西日本スポーツの連載記事(2月23日)を要約します。
1「源流」
重富少年野球の元監督・緒方さんは「私にとっても忘れられない子でしてね。野球を教えていて、こちらが楽しくなるというのか、いい思いをさせてくれました」と語る。19年に及んだ指導暦の中で、ひときわ強い輝きを放っていた俊足プレーヤー。それはまさしく、のちの盗塁王の源流でもあった。
自らのもとを巣立った中から初めてプロ選手が誕生した1999年の秋、すでに監督を引退していた緒方さんは、改めて川崎の戦績をひもといてみた。するとそこに、身をもって感じていた才能が数字となって浮かび上がった。
投手と打者で、チームをグイグイ引っ張っていた少年時代。「私もびっくりしたんですが、盗塁が144もあったのですよ。100個を超える選手なんてそうそういない」。3年からの4年間通算で、投手としては82試合60勝13敗2分け。当時は右打ちだった打撃でも315試合で、打率337と大活躍していたが、川崎の代名詞として、チームメイトが何より強烈に覚えていたものが「足」だった。
2「オール1位」
相手チームの監督からは「申し訳ないが、一度は川崎クン抜きで試合をさせてくれないか」と本気で申し込まれた。塁に出れば走る。1本のヒットでホームに帰ってきてしまう。内野を守らせれば、外野へ抜けそうな当たりにも追いついて、アウトにしてしまう。「審判にも‘ちょっとレベルが違いすぎる‘と驚かれて。それくらい相手にも嫌がられていました」。これこそが緒方さんのワクワクの最大の理由。守備練習では、ほとんどの打球をさばいてしまうため、どこへノックを打てば、川崎が捕れないかも研究した。ほかの選手にはちょっとない魅力に、ノックする手にも自然と力がこもった。
ずっと主役だった。運動会の短距離走では1位が指定席。6年間、ほかの誰にもゴールテープは切らせなかった。最後の運動会となった6年の時、「今年も1位だと、ずっと1位だろう」とプレッシャーをかけられたが「緊張したけど、楽しかった。走っている間がこんなに短く感じたのは初めて」。両親にはこんなセリフを持ちかえり、野球で磨きをかけた俊足の貫禄を見せつけた。
野球を始めてスピードに乗ったのは足だけではない。チームの中心選手としてのリーダーシップ。重富小のグラウンドで今も活躍しているバックネット。これは10数年前、当時の教え子達が「手作り」で完成させたものだ。「業者に頼むより、自分たちでやったほうが、教育のためにもいいと思ったんです。その作業の中で、先頭でみんなを動かしていたのが宗でした」
3「雁の巣訪れ」
当時からだれにも負けない練習量をこなしていた川崎は、自分で考えた練習メニューを積極的に仲間に提案。「次はこういう練習をしようよ、とか、自分なりによく考えてやっていた。そんな性格だから、子ども達も宗の周りに集まってきていました」
小学校最後の夏、福岡の海の中道で行われた少年野球九州大会。見事に準優勝に輝いたこの時、川崎は会場のすぐ隣、ホークスの2軍の本拠地、雁の巣球場に行った。「監督、内之倉選手がいる。すごく大きいよって、本当にうれしそうな顔で戻ってきて。準優勝したことよりうれしかったんじゃないでしょうか」と緒方さん。初めて間近で目にしたプロ野球選手。貫禄。風格。そしてかっこよさ。その光景を、12歳の少年は強い意志をもってしっかりとまぶたに焼き付けた。
卒業間近、小学校最後の文集に、自らの歩みを振り返った上で最後に「まあ、そういうのがきっかけで、プロ野球の選手になりたいと思いました。でも、そう簡単にはなれないので、これからもがんばっていきたいと思います」
目標は定まった。6年時、完全試合の実績を残して投手としての歴史にはピリオドを打った。野球一本、野手一本。地に足をつけて、大いなる挑戦が始まった。(山本泰明氏の記事より)
1「源流」
重富少年野球の元監督・緒方さんは「私にとっても忘れられない子でしてね。野球を教えていて、こちらが楽しくなるというのか、いい思いをさせてくれました」と語る。19年に及んだ指導暦の中で、ひときわ強い輝きを放っていた俊足プレーヤー。それはまさしく、のちの盗塁王の源流でもあった。
自らのもとを巣立った中から初めてプロ選手が誕生した1999年の秋、すでに監督を引退していた緒方さんは、改めて川崎の戦績をひもといてみた。するとそこに、身をもって感じていた才能が数字となって浮かび上がった。
投手と打者で、チームをグイグイ引っ張っていた少年時代。「私もびっくりしたんですが、盗塁が144もあったのですよ。100個を超える選手なんてそうそういない」。3年からの4年間通算で、投手としては82試合60勝13敗2分け。当時は右打ちだった打撃でも315試合で、打率337と大活躍していたが、川崎の代名詞として、チームメイトが何より強烈に覚えていたものが「足」だった。
2「オール1位」
相手チームの監督からは「申し訳ないが、一度は川崎クン抜きで試合をさせてくれないか」と本気で申し込まれた。塁に出れば走る。1本のヒットでホームに帰ってきてしまう。内野を守らせれば、外野へ抜けそうな当たりにも追いついて、アウトにしてしまう。「審判にも‘ちょっとレベルが違いすぎる‘と驚かれて。それくらい相手にも嫌がられていました」。これこそが緒方さんのワクワクの最大の理由。守備練習では、ほとんどの打球をさばいてしまうため、どこへノックを打てば、川崎が捕れないかも研究した。ほかの選手にはちょっとない魅力に、ノックする手にも自然と力がこもった。
ずっと主役だった。運動会の短距離走では1位が指定席。6年間、ほかの誰にもゴールテープは切らせなかった。最後の運動会となった6年の時、「今年も1位だと、ずっと1位だろう」とプレッシャーをかけられたが「緊張したけど、楽しかった。走っている間がこんなに短く感じたのは初めて」。両親にはこんなセリフを持ちかえり、野球で磨きをかけた俊足の貫禄を見せつけた。
野球を始めてスピードに乗ったのは足だけではない。チームの中心選手としてのリーダーシップ。重富小のグラウンドで今も活躍しているバックネット。これは10数年前、当時の教え子達が「手作り」で完成させたものだ。「業者に頼むより、自分たちでやったほうが、教育のためにもいいと思ったんです。その作業の中で、先頭でみんなを動かしていたのが宗でした」
3「雁の巣訪れ」
当時からだれにも負けない練習量をこなしていた川崎は、自分で考えた練習メニューを積極的に仲間に提案。「次はこういう練習をしようよ、とか、自分なりによく考えてやっていた。そんな性格だから、子ども達も宗の周りに集まってきていました」
小学校最後の夏、福岡の海の中道で行われた少年野球九州大会。見事に準優勝に輝いたこの時、川崎は会場のすぐ隣、ホークスの2軍の本拠地、雁の巣球場に行った。「監督、内之倉選手がいる。すごく大きいよって、本当にうれしそうな顔で戻ってきて。準優勝したことよりうれしかったんじゃないでしょうか」と緒方さん。初めて間近で目にしたプロ野球選手。貫禄。風格。そしてかっこよさ。その光景を、12歳の少年は強い意志をもってしっかりとまぶたに焼き付けた。
卒業間近、小学校最後の文集に、自らの歩みを振り返った上で最後に「まあ、そういうのがきっかけで、プロ野球の選手になりたいと思いました。でも、そう簡単にはなれないので、これからもがんばっていきたいと思います」
目標は定まった。6年時、完全試合の実績を残して投手としての歴史にはピリオドを打った。野球一本、野手一本。地に足をつけて、大いなる挑戦が始まった。(山本泰明氏の記事より)