アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

吉備真備と藤原仲麻呂

2016-12-14 00:34:30 | 日本古代史
 西暦752年四月九日、東大寺の中庭で大仏開眼供養が行われました。一万人の僧侶と皇族・貴族が参加して行われた国際色豊かな大イベントでした。開眼師のインド僧菩提遷那を初め、ベトナム僧仏哲、ペルシャ僧ラームヤール等が参列していました。まさに華厳による光輝く太陽の帝国がこの世に出現したのです。
 光り輝く華厳の皇国を実現するための二つの巨大プロジェクトがこの年展開されました。大仏建立と遣唐使発遣です。しかし、この大仏建立は、崩壊、混迷、騒乱への序曲となったのです。あんな巨大なモニュメントを創る国力、財力があの時の日本にあったのでしょうか? 搾取、酷使、疫病、公害、あらゆる人災が庶民を苦しめたに違い有りません。大仏の建立に成功したのは、行基の協力があったからとされていますが、私には理解出来ません。民間布教に尽くし、真の菩薩業を行い、政庁から小僧と罵られ続けていた行基がどうして? 

 荘厳な大仏開眼供養会。
 丁度この頃、四隻の遣唐使船が唐に向かっていました。
 第十二次遣唐使一行です。大使に藤原清河、副使に大伴古麻呂、そして副使はもう一人いました。吉備真備です。これは極めて珍しい事なんです。
 第十二次遣唐使の発遣が決まったのは前年でした。大使藤原清河、藤原氏初の遣唐大使です。清河は藤原北家の人で母は立野夫人で、兄の永手と真楯の母が牟呂王女でしたから、北家では主流とは言えませんが、大使に選ばれたからには教養と容貌が優れていたに違い有りません。かなり若かったと私は想像しています(生年不詳)。この藤原氏の貴公子を補佐する副使には唐に行った経験がある、大伴氏一の気骨の有る大伴古麻呂が任命されました。中々良い人事だと思いますね。しかし、この年の十一月七日、吉備真備が副使に追加任命されたんです。この時真備は藤原氏と藤原仲麻呂の為に九州に左遷されていました。勘ぐれば、九州に左遷するだけではもの足りず、遙かなる中国大陸まで遠島にしたつもりだったのかも知れません。
 真備だけではなく、藤原清河も大伴古麻呂も藤原仲麻呂にとって邪魔な存在でした。数年の間日本から消えているだけで、だいぶ独裁政権の確立に有利でしたし、三人が海の藻屑と消えればもっけの幸いと思っていたに違い有りません。その確率は五割くらいあったのですから。

 藤原氏と吉備真備の対決が始まったのは740年の広嗣の乱。からと私は思っています。
 太宰府に左遷された藤原広嗣(式家宇合の長子)は諸兄政権に協力する玄昉と真備を除くようにと、上表文を聖武天皇に奉りました。政治の得失も天地の災害も二人の責任だとしています。玄昉については、『密かに皇位を狙っている』と断じ、真備には、『田舎ものの子で器量のない小人。智有り勇有り弁有り権有り、口に邪言を弄す有為姦雄の客である』と罵っている。面白いのは、智有り勇有り弁有り権有りと認めている事です。真備は政敵からも有能と認められいたのですね。あんな凄いやつが重用されては、藤原氏の独裁はかなわないと思っていたんでしようね。この広嗣の上表文は聖武天皇の逆鱗に触れ、広嗣は反乱者として討伐されてしまいます。藤原各氏も藤原仲麻呂も静観しました。或いは、藤原氏の乱暴者広嗣を除きたいと思っていたのかも知れません。捕らえられた広嗣は裁きの席にも着かずに処刑されてしまいます
 乱の影響が有ったのかどうか? 745年、玄昉が筑紫観世音寺に左遷され、行基が大僧正に任命されます。いよいよ大仏建立の態勢が整ったのです。
 翌年、玄昉は筑紫で入寂してしまいます。広嗣の呪いと噂されていますが、藤原氏の暗殺ではないかと私は思っています。その仲麻呂の魔の手も真備には及びませんでした。東宮大夫(皇太子の師)として尽くす真備が天皇一家の深い信頼を得ていたからです。
 750年、仲麻呂はようやく真備の九州左遷に成功しますが、それにも飽きたらず、遣唐副使に追加任命させます。表向きは藤原氏一の信望を集める清河が大使、大伴氏唯一の気骨漢古麻呂が副使、日本一の知識者真備も副使、この人事は万全に見えますが、三人とも仲麻呂の政敵だったのです。この人事はかなり無理が有ったんです。真備の位階が大使の清河よりも上位だったんです。為に清河と古麻呂の位階をあげて矛盾を繕いました。
 第十二次遣唐使の派遣は藤原仲麻呂にとっては半ば成功といえます。藤原清河と阿倍仲麻呂が遂に日本に帰れなかったからです。
 この第十二次遣唐使団には大事な使命が託されていました。
 一つが鑑真とその高弟達を渡日させる事。一つは日本という国を文明国家として唐に認めさせる事でした。
 753年元旦、朝賀の席に着こうとした遣唐使一行、特に古麻呂が驚いた。日本の席次が西のチベットの下で、東の一番が新羅だったからです。直ぐに抗議する古麻呂。
「昔から今に至るまで、久しく新羅は日本に朝貢しています。ところが今、新羅は東の一番の上座に連なり、日本はその下位に置かれています、これは義にかなわない事です」
 古麻呂の抗議が叶い、新羅を西の二番に、日本を東の一番に席次を交換しました。煩わしいから、新羅とチベットに言い含めて代えたのです。大使の清河と真備がどう考えていたのかは伝わっていません。少なくとも真備はどうでも良いと考えていたとと思いますし、清河も玄宗皇帝を余り刺激したくないと思っていた筈です。その後も古麻呂の強気な外交が効をそうします。
 鑑真の招請を願いでた所、あっさりと許可されます。しかし、道士(道教僧侶)を連れて行くことが条件でした。李姓の玄宗皇帝は、同じ李姓の老子を敬愛して仏教から道教へと国教を代えつつありました。念のために、この道教は老荘の教えとは全く関係有りません。老荘というのは宗教では決して無く、むしろ哲学に近いかも知れません。老荘を簡単に説明するのは到底無理ですが、人は無に帰り宇宙と一体にならなければいけない、大体こんな具合に考えれば良いかと思います。ちなみに、私は真備は老荘の徒であったと推測しています。
 遣唐使一行は道士の受け入れを断り、鑑真の招請もあきらめてしまいます。しかし、玄宗皇帝への配慮として、四人の留学生に道教を学ばせる事にしました。ここでまた、古麻呂が活躍しました。鑑真和上自身が渡日に強い意志を持っていたなら、密航させようと言い張ったのです。
 鑑真一行の密航が決まり、鑑真は大使清河と阿倍仲麻呂の乗る第一船に乗り込み、いまや出航という時、唐の官憲の動きが活発になり、船の捜索が行われそうだ。という噂がながれ、大使清河は苦渋の選択をします。鑑真一行はやむなく下船させられます。落胆に呉れる鑑真一行を古麻呂が助けます。密かに鑑真和上と弟子達を招き、独断で自分の乗る第二戦に乗せてしまいました。古麻呂というのはまるで戦国武将のような気骨をもった人ですね。武士の原型になったのかも知れません。
『海行かば、水漬(みず)く屍、山行かば、草生す屍』これは大伴氏の家訓となった歌で軍歌の元になりました。大伴氏というのは大和朝廷随一の丈夫(ますらお)で、その大伴氏で一番の気骨漢が古麻呂だったんです。

 運命というものは不思議なものですね、鑑真が下船した第一船は強風で中国に戻され、藤原清河と阿倍仲麻呂は遂に故国の土を踏めませんでした。他の三船はなんとか日本に帰還しました。
 帰朝を果たした吉備真備と大伴古麻呂には藤原仲麻呂との死闘が待ち受けていました。
 無事帰朝を果たした副使の二人、吉備真備と大伴古麻呂も、そして第四船も754年四月に日本に帰り着きましたが、第一船は安南に漂着し、藤原清河も阿倍仲麻呂も遂に日本には帰ることが出来ませんでした。
 754年三月、孝謙天皇は真備を鑑真和上への勅使に任命しました。
「大徳和上、遠く滄波を渡りてこの国に投ず、(中略)、今より以後、受戒伝律のこと、ひとへに和上に任す」と口頭でで勅を伝える真備。この事はいかに孝謙天皇が真備を信頼していたかを物語ますが。孝謙天皇の心情は複雑だったに違い有りません。真備を嫌う藤原仲麻呂とは愛人関係に有ると噂されていたからです。いいえ、この頃までは孝謙天皇は藤原仲麻呂を愛していたと思われます。以後、その愛は道鏡の方に向かって行きます。  四月の人事で、副使の二人はともに正四位下へと昇進したが、古麻呂が左大弁(中央各省の調整官)を賜ったのに対して、真備を待っていたのは太宰府への左遷でした。大和朝廷の忠臣二人を切り離し、藤原仲麻呂は着々と独裁へと盤石の布石をしいて行きます。
 756年二月、左大臣橘諸兄臣下の佐味宮守が紫微令(しびりょう)藤原仲麻呂に「左大臣は聖上皇にたいして謀反の疑いが有る」と密告しました。激怒した諸兄は失意の内に追い詰められ、孝謙天皇に対して辞任を申し出ました。この辞任願いは慰留される事無く直ちに受理されました。藤原仲麻呂の思うつぼにはまったのです。
 756年五月、聖武上皇崩御。
 もはや藤原仲麻呂が遠慮する権力は何も有りません。
 聖武上皇の初七日が終わった日、三関(愛発、鈴鹿、不破)は閉じられ、謀反の疑いが有るとして、大伴氏の長老格大伴古慈悲(こしび)と天智天皇系の淡海三船(おうみのみふね)が逮捕されました。二人は二日後に釈放されましたが、古慈悲は土佐守に左遷されてしまいました。一族の長大伴家持は『族(やから)を諭す歌』を詠んで軽挙妄動を戒めました。これら一連の謀略を太宰府の真備はどんな気持ちで見ていたのでしょうか。真備はただ黙々と防衛の為の任務をこなしていました。
 翌757年正月、橘諸兄が亡くなった。いよいよ藤原仲麻呂の独裁恐怖政治が始まったのです。
 六月九日、勅令五条によって、橘、佐伯、大伴氏の各氏族が徒党を組むことを禁じた。明らかに三氏族への弾圧法でした。
 六月十六日、藤原仲麻呂は大幅な人事異動を行いました。橘奈良麻呂を兵部卿(長官)から右大弁(調整官)へ、大伴古麻呂は左大弁から陸奥鎮守将軍として辺境に追いやられました。さらに仲麻呂は執拗に弾圧を強行します。
 七月二日、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を初めとした反仲麻呂の大物が次々と逮捕され、厳しい糾問と凄惨な拷問が行われ、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、大伴池主、大伴駿河麻呂、小野東人らが次々と悶死していった。仲麻呂は兄の豊成さへも太宰府に左遷してしまい、完全な独裁体制を完成させました。
 翌758年八月、孝謙女帝は淳仁天皇(仲麻呂の傀儡)へ譲位し、仲麻呂は藤原朝臣恵美押勝と改名して朝廷の政治と軍事の権力を一手に集めました。
 760年、恵美押勝は六人の腹心を太宰府に派遣して、吉備真備から諸葛亮孔明の八陣(はっちん、軍陣の形式)や孫子の九地(くち、地形による戦術)を学ばせています。恵美押勝は吉備真備の実力を認めていながら、地方豪族でしかない真備を、自分の兵力を持たない真備を、侮り過ぎていたのかも知れません。九州に置いている限り安全だと思っていたのです。
 761年、大規模な新羅征討計画を発表。
 762年六月、孝謙上皇が反撃に出た。嘗ての愛人押勝の傀儡淳仁天皇から天皇権を剥奪しようとした勅令を発した。
 764年正月、孝謙上皇は造東大寺長官として吉備真備を都に呼び戻しました。この時、真備は辞表を太宰府に提出していましたが、それが朝廷に報告されない内に、いままでは殆ど藤原氏に独占されていた造東大寺長官に任命されてしまったのです。
 真備の人事が物語っているいるように、上皇陣営が次第に優位にたって行きます。
 九月十一日、追い詰められた押勝が遂に挙兵しました。いわゆる恵美押勝の乱ですね。大乱になりかねない騒乱でしたが、真備の戦略であっけない程の短期間(八日間)で鎮圧され、恵美押勝は家族従者三十四人とともに処刑されてしまいました。
 続日本紀に曰く、
 藤原仲麻呂が謀反を起こした時、吉備真備の指揮や編隊ぶりは非常に優れた軍略で、賊軍は遂に策謀に陥り、短期間ですべて平らげられた。・・・と。
 その後も真備は朝廷と日本の為に懸命に尽くし、遂には右大臣にまで登り詰めました。真備が出世そのものを望んでいたとは、私には到底思えません。真備の本質は学者であり、教師であり、啓蒙家だったんです。真備は囲碁の名人としても知られています。真備の戦略眼というのは囲碁によって培われていたのかも知れません。また、私は真備は老荘の徒であると推測しています。真備が留学した唐の、いや古代中国の政治家の多くが、昼は儒家か法家、夜は老荘の徒でした。真備も儒教を学ぶために唐に留学し、老荘の教えに出逢ったのではないでしようか。だから、出世を望まぬのに右大臣まで登り詰めてしまったのです。
   2016年12月14日   Gorou&sakon

母を殺そうとして地獄に落ちた火麻呂は実在していたか?

2016-12-05 01:12:20 | 日本古代史
愛妻恋しさ故に実の母親をも殺害しようとして地獄に落ちた、吉志火麻呂は実在したのだろうか?

 火麻呂はその悪行故に、日本最古の説話集『日本霊異記』と『今昔物語』にその名を残した。

 霊異記では火麻呂の吉志は大伴の大臣に連れられて武蔵に移住して着たと伝えています。南河内に本拠を置いていた大伴氏の誰かが(大伴赤麻呂という説があります?)傭兵、或いは隷属民として連れてきたのでしよう。武蔵国鴨郷は現在の五日市の辺りで、いまでも来野(漢字表記は自信が有りません、誰か教えて下さい)性が遺っているそうです。

 大伴氏と縁の深い豪族としては‚同国近隣(おなじきくにちかきとなり)の人と言われている紀氏がいます。紀氏は蘇我氏から分かれてきたという伝承を持っていますが。元々はみ百済の木氏や朴氏等の木偏を持つ氏族の末裔だと思われます。

 

 私は、この紀氏と火麻呂の吉志は元は同族だと推測しています。

 吉志、喜志、貴志、紀氏、いずれも音はキシで、皆大伴氏に従属していました。紀氏は貴族になり喜志や吉志ぱ隷属民、或いは庶民になったのでしよう。南河内の喜志は難波の喜志という名で総称され、富田林市に喜志という町名、近鉄南大阪線に喜志駅が有ります。

この辺り一帯が難波の喜志の本拠地だったのでしよう。

 火麻呂の吉志は武蔵の国守に赴任する大伴某かに従って武蔵に移住してきた喜志の孫かひ孫ではないでしようか? 私は火麻呂は実在していたと思えてならないのです。根拠は、

『日本霊異記』では全くのフィクションを殆ど扱っていません、特に登場人物は可成りの確率で実在の人物を扱っているのです。


 名前は本当に吉志火麻呂? それは少し怪しいと思います。

 防人の軍政は十人を最小としてその隊長を火長、五十人隊長を隊正という呼び方をしていたようです。火麻呂は防人の十人隊長,火だったのではないでしょうか、或いは炎のような心の持ち主だったから火麻呂という呼び名で伝えられたと思われます。この時代の庶民の名前は殆ど伝えられていません。正倉院に戸籍が遺っていますが、それともいい加減で、男は動物の名前だったり、麻呂がついていたりします。女はたいていは刀自がついています。因みに麻呂は坊やという意味で、刀自は奥さんとか婆さんという意味だと考えれば間違いが少ないと思います。

 女性の名前に子をつけるようになったのはこの時代からですが、藤原氏が始めたようです、隋唐文明の影響を受けた開明的な大郷族藤原氏ならではという気がします。子というのは中国では男子の尊称ですね、老子、壮士、孔子などのようにです。


 百済救済に派兵した白村江の戦いで壊滅的な打撃を受けた大和朝廷は、唐・新羅の連合軍が襲来すると思われる北九州に山城や水城を築き、筑紫の太宰府を中心に北九州一帯を要塞化して、東国から防人を徴収して守らせました。当時、西国の兵士は弱く、東国(現関東)の兵は屈強だと信じられていたのと、白村江の戦いで西国兵は壊滅状態に陥っていたからです。

 当初、防人に徴用されると死ぬか老いるかしなければ帰郷できませんでした。逃亡が相次いだ為に、たぶん西暦七百二十年前後に期間は三年と定められ、親の葬儀の為に一年の休暇が与えられるようにまなりました。火麻呂の説話は聖武天皇の御代と明記されていますから、丁度この頃、720年代の後半と考えられます。

 任期を終えたり、親の喪に服するために帰郷する防人の大半が故郷に辿り着けませんでした。防人には給金が支給されましたが、貨幣経済が浸透していなかった当時では、銭で食料などを売ってくれる人は殆どいなかったのです。東国に帰郷しようとした防人の大半が野盗の餌食になるか、仲間たちと徒党を組んで、野盗そのものになって生き抜いたのです。万葉集に収集された防人の歌には秀歌が多く、防人の悲哀と哀愁に満ちています。


 吉志火麻呂は愛妻恋しさの余り、生みの母日下部真刀自を殺そうとして果たせませんでした。霊異記と今昔物語では大罪故に地獄に堕ちるのですが、実在の火麻呂は防人を抜けて放浪したのではないでしようか? そして野盗の群れに投じたか、野盗の頭となってこの世の地獄を流離ったのです。


 というわけで、吉志火麻呂、或いは火麻呂のような男がいたと私は考えております。
   2016年12月5日   Gorou&Sakon

ニッポンを創った遣唐使

2016-11-30 01:58:53 | 日本古代史
 養老元年、多治比県守を押師(大使より格上)とした第九次遣唐使が派遣されました。大使が大伴山守、副使が藤原宇合(うまかい、藤原式家の祖)という顔ぶれでしたが、この時の留学生が凄いんです。阿部仲麻呂、下道真備(しもつみちの真備、後の吉備真備)、井真成(いのまなり)、僧玄昉、俊英中の俊英、かってない程の優秀な若者達でした。彼らが一つしかない命を擲って文明国家ニッポンを創ったと言っても過言では有りませ。

 一番有名なのが阿倍仲麻呂。

 天の原、ふりさけみれば、春日なる、三笠の山に出でし月かも(古今和歌集)

の和歌が有名ですね。最近、この和歌が紀貫之の創作では無いかと言う研究が発表されました。私もこの説に賛成です。若い頃からどうも出来すぎだと思っていました。藤原清河の漢詩をヒントに、仲麻呂の気持ちになって、望郷の念を紀貫之が歌ったという説なんです。結構リアリティが有りますよね! 

天の原 ふりさけみれば 天の川 霧立ち渡る 君は来ぬらし

 (万葉集 2068)

春日なる 三笠の山に 月も出でぬかも 佐紀山に 咲ける桜の はなの見ゆべし

 (万葉集 1887 旋頭歌 複数の人による唱和)

 この二つの歌はともに万葉集の巻十に載っている和歌です。月も出でぬかも、と、出でし月かも、は同じ意味ですから、二つを組み合わせると、全く同じ歌が出来上がります。

まあ現代だったら盗作で訴えられそうですね。でも和歌の世界はそういうものでもないそうです。

 春日山も三笠山も、特に藤原氏に縁が有りますから、藤原清河が詠んだと伝わっても不思議の無い歌ですし、紀貫之も阿倍仲麻呂が創ったとは言っていません。阿倍仲麻呂が歌ったと伝わっていると書いています。

 阿倍仲麻呂と藤原清河は遂に帰国が出来ずに、唐で客死してしまいます。二人は中華文明のなかで唐の官吏として出世します。特に仲麻呂は玄宗皇帝の寵愛を受けていました。だから中々帰国の許しが出ませんでした。皇帝だけでなく文化人達からも愛されていたようです。王維と李白とも親交が篤く、二人は仲麻呂に漢詩を送っている程で、中華の漢文化の教養に溢れ、容貌も挙措も優雅だったと伝わっています。

 義を慕って名空しくあり 忠を輪(いた)せば考は全(まった)からず

 恩を報ずるに日有るなし 帰国は定めて何年ならん

 この漢詩は、同期の真備や玄昉が天平の遣唐使と伴に帰国するとき、仲麻呂だけが帰国を許されず、望郷の念を謳ったものです。この時、仲麻呂の家人羽栗吉麻呂が混血の息子、翼(つばさ)と翔(かける)を連れて帰国します。二人の混血兄弟は通訳として日本と中国の架け橋として活躍しました。仲麻呂もまた、唐の女性と家庭を築いていたと考える方が自然です。新婚を祝ったと思われる漢詩を送られていますから。

 仲麻呂は十六歳で留学生に選ばれ、貴族の師弟しか入れない太学(たいがく、唐の最高教育機関)で学び、科挙(官吏登用試験)に合格して累進を重ね、皇帝の相談官、皇太子の相談役などを歴任して従二位まで出世をします。文明国家ニッポンを中華に認めさせた点では一番の貢献者です。

 ところで、皆さんは何時頃中国が日本という国名を認めていたか知っていますか?

八世紀に入って直ぐ、我が国は日本という国名を名乗っていますが、730年前後には、少なくとも唐政府は認めていたようです。その事が分かったのはほんの数年前です。2004年、西安の郊外で井真成という名の留学生の墓碑が発見されました。その墓碑に日本と言う国から来たと、はっきり明記されていたんです。日本という国号が刻まれた最古の文献です。
2016年11月30日   Gorou and Sakon

貴族になった船、能登号

2016-11-30 01:48:43 | 日本古代史
貴族になった船、能登号。

 奈良時代後期、淳仁天皇の御代の西暦763年、渤海使船能登号に正五位下の位と錦冠が授けられました。能登号は人であれば貴族の仲間入りをした訳です。ところが、不思議な事に、能登号の船長板振鎌束(いたぶりのかまつかさ)は罪を受け遠島に処されました。
 今回はこの話をしようと思います。

 西暦763年夏、渤海の港(現在の豆満江河口と思われます)で、渤海師節団を送り届けた能登号が日本に帰国する乗客を待っていました。
 乗客は七人、遣唐僧として唐に渡り、以後三十年間唐土を遊行遍歴していた戒融、その弟子か友人の優婆塞、優婆塞というのは得度していない僧侶の事で、遊行僧とか乞食坊主といった意味と考えてください、構成の聖のようなものだと思えばいいかも知れません。そして、渤海に留学していた楽生高内弓(うちゆみ)と妻の高氏、その長男広成、女の赤子と乳母。
 高内弓は、高句麗系の貴族高氏を妻に迎えたから高氏と称していたのか、日本名も高氏だったのかは分かりません。管弦(雅楽)を学んでいたことや長男の広成という名から渡来系の氏族だったに違いありません。

 能登号はどんな船だったのか? 遣唐使船の絵や模型を見たことが有りますか? おおむねあんな感じだと思って下さい。箱船のような船体、船室が二つ、竹で編んだ帆・網代帆を持つ帆柱が二つ、最近網代帆の上に小さな布帆が有ったことが分かりました。走行方向を補佐したと考えられます。風が無い時は艪を使いました。

 さて、三十年間も唐土を遊行していた戒融がなぜ日本に帰国しようとしていたのでしょうか? 戒融については、筑紫の僧侶としか伝わっていません。おそらく観世音寺で戒を受けた人で、遣唐僧に選ばれたのですから相当優秀か、有力者の推薦が有ったと思われます。戒融は唐土に渡って直ぐ、洛陽から出奔してしまいます。玄宗皇帝から紫の袈裟を賜った玄昉より、民間布教と社会事業に尽くした行基を認めていたようです。井上靖の天平の甍を読んだ方なら、戒融の名を覚えているのでは? 日本に帰国した普照の元に渤海経由で送られて来た甍の送り主が戒融です。今考えると、井上氏は送られてくる天平の甍から、悟りを開いた戒融がやがて帰国する事を暗示させたかったのかも知れません。
 当時の中国というのは、天災も人災も日本などとはスケールが違いました。
飢饉が始まると、草も木も、家畜は勿論、ネズミや、時には人さえ食べ尽くしたと云われています。生き抜くために子供を交換したと伝わっています。三十年の遍歴で、戒融は地獄を見、悟りを開いたと思ったのでは無いでしょうか?
戒融は空海が伝える事になる真言密教の教典と知識を持って帰国しようとしていたのかも知れません。
 戒融の事は全く記録に残っていないのですから想像したり推量するしか術が有りません。もう少し知りたいと思ったら『天平の甍』か『白虎と青龍』を読んでみて下さい。戒融の事は日出ずる国の人々の第四部で詳しく描こうと思っていますが、残念ながら三年から五年位先になってしまいそうです。

 七人の乗客を乗せた能登号は渤海を出航しました。おそらく能登福浦港を目指したと思います。能登号は能登荒木郷で建造された船でしょうね。余談になりますが、荒木というのは元々は新来から変化した地名です。新羅から来たという意味です。新来から荒来、あるいは荒木になり、現在は富来町になっています。奥能登の入り口に当たり、山を隔てた東側の七尾湾に面しては熊来郷(現中島町)が有ります。因みに熊来は高麗来から変化した地名です。
 能登号は荒木郷で建造されたまあ新羅船ですね、船長の板振鎌束は名前から検証すると、船大工だったのでないでしょうか。

 能登号の水夫たちは恐れと不安を抱いていました。「あの優婆塞は日に米粒を数粒口にするだけで生きている」、優婆塞は仏教僧では無く道士だったのかも知れません。「異国の女を三人も乗せて無事に航海できるだろうか」。
 船師(船長)と水夫の不安と恐れは現実のものとなりました。台風に襲われたのです。能登号は暴風雨に弄ばれるだけで為す術が有りません。水夫達の恐怖は遂に悲劇を産んでしまいました。優婆塞三人の異国の女性、妻の高氏と嬰児と乳母は捕らえられて荒れ狂う海に生贄として擲たれてしまいました。なんという地獄絵図なのでしょうか! 戒融は必死に祈ったに違い有りません。が、祈りは全く通じ無かったのです。戒融は唐土で経験した惨劇を超える悲劇を体験してしまったのです。

 能登号は惨劇を荒海に残して、八月、隠岐に漂着しました。
 こんな分けで能登号は官位を賜り、船師板振鎌束は罪を受けたのです。
 生き残った高内弓、広成親子と戒融のその後は、歴史は何も語っては呉れません。ただ、後年、唐政府から戒融の、渤海政府からは高内弓達の安否を問われたと伝わっていますが、我が政庁がどう答えたかは伝わっていません。

千三百年以上前にあった大東亜戦争 白村江、ハクスキエ、あるいはハクソンコウ

2016-11-24 10:53:42 | 日本古代史
千三百年以上前にあった大東亜戦争
白村江、ハクスキエ、あるいはハクソンコウ

 皆さん、大東亜戦争って知っていますか? 
 第二次世界大戦、太平洋戦争、こう言われれば殆どの人は知っていますよね。東アジアの大きな戦争、つまり大東亜戦争は、アメリカが参戦する前の呼び名なんです。戦場は東シナ海、朝鮮半島、満州平野、中国大陸での大東亜の覇権・利権争いと理解して下さい。

 大日本帝国陸軍が一方的に仕掛けた侵略戦争と言われています。エッ!海軍は違うの? そうです海軍は余り乗り気では無く、むしろ不戦論が主流を占めていました。これは陸軍と海軍の歴史を維新戦争の頃までさかのぼらになければ説明出来ません。いずれ機会を改めてお話ししたいと思います。

 この大東亜戦争、初めてじゃ無かったんです。千三百年以上前の西暦693年に白村江(現:錦江近郊)というところで起こっています。これを私は第一次大東亜戦争と言っています。
 百済救済、というよりは再興の為に大和朝廷が派兵しました。もう滅亡した百済国の為にですよ、それも大唐帝国と新羅の連合軍に対してです。少し変ですよね、理由を憶測すると?
 一つは百済が滅ぼされ、高句麗も唐と挟撃されて風前の灯火でした。次は自分の番だと恐怖にかられた事です。そんな懸念は必要無かったんですけれどもね。なんて事は今だから分かることで、当時は恐れたとしても仕方が有りません。

 少し前までは朝鮮半島の三国の中では新羅が一番劣勢だったんですが、高句麗遠征(これは隋時代からの中国の念願でした)に意欲を燃やす唐と結びました。まず西の百済を唐を滅亡させ、次に高句麗を滅ぼそうと狙っていたのです。

 もう一つは、大胆にも、日本は朝鮮半島征服に意欲を燃やしていたんです。この時代に限らず、日本の統治者たちの意識には、朝鮮半島を統治したいと想いが常に有ったんです。後世、老いの為に錯乱した秀吉が、信長の遺志を継ごうと思い込んで朝鮮に無体な侵略を仕掛けて泥沼にのめり込んでしまいました。

 信長の意識には朝鮮征伐というのは無く、むしろ明まで攻め込んで、アジアの覇権を掌中にしてヨーロッパ列強の侵略を阻止しようという思いがあったようです。西から攻めようが、東から攻めようが侵略は侵略なんですけれどもね。大東亜文化圏の覇者となる願望が帝国陸軍に引き継がれてシナ事変、朝鮮侵略、満州建国と、暴発してしまったという訳なんです。


東アジアの歴史は扶余と靺鞨の相克の歴史である。と言っても差し支えが有りません。

 扶余も靺鞨もツングース系の民族で、時の流れの中でその名前を様々に変えて呼ばれて来ました。

 現在の民族名で表記すると、扶余が朝鮮(ちょそん)族、靺鞨が満州族という事になります。ともに中国の東北地方の扶余というところを民族の起源としています。多分、元々は同じ民族で、支配者階級が扶余となり、隷属民・庶民が靺鞨となったと思われます。

 扶余(場所)は非常に気候的には厳しい所で、扶余族も靺鞨族もより温暖な土地、ユートピアを求めて南下して行きましたが、万里の長城と中華帝国に阻まれて、中国には入れず、長城を迂回せざるを得ませんでした。そして、ともに一部の人々が日本列島にたどり着き、列島の先住民・縄文人と混血したり、協力し合ったり、残念ながら征服したり迫害したりしながら、日本という国を創ったのです。日本人には扶余と靺鞨の血が入っていると言うことになります。大まかに言えば、西日本に扶余の血が濃く、東日本には靺鞨の血が濃いと考えられます。

 夷狄という言葉が有ります、元々は扶余と靺鞨を指していたとも考えられます。中華帝国の北に居る蛮人を北狄と言い、東に居る蛮人を東夷と呼ばれていました、夷狄という言葉は、必ずしも特定の民族を指すものでは有りませんでした。魏志倭人伝でも分かるように日本も東夷の一つだった訳です。

 扶余国は西暦494年に滅亡しますが、扶余の遺族は朝鮮半島に高句麗、新羅、百済王朝を築きます、勿論三国だけでなく、多くの国を興していますが、この三国に統合されたのです。

 一方の靺鞨人たちは中華にも朝鮮半島にも入れず、いわゆる満州地方から現ロシアの沿海州にかけて続々と建国、とはいっても国家というより、部族といった方が正しいと思います。王というより首領に率いられていました。そくんな靺鞨の部族が七つあったと伝えられています。

 因みに、満州というのは元々は地名ではなく民族名が起源なんです。彼らは自分たちの事をマンジュと呼びました、文殊菩薩を信仰していたからです、満州族の英雄は皆文殊菩薩の化身と自らを言い、そう信じられていました。

 扶余を征服王朝のスペシャリストといいます。高句麗王朝、百済王朝、そして倭国などを建国したと考えられるからです。私に言わせれば、靺鞨の方が遙かに凄いんです。宋(正確には北宋、南宋はその後も存続)を滅ぼして、中華に金という帝国を築き、明を滅ぼして清帝国を築くのですから。金の建国英雄が愛親覚羅ワンガンで、清の建国英雄を愛親覚羅ヌルハチと言います。因みに、アイシンとは黄金という意味の満州言だそうです。

 話が前後してしてしまいましたが、古代に戻しましょう。
 朝鮮半島の三国は、虎視眈々と統一を目指し、今日の同盟国は明日の敵国という風な具合で、しかも、倭国までが任那の支配から征服を画策していましたから、私などには皆目様子が分からないんです。

 三国の中で一番劣勢だった新羅が大唐帝国に縋った事で、様子がガラリと変わってしまいました。高句麗・百済・倭国の天孫族系(天孫降臨伝説を持つという意味)連盟国と、卵性伝説を持った漢族・新羅連盟との戦いになったのです。話としては非常に分かりやすくなった訳です。私の言う第一次大東亜戦争の始まりです。

 新羅は627年に百済から攻められた際、唐に援助を求めましたが、内戦最中の唐は救援軍を送れませんでした。高句麗遠征にて高句麗・百済が唐に対して敵対的になったことで唐と新羅との関係が親密化し、善徳女王(632年~647年)のもとで実力者となった金春秋は積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(~661年)として即位すると、更に両国の間は一気に親密化して行きす。

 大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まり。651年に左大臣巨勢徳陀子が倭国の実質的な首班となっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが採用されませんでした。

 660年、新羅よりの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍によって百済が滅亡。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置きましたが、すぐに百済遺民による反抗運動が興ったのです。
 660年に唐・新羅連合軍によって百済が滅ぼされたのち、百済の遺臣は百済復興の兵をあげ、倭国に救援を要請した。
 これを受けた倭国は、661年女帝(斉明天皇)自らが九州まで出兵しますが、崩御してしまいます。暗殺説も有りますが、68歳でしたから、お亡くなりになっても別に不思議は有りません。この女帝は中大兄皇子の母親で、皇子の十六歳の時に皇極天皇として、その後弟の孝徳天皇に譲位しますが、再び斉明天皇として重祚 します。名を宝姫皇女と言い、蘇我蝦夷との雨乞い合戦の勝利で有名です。

 皇極天皇時代にあの大化の改新が起こり、政の実権は中大兄皇子が握りました。女帝は祭事を担当していたのでしょう。

 この時代には日本特有の天皇制はほぼ確立されていた思われますが。一般庶民の間では天皇というより大王として認識されていました。

 天皇、すめらみことの意味を知っていますか? 統べる尊、だと思っている人が多いと思われますが、澄める、或いは清める尊と考える方が天皇の実体が分かりやすいんです。澄んだ清い心でお使えするお方なのです。


 さて、本題に戻りましょう。
既に主権を持っていた中大兄皇子母帝崩御の後、敢て即位せずに百済支援を続けます。
第一軍、一万余名。第二軍、二万七千。第三軍、一万余名。と伝わっていますから当時としては大変な大軍です。対する唐・新羅連合軍は一万二千程でしたから、勝てる戦だと思っていたのでしよう。だいたいこの一戦に勝ったとしても、後が持たないということが分からなかったのでしょうか。
 白村江の海戦で倭国は壊滅的な大敗をします。陸戦の方も大敗をして、命からがら日本に逃げ帰ったというわけです。

 唐・新羅連合軍の兵は殆んど女真族(靺鞨)だと伝わっています。倭軍も奴として徴用されていた靺鞨系の兵士が主力だと思われます。なんだか切なく、悲しいですよね。当時の東アジアの戦争はこんな具合に靺鞨と靺鞨が戦わせられていたんです。靺鞨兵は屈強で弓戦に優れていたんです。まさに最強の傭兵だったわけです。

 壊滅的な大敗を喫した倭国は北九州に水城や朝鮮式山城を築き、大野城と太宰府を設置して唐・新羅に対する防御線を引き、東国から防人を徴用しました。そして、朝鮮半島への野心をひたかくしにし、遣唐使を派遣するなどして唐との関係修復に勤めました。

 唐・新羅連合は次に高句麗征伐に取りかかり、668年遂に高句麗を滅ぼしてしまいました。

 新羅は念願の朝鮮半島を統一したのです。

 百済の貴族・知識者階級は悉くと言って良いほど倭国に亡命しましたが、高句麗の貴族は広大な満州に散り散りになりました。ある意味では故郷帰りかも知れません。

 唐の支配に対して、靺鞨と高句麗の遺族が独立戦争を興し、698年渤海国が建国されました。初代の王が大作栄(テジョヨン)、高句麗の貴族大氏を称していましたが、父親の名がコルコル・チュン・サンと言いますから、大氏を母に持つ混血だったのでは? と推測出来ます。

 この渤海国の支配者・知識者階級は高句麗の貴族が占め、庶民階級は靺鞨族が主でした。扶余と靺鞨が協力して建てた初めての国だと言えます。


 渤海は727年に日本に検使を派遣して来ました。以来、新羅への牽制の意味合いも合って、倭国と渤海は頻繁に使節を派遣し合います。遣唐使よりも遙かに多いんです。

 倭国、倭国と、何度も書いて来ましたが、八世紀になって倭国は日本と名乗るようになり、間もなく唐も文明国家日本を認めたようです。このことは、2004年に一人の遣唐留学生の墓碑が発見された事で明らかになりました。名前は井真成、日本国から来たれり、と墓碑に刻まれていました。日本という国名が記された最古の文献です。2005年の検唐史覧で里帰りした墓碑をご覧になった方もいるのではないでしようか。墓碑のレプリカが藤井寺市に保管されていますから、是非機会があったら観に行ってはいかがでしようか。

 奈良時代に入って初めて『日本』という文明国家と『日本人』という意識が生まれたんですね。反面、朝鮮人への蔑視も生まれてしまいました。日本の知識者階級の大半が百済系で占められたのですから、朝鮮(しらぎ)の悪口を散々言い、書いたのです。以来、日本人が朝鮮と言えば新羅を指すように成ったのです。

 815年、新選姓氏録(しんせんしょうじろく)という五畿内古代氏族の国勢調査のようなものが選進されました。皇別(皇族)、神別(天津神、国津神の子孫)、蕃別(渡来民)に分けられ、渡来系は326氏いたそうですが、新羅系の氏族は中国からの渡来民であると、殆どが届けたそうです。それだけ迫害が激しかったんでしようね。

 ところで、日本人って何なんでしようか? 日本人は存在しますが、日本族という民族は学問的にはいないんです。だから、「日本人が一番優れている」という第二次大東亜戦争を引き起こした認識は間違っているんです。学術的には日本族は朝鮮族の一種と言うことになります。血液の構成から考えると、朝鮮族、満州族、日本列島の先住民(縄文人)、南方系の渡来民などの混血なんです。

 個人的には、日本に住んでいる人の全てが『日本人』だと思います。肌の色や、宗教、文化の違いなど関係有りません。日本で暮らしている人の全てが日本人なんです。

 第二次大東亜戦争の反省も大事ですが、第三次大東亜戦争を引き起こさないように努力する事が一番です。その為には、出来るだけ偏見や差別意識を持たない事なんです。怒ったり罵ったりする前に、少しだけ相手の事を相手の立場に立って考えてみましょう。100パーセントの正義なんてあり得ません。それぞれの言い分があって、それぞれが正しいんです。日本と朝鮮の問題に絞って考えると、私たちが朝鮮の事を、チョウセンと発音しないでチョソンという発音を心がけるだけでも関係は少しだけ修繕出来るんです。東アジア全体で考えると、元々は同じ血が入っているんですから、なんとか仲良くやって行けないんでしようかねェ!?
    2016年11月24日 Gorou