもといてみた。するとそこに、身をもって感じていた才能が数字となって浮かび上がった。
 投手と打者で、チームをグイグイ引っ張っていた少年時代。「私もびっくりしたんですが、盗塁が144もあったのですよ。100個を超える選手なんてそうそういない」。3年からの4年間通算で、投手としては82試合60勝13敗2分け。当時は右打ちだった打撃でも315試合で、打率337と大活躍していたが、川崎の代名詞として、チームメイトが何より強烈に覚えていたものが「足」だった。
2「オール1位」
 相手チームの監督からは「申し訳ないが、一度は川崎クン抜きで試合をさせてくれないか」と本気で申し込まれた。塁に出れば走る。1本のヒットでホームに帰ってきてしまう。内野を守らせれば、外野へ抜けそうな当たりにも追いついて、アウトにしてしまう。「審判にも‘ちょっとレベルが違いすぎる‘と驚かれて。それくらい相手にも嫌がられていました」。これこそが緒方さんのワクワクの最大の理由。守備練習では、ほとんどの打球をさばいてしまうため、どこへノックを打てば、川崎が捕れないかも研究した。ほかの選手にはちょっとない魅力に、ノックする手にも自然と力がこもった。
 ずっと主役だった。運動会の短距離走では1位が指定席。6年間、ほかの誰にもゴールテープは切らせなかった。最後の運動会となった6年の時、「今年も1位だと、ずっと1位だろう」とプレッシャーをかけられたが「緊張したけど、楽しかった。走っている間がこんなに短く感じたのは初めて」。両親にはこんなセリフを持ちかえり、野球で磨きをかけた俊足の貫禄を見せつけた。
 野球を始めてスピードに乗ったのは足だけではない。チームの中心選手としてのリーダーシップ。重富小のグラウンドで今も活躍しているバックネット。これは10数年前、当時の教え子達が「手作り」で完成させたものだ。「業者に頼むより、自分たちでやったほうが、教育のためにもいいと思ったんです。その作業の中で、先頭でみんなを動かしていたのが宗でした」
3「雁の巣訪れ」
 当時からだれにも負けない練習量をこなしていた川崎は、自分で考えた練習メニューを積極的に仲間に提案。「次はこういう練習をしようよ、とか、自分なりによく考えてやっていた。そんな性格だから、子ども達も宗の周りに集まってきていました」
 小学校最後の夏、福岡の海の中道で行われた少年野球九州大会。見事に準優勝に輝いたこの時、川崎は会場のすぐ隣、ホークスの2軍の本拠地、雁の巣球場に行った。「監督、内之倉選手がいる。すごく大きいよって、本当にうれしそうな顔で戻ってきて。準優勝したことよりうれしかったんじゃないでしょうか」と緒方さん。初めて間近で目にしたプロ野球選手。貫禄。風格。そしてかっこよさ。その光景を、12歳の少年は強い意志をもってしっかりとまぶたに焼き付けた。
 卒業間近、小学校最後の文集に、自らの歩みを振り返った上で最後に「まあ、そういうのがきっかけで、プロ野球の選手になりたいと思いました。でも、そう簡単にはなれないので、これからもがんばっていきたいと思います」
 目標は定まった。6年時、完全試合の実績を残して投手としての歴史にはピリオドを打った。野球一本、野手一本。地に足をつけて、大いなる挑戦が始まった。(山本泰明氏の記事より)

映画「レイ」を観ました。

2005-02-26 15:39:16 | Weblog
ジェイミー・フォックス主演の話題の映画「レイ」を見ました。天才ミュージシャン、レイ・チャールズは昨年6月10日に他界しましたが、本人のインタビューをもとに描き上げられた本作品を見たら、何と言った事でしょう?
 幼い時の貧困、弟の水死、失明など多くの苦難を乗り越え、一流のミュージシャンとして成功していく話ですが、特に印象に残った点を書きたいと思います。
 一つはレイのお母さん。女手一つで二人の男の子を必死で育てます。しかし弟が事故で水死し、兄は失明し、盲学校に行かせることになります。母は、子ども達に学問の大切さを説き、そして失明したレイを一人立ちさせようと必死でした。まだレイが若い頃、亡くなったようです(このあたりはドラマにありませんでした)が、まだ若いレイのことが心配でしかたがなかったことでしょう。
 二つ目はレイの妻。夫がヘロインをしていることを発見し、浮気にも気づき、子どものことをかまってくれないなどの不満がいっぱいだったと思います。自分の夫が天才ゆえに、気苦労が耐えなかったようですが、別れなかったのは、やはり夫への愛が強かったからでしょうか?目の見えない俺の気持ちや不安がわかるかと言われていましたが、本当につらかったと思います。
 最後にレイは本当に天才だったのだと思います。目が見えなくなった分、耳がよく発達し、そのことがその才能を開花させる一つのきっかけになったのでしょう。黒人差別にも行動を起こしたり、自分の音楽をあくなく追求する姿はすばらしかったです。

福岡ソフトバンクホークスの紅白試合を見ました

2005-02-23 19:16:34 | Weblog
 昨日の午後から、宮崎のホークスキャンプに行きました。1時半くらいから、紅白戦が始まりました。白組の先発は、開幕候補の斎藤。最速149キロの速球や変化球もさえ、バティスタやズレータを三振に打ち取るなど、2イニングをしっかり抑えました。四球が二つあったあたりが、今後の課題でしょうか。しかし、開幕に向けてしっかり仕上げて、一昨年のような活躍をしてくれると確信しています。
 一方、赤組先発のグーリンはいきなり、川崎に四球を与え、盗塁を許すなど不安定な立ち上がり。3四球の後、松中に2点タイムリーの2塁打を打たれるなど初回に3失点。
 松中は2打席目も左中間を破る2塁打で、三冠王の貫禄を見せていました。新人の領健のヒットも出て、白組は4点、赤組はフェリシアーノから、大野の2塁打で1点取りました。6イニングで終わりましたが、投手を2塁ランナーに立たせ、ホームまで走らたり、ズレータに外野と1塁を守らせるなど、交流戦を意識している練習でした。またDHがたくさんいたり、レッドソックスの選手が打ったりなど、紅白戦ならではのシーンもあり、そういう意味では、楽しく見ることができました。
 注目のバティスタですが、本当に独特の構えで、スタンドからも驚きの声が上がっていました。斎藤のフォークに三振と、3塁ゴロでした。日本の投手からどれだけ打てるのか、やや太り気味の体型や、緩慢な守備とスローイングも目にすると、本当にあれだけ高額の価値があるか疑問を持ちました。今から徐々に上げていくのでしょうが、不安を覚えました。
 カブレラを見たかったのですが、今日の新聞によると胃腸炎をおこしていたようで、見れなくて残念でした。フェリシアーノはスピードよりも、コントロールや変化球で勝負するタイプのようで、抑えはどうかな?という印象を受けました。やはり中継ぎでしょうか。今後のピッチング次第でしょう。
 3時半くらいに試合は終わり、ミーティングの後は、個人練習でした。打撃は、松中、城島が遅くまで残ってやっていました。川崎は明石と、森脇コーチのノックで守備練習を5時半くらいまでやっていました。
キャンプ恒例の姿ですが、その姿はすさまじく、求道者のようでした。
 華やかな活躍のかげには、このような血のにじむような努力があるということを改めて思わされました。

鹿児島の駅伝大会での事故

2005-02-21 18:58:50 | Weblog
 鹿児島で行われている県下一周駅伝大会の、応援帰りの中学生の列に車が飛び込む事故があった。報道によると、中学生が1名死亡、運転手と引率教諭、警察官、中学生数名が重軽傷を負ったり、意識不明の重体という。大会本部は死亡事故が起こったことを重く受け止め、大会を本日で中止した。我々鹿児島県民にとってこの時期の駅伝は、なじみの深いものであり、子どもの通う小学校でも最終日の明後日、応援に行く予定だった。
 事故の原因はまだ定かではないが、本当に悲惨な事故だと思った。来年度以降の開催も危ぶまれるような事故が起き、県民として実に残念に思う。特に亡くなられた方とそのご家族の心痛を考えると、何とも言えない悲しいニュースであった。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語3

2005-02-17 19:24:59 | Weblog
 西日本スポーツ新聞の連載記事(2月16日)を要約します。
1「一心不乱」
 大自然に囲まれた鹿児島県姶良町。その閑静な住宅街の一角に川崎の実家がある。そして、道一本を隔てて建っているのが、幼少期に通った池島保育園だ。距離にしておよそ3メートル。この「3メートルの空間」が、野球と出合った少年にとってのホームグラウンドだった。
 「本当に飽きもしないでずっと投げつづけるんですから。暗くなるまで・・・いや、暗くなってからも投げてました」と、姉はあきれたように笑った。くる日もくる日も、家からボールを持って出てきては、保育園のブロック塀に向かって投げる。何時間も、何日も。やがてそれは近所の名物になった。そうやって壁に刻まれた白いボール跡は、今も消えることなく残っている。
 やると決めたらとことん。プロになった今でも変わらない川崎のスタイルは、幼くしてすでに完成されていた。誰に言われるでもなく始めた「壁当て」に夢中になっていたころ、もう一つ必死で取り組んでいたものがあった。ぜんそくを治すため3歳から始めた空手だ。入門当初から抜群のセンスで目を引いた野生児は、小学校に上がると、さらに大きなスケールで成長した。
 「練習でこれをやれと言えば、とにかくずっとやり続ける。きつくても音をあげたところを見たことがない」同じ動きだけを繰り返して練習すると、だんだん集中力が消えてくる。ところが川崎の場合は違った。同じ目つきでひたすら同じことを繰り返す。空手の指導者は、明らかに雰囲気を持ったこの少年に大いなる可能性を感じた。
2「練習の虫」
 小3の夏、地元で開かれた空手の全国大会。身長140センチほどの小さな体に大きな闘争心を宿した川崎は、型部門でベスト8に勝ちあがった。腰の入れ方、群を抜いていた瞬発力、そして一心不乱の集中力。空手の指導者は当時のひたむきな姿を思い浮かべては、こう確信するという。「プロというのは、ああいう子が行くところなのだ。素直で、努力を惜しまない姿は、あのころと全く変わっていません」
 空手で名前が広がり始めたころ、野球人としての川崎は「壁当て」だけでは満足できなくなっていた。小3で、兄の影響で野球部に入った。最初の守備位置はセカンド。天性の運動能力に加えて、壁当てで体に染み付いた動きは初心者レベルを超えていた。「体は大きくないのに、背の高い子に交じっても目だってました。入ってきた時には、すでに基本はほとんどこなしていた」と当時の指導者。
3「プロ宣言」
 空手で全国デビューを果たし、さあこれからというころ。5年生の1学期、川崎は強い意志を胸に、空手の指導者のもとにやってきた。「師範、ボクはこれから野球をやっていきたいので空手はやめたいと思います」。「あのまま空手を続けていれば、どんな選手になっただろうかという思いはあります。しかし、あの子は野球が大好きだった。それを分かっていたから、止めることもしませんでした」
 小4の文集に、こんな思いが表現されている。「ぼくの夢はダイエーホークスに1位指名されてプロ野球でおもいっきりプレーすることです。ぼくの夢、親こうこう」
 テレビ中継といえば、巨人がほとんどだった鹿児島で、ホークスにあこがれを抱いたのは、当時甲子園で大活躍した鹿児島出身の内之倉隆志(現チームスタッフ)が入団したからだ。連日のようにニュースでホークスの映像が流れ、同じ九州にもプロ野球チームがあることを初めて知った。食い入るように画面を見つめる。その時、川崎の気持ちは固まった。「ボクは絶対プロに行く」
 壁当てから始まった野球人生。その魅力にとりつかれた男の子に、もう何の迷いも存在しなかった。ホークスに指名される8年前、堂々と書き残したプロ宣言。10歳の力強い筆跡にほとばしるような思いがにじんでいた。(山本泰明氏の記事より)

韓国の釜山(プサン)に行ってきました

2005-02-13 20:00:27 | Weblog
 秋に台風で延期になった職場の旅行があり、韓国の釜山に行ってきました。
 2月11日、朝4時半に起き、5時に自宅を出発。鹿児島中央駅に5時半に着きました。新幹線とリレーつばめに乗り、8時41分に博多駅に到着。早い時間のためか、お客さんも少なく、ここまでは快適な旅でした。博多港までは、タクシーで1000円ちょっと。
 出国手続きをして、いざビートルへ。ビートルは、船体を海面から2メートル浮き上がらせて走るので、さほど波の影響を受けません。時速83キロで走る高速船で、釜山までは約3時間です。しかし座席が狭く、飛行機のエコノミークラスの感じで窮屈でした。サンドイッチを食べたり、新聞を読んだりして過ごしました。
 釜山が見えた時はほっとしました。13:10でした。山にマンションがたくさん建っているのが見えました。迎えに来てくれたのは、ガイドの李さんです。李さんは、学生時代東京に留学していたということで、日本語は大変上手でした。まず昼食をとることになりました。ここではビビンバとお好み焼き風ものを食べました。とてもおいしかったです。ビールはハイトビールというのがトップだそうです。軽めのバドワイザー風のビールでした。
 食事の後、小高い山の頂上にある龍頭山公園に行きました。ここには韓国の英雄・李舜臣像がありました。豊臣秀吉と戦ったこともですが、人間的にとてもすばらしい人だったということで、韓国では尊敬されているのだそうです。次に釜山タワーに登り、釜山市内を見ました。天気もよく、町並みや海や橋がとても綺麗に見えました。坂に多くの家が密集して建ててあり、港もあり、長崎に似ている感じでした。朝鮮戦争のとき、多くの人がここに逃げてきて、山に家を建てていったということでした。
 次は釜山市場。朝鮮戦争後に生まれた巨大な市場で、衣類、雑貨、生活用品など狭い路地の両側にぎっしりと店が並んでいました。コピーの偽商品もいっぱいありました。途中に多くの屋台があり、立ち食いをしている人も大勢いました。
 次はジャガルチ広場。水揚げ量韓国一を誇り、港町ならではの活気にあふれていました。市場内には買ったばかりの魚をその場で、刺身や鍋に調理してくれるところが多くあり、ここでも食べている人が大勢」いました。
 夜の6時過ぎから、韓国アカスリ体験をすることになりました。我々男性はあまり気が進まなかったのですが、女性職員と李さんが、主に話を進め、夕食前に汗をかくのもいいかということで、みな承知しました。行く場所は「梨花汗蒸幕」というところで、数年前に日本のテレビで紹介されて、人気のある場所だそうです。しかし行く途中、かなり坂を登ったり、下ったりして少し怖かったです。まずは短パンとTシャツに着替えて、サウナのような所へ。ここは松の木を強い火力で燃やしているところだそうです。そこに2回入り、汗をたくさんかいた後は、韓方薬風呂へ。ここで待った後、いよいよアカスリです。男性が、全身をブラシで15分ほどこすったり、たたいたりして、シャンプーまでした後、「たくさん、アカでたよ」とカタコトの日本語で言い、アカを見せてくれました。途中、初めて顔にキュウリパックもしました。
 最後は足マッサージ。ゆっくりリラックスできると思っていたら大間違い。専用のステイックでぐりぐりされ、本当に痛くて痛くてたまりませんでした。何回も痛いと叫んでしまいました。片足が10分くらい、あと片足10分がおわるのをひたすら祈りました。初めてでしたが、あんなに痛いものとは知りませんでした。他の人も同様な感想でした。すっきりというよりも、終わってほっとしたというのが実感でした。ちなみに女性は、ヨモギ蒸し(婦人病や不妊などにいいらしいです)に、純銀風呂、全身海草ミルクマッサージ、顔マッサージなどがあったそうです。
 9時半ごろにそこを出て、食事。昭亭というお店で、焼肉や海鮮鍋などを食べました。たこの踊り食い(生きているたこを食べるもの)もしました。
 ホテルに着いたのは10時半ごろ。釜山観光ホテルで、日本人が多いようでした。
 次の日は、バイキングの朝食をとった後、しばし散策。少しお土産も買いました。お店の人も、とても親切でした。ガイドの女性の方もとても親切で、韓国の人に親近感を覚えました。
 チェツクアウトをして、港近くのお店へ。ここで最後の買い物をして、再び12時15分のビートルに乗り、釜山を後にしました。
 博多駅の店で、ラーメンを食べ、再びつばめと新幹線。午後7時半に、妻と子どもが迎えにきてくれたので、食事をして帰りました。移動が多く、ハードな旅でした。もう少し、ゆっくり、家族でもう一度行きたいと思いました。
 

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語2

2005-02-09 23:05:11 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(2月8日)を要約します。
1「病院通い」
 1988年3月、鹿児島県姶良町の池島保育園の卒園式の日、園長先生が「みんな将来なりたいものは何かな」と質問した。「ウルトラマン」「お花屋さん」などほほえましい答えが続く中、川崎は大声でこう言った。「ボクは大きくなったら、社長になりたいと思います」
 わずか6歳で、夢は社長? ほかの父母たちとともに後ろで聞いていた母・絹代も、まさかの答えに大慌てだ。それでも、当の本人は満足げにニコニコ。照れて赤くなりながらも、貫く思いは純粋でまっすぐに伸びていた。「今や本当に社長さんですからね。もう誰も笑う人はいないでしょう」プロ野球選手は個人事業種。園長先生も驚くシンの強さは、今も当時も変わらなかった。
 内に秘めた大きな可能性。対照的に体は小さく病気がちだった。ちょうど川崎家は自宅の電気工事を興したばかりで、毎日、目が回るような忙しさだった。そうした中、親をヒヤヒヤさせたのが小児ぜんそく。「当時は月に2,3回は病院に連れて行きました。体は小さいし、食べたものもよく戻していました」父正継とともに現場に出かけていた絹代は、朝から晩まで仕事に追われながら、どうにかしてこの子の体を強くしたいと考えていた。結果、近所にある空手道場の門をたたいた。
2「大きな声」
 初めてそでを通した真っ白な胴着。決して強そうに見えなかった男の子は間もなく道場の評判となった。川崎の指導者は「来た当初から、感性があり、スピードがずばぬけていた」と抜群のセンスに目を疑った。教えたことをあっという間に吸収し、実力をグングン伸ばしていった。
 元気の良さも天下一品だった。誰に言われるわけでもなく、人一倍大きな声であいさつするようになった。「家の前でも、通る人通る人に、こんにちはと言い、このあたりではおなじみの光景でした」
 3歳からの道場通い。冬は裸で海岸を走り、寒さに涙しながらも歯を食いしばって耐えることも学んだ。やはり3歳のころ、たまたま手にした初めてのボール。野球というスポーツの存在を知り、父・正継とキャッチボールをした。初めて捕れたうれしさが忘れられず、ますます野球を知りたいと思うようになった。
 空手、野球と出会い、ぜんそくの癒えた男の子は、いよいよ元気の良さが目立つようになった。ある日、池島保育園での出来事だ。外出先から戻った園長先生は、園児達が「人間やぐら」を組んで、屋根にひっかかった靴を取ろうとしていたことに気づき、すべてが終わった後で、園児達に教育の意味を込めてカミナリを落とした。
3「自ら申告」
 ところが次の日、川崎は「先生、ボクは怒られなくていいですか?」とやってきた。前日もう家に帰っていた川崎は、園長先生に友達が怒られたことを聞き、実はやぐらの「陣頭指揮」をとっていたのは自分だったので、「ボクだけ怒られなかったら、みんなに悪いんだもん」と言った。「そんな子でした。正義感が強いところがあって、自然とみんなも集まってきましたから」
 初めて保育園に行った日のことを、小学4年時の作文で「みんながボクをじろっと見た時、思わず大声で泣いた。優しい人もいたけど、こわい人もいて、ぼくはいつもたたかれて泣いていた」と書いている。泣き虫だった少年は、空手、野球と出会い、耐えること、怒られることも覚え、確かな成長を遂げた。(山元泰明氏の記事より)

 

「きみに読む物語」

2005-02-08 23:04:40 | Weblog
 「マディソン郡の橋」を超え、全米に「きみ読む」現象発生を巻き起こし、1200万人が愛に震えたというキャッチフレーズでした。私は「マディソン郡の橋」を見ていないので、どちらが良かったとかは言えませんが、感じたことを書いてみます。
 とある療養施設に一人暮らす初老の女性。老いこそ迎えてはいるがたたずまいも美しく過ごしている彼女はしかし、情熱にあふれた若い時代の思い出をすべて失ってしまっています。そんな彼女のもとへ通う男がいて、物語を少しずつ読み聞かせています。語られるのは1940年代のアメリカ南部の小さな町の、激しい夏の恋物語。365通の手紙、白鳥の棲む湖、などのエピソードと美しいアメリカ南部の風景、懐かしい音楽などを交えながら、ストーリーは展開していきました。
 お金持ちの御曹司を選ばずに、初恋の男を女は選びました。「お金や裕福な暮らし」より「ひたむきな愛や情熱」をとったというところでしょうか。理想と現実のはざまで迷う場面でしょうが、自分の心に素直に、正直に生きる道をやはり選びたいものですね。身分違いの恋はよくあるものですが、外見や身分など外面的なものや世間体よりも、中身や自分の素直な気持ちをとったほうが、やはり後悔がありません。恋愛に限らず何事でも、自分で後悔しない、納得のいく道を選びたいものです。
 「私はどこにでもいる平凡な人生を歩んできた平凡な男でも、ただ一つだけ誰にも負けなかったことがある。私には全身全霊を傾けて愛し続けた妻がいる。それだけで十分だ」という夫は、最後にアルツハイマーの妻が自分たちの話だと思い出してくれて本当に良かったと思います。医師の海原純子氏が「愛は、医療の手の届かない無意識の部分、魂に働きかけてそれを癒す力をもっている」と書いていますが、それを実感する映画でした。


横峯さくら選手の快挙に心から拍手です

2005-02-08 22:18:20 | Weblog
 男子選手のツアーに参加し、17位というすばらしい結果を残した横峯選手の大健闘を心から称えたいと思います。3日間、すべてアンダーパー。天才女子アマといわれるミシェル・ウィー(アメリカ)の昨年の順位(38位)を大きく上回りました。男子トーナメント挑戦で目標だった予選通過以上の成果を残し、「今回の挑戦で自信がついた」と語ったそうです。次なる夢は「アメリカでプレーしたい」と夢を膨らませているといいます。
 昨日の小象の話と関連しますが、自分で壁を作らずに、男子のツアーに果敢に挑戦するところがすばらしいと思います。また、アメリカでのプレーを夢に描いたりしているからこそ、練習も質的にも量的にも、人一倍できるのだと思います。横峯選手のさらなる飛躍を心から応援したいです。

くさりでつながれた小象の話

2005-02-07 23:20:11 | Weblog
今日ラジオで聞いた話です。小象がくさりでつながれていました。くさりから逃げられないということがわかると、くさりでつながれた範囲内で、生きるすべを習得するそうです。
 やがて小象は成長し、大きくなります。もう逃げ出そうと思えばそれは可能なのに、相変わらず、くさりでつながれた範囲内でしか行動しないものがいるそうです。
 つまり、自分を見えないくさりでつないでいたり、限界を作っていたりすると、それ以上のことは望めないということのたとえのようでした。特に心の中に、そのような壁を作っていると、心がブレーキをかけてしまったり、あるいは、思いきった行動などができなくなるということですね。心しておきたいことと思うことでした。

ホークスの宮崎キャンプに行きました。

2005-02-06 22:41:38 | Weblog
 今日は宮崎キャンプに行きました。朝10時半ごろ家を出て、12時過ぎに球場に近づきましたが、駐車場で20分くらい待たされました。さすがに日曜日だけあって、多くの人出でした。聞いたところによると、三万人ほどだったそうです。
 さて、まず腹ごしらえをしてから、球場に入りました。打撃練習の途中でした。外国人の3人が打っていました。バティスタは独特の打撃フォームでまだ軽く打っている感じがしました。カブレラは鋭い打球を飛ばし、確実性のある感じがしました。ズレータは大きな当たりを連発して調子がよさそうでした。
 今日の西日本スポーツによると、「新外国人選手に、日本の野球に早く慣れてもらうため、オレの経験を伝えていきたい」と、日本球界での先輩として、公私に手助けするつもりだそうです。ズレータ選手自身が来日したころ、「全く知らない投手、日米で微妙に異なるストライクゾーン、生活習慣の違い」など、異国の壁にぶつかった経験があり、その苦労がわかっているからだそうです。ズレータ選手にはそのような面でも外国人選手の良き相談相手になってくれそうです。今年のこの外国人トリオの活躍は、本当に楽しみです。
 残念ながら、松中選手、城島選手は打った後でした。川崎選手、柴原選手、大村選手など他の日本人選手の打撃練習を見た後、2軍の練習場に行きました。そこには、今年高校を卒業したばかりの、江川選手と、定岡選手を指導する秋山2軍監督の姿がありました。秋山ファンであるらしい妻が言うには、「秋山監督の体は本当に大きい、今でもすごく打てるかも」と興奮していました。定岡選手もルーキーとは思えないごつい体をしていました。ちなみに王監督もこちらにいました。あの王監督に2軍の選手も見てもらえるというのはうれしいでしょうし、監督にアピールしたいという気持ちも出てくるだろうと思いました。
 次は隣のグラウンドをのぞいてみると、城島選手をはじめ、捕手陣がノックを受けていました。みんな大きな声を出し合い、とても明るい雰囲気がありました。
 その隣のグラウンドでは川崎選手が、森脇コーチとマンツーマンで守備練習をしていました。指導に大きな声で返事をし、ノックの前には一球一球「さあ、こい」とさらに大きな声を出していました。毎日2時間ほど、この特別練習をしているのだそうです。最後はユニフォームもあちらこちら黒くなっていました。川崎選手のひたむきな姿勢が感じられる練習風景でした。
 その後、さらに隣のグラウンドで練習をしていた投手陣が帰ってくるところに出会いました。和田投手は、私の隣にいた女性のカメラに、アップでまるでアイドルのようにきれいな笑顔で写っていました。新垣投手はダイエーのユニフォームを着て手を出していた小2の息子の手を触ってくれたそうで、息子は感激していました。星野投手はわざわざ息子のほうに近づいてきて、握手をしてくれたそうです。このようなファンや野球少年を大事にしてくれるホークス選手に心から感謝です。
今日は日曜日ということもあり、 サイン会も開かれていたり、ステッカーの配布もあったり、少年野球教室もあったりと、ファンに対する心配りがいろいろとありました。ちなみにステッカー配布の時には、ファンが殺到して、小2の息子と私は身動きができなくなり、大変でした。
 野球教室には、松中、城島、川崎、柴原、鳥越、和田、新垣、杉内、斎藤らそうそうたるメンバーがみんな出揃い、特に妻は大変興奮していました。バックネット付近で城島選手が、上手に子ども達をほめながら指導していました。ほめられた選手は、一生忘れられない1日になったことでしょう。川崎選手は自らが球を投げ、打つ選手にあわせて、他の選手にも素振りをさせていました。松中選手も「そうそう」と大きな声で、ほめながら指導をしていました。
バスに乗ったバティスタ選手が、窓から手を出し、サインをしていたり、練習後にグーリン投手や、佐藤投手、ズレータ選手などがサインをしている姿を見ました。そのようなファンを大事にする姿勢が今日のNHKのスポーツニュースでも紹介されていました。
 それから昨日宮崎入りした欽ちゃんも球場に来ていました。小5の娘も、途中眠いと言っていましたが、そんなに文句も言わず最後までのんびり付き合ってくれました。途中アイスを食べたり、球場でかかっている音楽を聞いたり、選手名鑑を見たりしていたようです。また後半のころ、もう一度見に行きたいと思うことでした。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語1

2005-02-04 23:11:10 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(2月2日)を要約します。
1「そびえる壁」
 2000年2月、高知春季キャンプ。希望に胸を膨らませていたはずの川崎は、おびえ、おののき、孤独で長い1カ月を過ごしていた。幼い頃からプロへの夢を口にし、念願かなってホークスの指名を受けたのは、1999年11月。そのわずか2カ月後、新人合同自主トレ中には笑顔が消えた。目の前にそびえる高い壁。そこには見たことのない世界が広がっていた。
 ドラフト上位指名を大卒、社会人出が占めたこの年、ルーキー5人のうち高卒選手は川崎しかいなかった。179センチ、64キロ。もともと線が細いうえ、年齢、経験、体つきもまるで違う同期生に囲まれて、少年はひそかな恐怖心を抱いていた。1月の合同自主トレも終盤にさしかかると、室内練習場には、それぞれの自主トレ先から帰ってきた1軍の主力選手もやってくる。ブルペンに響く強烈なミット音。空気を切り裂くバットスイング。ショックだった。キャンプイン直前、高校の卒業試験のため一時帰郷した川崎に明らかな異変が起きていた。「話しかけても返事がない。ごはんもろくに食べないし、何があったのだろうかと。宗則のあんな姿を見たのは初めてでした」。父・正継、母・絹代をはじめ、家族が心配して尋ねても、首をふって話さない。キャンプ地の高知への出発直前、ようやく漏らした言葉に両親はがく然とした。「光が見えない」それは息子が漏らした生まれて初めての弱音だった。鹿児島の実家には、毎晩のように高知から電話がかかってきた。「ボールが前に飛ばない。自信が持てない。光が見えない。死にたい」。希望に燃えているはずの若者は、絶望の闇でもがいていた。
2 「かけっこ」
 2000年2月、キャンプ休日。電話越しのSOSが不安で、1週間の休みをとって鹿児島から駆け付けた絹代は、生気を失った息子と向き合った。やつれた姿に、たまらずほおを平手打ち。それも力いっぱい、3回。「いつでも帰ってきていい。あなたには帰るところがあるんだから」「でも野球をやめてしまったら、ボクには行くところがない」
 その日、親子でうなぎ丼を食べた帰り道、絹代は「かけっこ」を提案した。練習中にねんざしたと聞いていたはずの川崎が、何の違和感もなく全速力で走っていた。翌日、吹っ切れたような顔でグラウンドに姿を見せた少年は、古賀監督のもとに自ら歩みより、こう言った。「バッティングを教えてください」。スタンドで見守った絹代は「もう大丈夫」と確信したという。ほおを伝う涙をぬぐうと、そっと球場を後にした。 「今思えば、あの時つまずいたこともいい経験だったのではないでしょうか。小さい頃からずっとレギュラーで野球をやってきて、あそこまで追い詰められたことはなかった。私たちもつらかったですが、あの経験は今につながっているのだと思います」
3「光見えた」
 目を潤ませ、言葉を選びながら、当時を振り返る正継。あの後、川崎は極度のストレスと過度の練習で肝臓を悪くした。そうした中でも5月の母の日にはカーネーションを贈ってきた。そして6月。「光が見えた。ボクは野球でやっていけるかもしれない」。父の日にパターが届いたのは、それから間もなくのことだった。
 昨年12月。川崎はある高校で「プロに入って初めて」の講演会を行った。耳を傾けるのは、ちょうど自分が壁にぶつかった当時と同じ年頃の高校生。希望を胸にふくらませている若者たちに、こんなメッセージを送った。「ずっと夢見ていたプロ野球選手だけど、入った直後はついていけずにやめようかと思ったこともある。みんなもなりたいものを目指して、心に強いシンを持って頑張ってほしい」力強く語りかけた目の奥に、あの時取り戻した「光」が輝いていた。(山本泰明氏の記事より)

NHKアニメ「メジャー」第10話より

2005-02-03 23:37:48 | Weblog
 毎週土曜日6時からの野球アニメ「メジャー」を家族4人で見ています。先週の第10話において、印象に残ったことを書きます。
 元プロ野球選手でデッドボールがもとで死亡した本田茂治の息子である小4の吾郎は、父の婚約者だった幼稚園の先生であった継母に育てられています。母親も小さいときに病気で亡くなったからです。
 幼い頃から父のような野球選手を夢見てトレーニングに励み、地元横浜のリトルリーグ「三船ドルフィンズ」に入団、つぶれかけたチームの立てなおしを始めたのですが、ドルフィンズの監督からプロを目指すのであれば、名門の「横浜リトル」がよいと薦められ、練習の見学に行きます。そこで「横浜リトル」の監督から、父親がいたこのチームで野球をやらないかと誘われます。そこで吾郎の心は揺れます。「尊敬するお父さんが昔いた、名門チーム」で野球をしたいという思いを抑えられなくなり、「自分が誘った友達を裏切るような」行為を戒める母親に「野球が好きだったおかあさんが生きていたら、きっとオレの気持ちわかってくれるよ」「かーさんにオレの気持ちはわからない、ずっとオレはお父さんのことは忘れたことはない」などど言い、「横浜リトル」に入る決意をします。
 悩んだ母親は、茂治のチームメイトだった選手(茂野)に相談に行きます。「あの子が父親と同じユニフォームを着たいという気持ちはわかる。しかし友達とか、思いやりとか、約束を守るとか、人として絶対忘れてはいけないことがある。しかし結局は他人の自分には、あの子の気持ちはわかっていないのではないか」と自信をなくしていると言い、血を吐いて倒れてしまいます。
 病院に運ばれ手術を施されているときに、茂野は吾郎に言います。「今お前を愛してくれるかあさんや友達を悲しませてまで、死んだ人間の人生をなぞる方が、そんなに大事なのか」と。「胃に穴があくほどかあさんは、お前のことを心配しているのだ」とも。
 病状がよくなった母親に吾郎は言います。「もうお父さんのこと振り返るのはやめる。お父さんのことを忘れるわけではないけど、これからは大好きなかあさんと、前だけ向いて行く」と。こうして彼は、「横浜リトル」に行くことをやめました。
 色々な経験をしながら、吾郎が一歩一歩成長していく姿がよく描けています。毎回思うのですが、継母の言動は本当に立派です。明後日以降の展開がさらに楽しみです。野球好きの子どもがおられる方は、一緒に見られることをお薦めします。

「母性原理」と「父性原理」

2005-02-03 19:20:27 | Weblog
 臨床心理学者の河合隼雄氏はその著「日本人の心のゆくえ」において、文化や社会を支えている原理として「父性原理」と「母性原理」を立てています。
 「父性原理」は「切断する」ことにその特性を示し、すべてのものを分類・区別すると言います。「父性原理」では、善悪の規範が先行し、善なるものはいいが、悪なるものに対しては、徹底的な排除が行われ、「良い子だけが我が子」ということになるそうです。
 「母性原理」は「包含する」ことにその特性を示し、すべてのものを区別なく包み込むと言います。「母性原理」では、「我が子はすべて良い子」という標語により、「うち」のもの対しては絶対的平等が保証されるが、「そと」は赤の他人であり、われ関せずであるそうです。
 どのような文化・社会も、これら両方の原理をある程度共存させているが、一般的に言ってどちらか一方が優勢で、片方が抑圧される傾向をもち、ヨーロッパの文化は父性原理優勢で、アジアは母性原理優勢だということです。
 母性原理は、一切を包み込んでしまうが、それを無限の広さに拡大することは不可能なので、その範囲を限定することになり、この際、地縁、血縁などの「縁」が重要になってきます。アジアの国々では、血縁に頼るところが大きいが、日本では「家」を大切にし、養子制度などを活用し、必ずしも血縁に頼らないところが特徴で、「母性原理」の中に「父性原理」を取り入れていると分析していました。
 外国の方と接する時に、特に心しておきたいと考えさせられることでした。

巨人は1000人、西武は500人

2005-02-02 23:21:32 | Weblog
 プロ野球のキャンプが2月1日より始まりました。宮崎キャンプ入りした巨人軍は1000人、日本一になった西武は500人の出迎えがあったそうです。そして、新生福岡ソフトバンクホークスは何と1800人で、他の球団を圧倒したそうです。ファンの期待の大きさがうかがえます。
 あいにく昨日、今日と雪混じりの大変寒い天気でしたが、今日も1000人ぐらいの見学があったといいます。なかなか見に行くことはできませんが、ネットでキャンプの状況がわかるホームページも作られ、どのような内容のキャンプかわかるようになっています。ネット中継こそ諸事情によりできなくなったようですが、今までにないことで、ファンにとってはうれしいことです。
 メジャーから来た大砲のバティスタ選手も、カブレラ選手も真面目に練習に参加し、以前いたミッチエルと違い、日本の野球に溶け込もうとする姿勢も感じられ、ほっとしています。