アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

記憶の旅 九 復活

2018-04-04 16:44:12 | 物語
九 復活

 いざ行かん、記憶の旅へ、我に続け。

 あれからどのくらい経ったのだろうか?
 僕は過去を思い出すのがとても苦手だ。
 手掛かりになるのは二つ、1999年のT電力OL殺人事件と2011年の東日本大震
災だ。
 記憶を失ったのは東日本大震災の暮れだから、九年程経った筈だ。就籍裁判
で名前と戸籍を手に入れてから恐らく四五年というところだろう。が、余り自
信は無い。
 僕は一般市民と何ら変わらぬ日常を送っていた。
 人と違うのは極端に知人が少ないと言う事だ。厳密に言うと丸山さんと小早
川さんだけだ。
 丸山さんは再婚して親子三人でソウルで暮らしている。
 今も丸山さんの手紙を読んでいる。幸せそうな三人の写真が付いていた。本
当に良かった。
 小早川さんも家族三人で茨城で暮らしている。警備員をしているらしい。
 だから、知人と会ってお茶を飲んだり、食事をするなんて事は全く無かっ
た。

 いや、もしかしたらもう一人いるかも知れない、ただそう思いたかっただけ
かも知れない。
 僕は名前と戸籍を手に入れたおかげで自分名義の携帯が持てるようになった
ので、アパートの近くの晴海トリトンスクェアの携帯会社に出かけた。
 その時対応してくれた彼女と知り合いになった。
 彼女にとって僕はその他大勢の客に過ぎなかったが、僕にとっては唯一無二
の知人だ。
 明るく懇切丁寧に契約の手続きを進めてくれた。
 彼女の名札を見た僕は彼女に小声で話しかけた。
「薫子さん? 変わった名字ですね」
 年の頃二十七八と見えた彼女は笑窪を浮かべ、僕の耳元で囁いた。
「名前も香。薫子香。変わってるでしょ」
 喩えようも無い芳香が漂ってきた。香水では決して無い。香木だろうか?

 薫子香さんは、華奢な身体ながらキビキビと動き、笑顔を絶やさず優しく対
応してくれた。
 僕は初めてのスマートフォンの設定や使い方を習う為に、頻繁に携帯ショッ
プに出かけた。
 たまに薫子さんが対応出来ない時は本当に落胆した。が、いつもどこからと
もなく現れ、僕にお茶やジュースと微笑みを届けてくれた。
 僕は、恥ずかしながら二回りも違う女性に胸をときめかせている。

 ある日、また夢を見た
 悪夢では無く穏やかな夢だった。

 僕は山小屋の囲炉裏側で寝転んで浴衣の母親と二人の子供を見詰めていた。
 外は猛吹雪のようだ。
 薪が弾けるように炎を上げている。
 僕はその暖かさに少しうとうととしていた。
 母親と二人の子供は、不思議な事に暖かい囲炉裏から数メートルも離れたと
ころで、しかも浴衣姿だった。凍え無いのだろうか? 
 母親(多分僕の女房)は僕に笑顔を送り、乳飲み子の息子を抱き寄せた。傍ら
の揺りかごでは誕生日を過ぎたばかりの娘がスヤスヤと眠っていた。
 母親が諸肌を脱いで、息子に乳房を与えた。
 なんて美しいんだ! 彼女はまるで雪のように白い肌を持っていた。その微
笑みは慈愛に満ちていた。聖母、いや菩薩のようだった。
 僕は母親の顔を見詰め続けた。切れ長の長い目、慈愛に満ちた視線と微笑
み。広隆寺の弥勒菩薩によく似ていた。・・・ようやく思い出した。ユキコ
だ、彼女はこんなに優しい顔を持っていたのだろうか? だが二人の子供の名
前はどうしても浮かんでこない。
 消えた魔女が菩薩として復活した。

 夢から覚めた僕の脳裏に様々な妄想が駆け巡った。
 ユキコは本当に菩薩になったのだろうか?
 もしユキコ、あるいはマリアが1999年に死んで転成したとしたら? 今二十
八才になっている筈だ。今もどこかで、僕の記憶の中じゃ無く、現実の世界で
僕への復讐を伺っているのだろうか?
 魔女なのか? 菩薩なのか? 二つは同じなのかも知れない。

 数ヶ月が過ぎ、僕はまたしても新しい記憶(夢)を忘れてしまった。
 真夏の熱帯夜は僕を悩ましてとても眠る事は出来なかった。

 僕は部屋を抜け出して公園のベンチで涼んでいた。
 近くのベンチで泥酔した若い娘が横たわっていた。
 あんなに酔いつぶれていたら、変態者に襲われたり、置き引きに会ったりし
ないだろうか?
 僕の怪訝は現実となった。
 二人の男がフラフラした足取りでその娘の方に歩いて来る。
 僕は勇気をふるって立ち上がり娘のベンチの方に足を踏み出した。
 
 立ちふさがる僕に、まさか恐れをなした訳では無いだろうが、二人の男はこ
そこそと逃げ出ていった。
 ベンチでは相変わらず娘が酔いつぶれていた。
「君! こんなところで酔いつぶれていたら危ない」
 娘は僕の言葉に反応して微かに目を開いた。
「あらっ?! Gさん」
 酔いつぶれていたのは薫子香さんだった。
 僕は香を助け起こした。
 彼女は僕に抱きつくようにしてまた眠ってしまった。
「薫子さん、しっかりするんだ」
 肩を揺すると目を開けた。
「家は?」
「すぐそこ」
「一人で行けるかい?」
「無理無理、お願い、Gさん連れてって」
 仕方が無いので、僕は香を引きずるようにして部屋の前まで送った。
 彼女が鍵を取り出したがなかなか扉を開けられなかった。
「ダメ、お願い」
 僕が扉を開け、香をリビングのソファーまで運んだ。
「あーあ、苦しい」
 彼女はブラウスのボタンを引きちぎって胸を解放した。
「お水が欲しい」
 僕は冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出し、彼女の口に含ませた。が、
彼女は蒸せるだけで水を飲めなかった。
「飲ませて?」
 僕は水を口に含んで彼女の唇から口の中に送り込んだ。
 ゴクリと飲み込む香。
「もっと」
 もう一口飲ませようとする僕の唇を香の舌が襲った。
 僕の首にしがみついて唇を貪る香、その胸のブラから豊かな乳房が姿を現し
ていた。
 僕には理性等というものはかけらも残っていなかった。
 僕の掌に弄ばれる香の乳房、その乳首が立っていた。

 僕と香はベッドで身体を重ねていた。
 香は雪のように白くて透き通った、美しい肌を持っていた。
 身体は氷のように冷たく、熱帯夜で熱る僕の身体を癒やしてくれた。
「ああーっ!」
 あえぐ香、その身体が紅潮して薄紅色に染まって行く程に、麗しき芳香を放
って来た。
 この香りには覚えが有った。
 僕は香の顔を凝視した。
「はやく来て」
 香は優しく微笑んで僕の顔を引き寄せて囁いた。
「あなたは私の患者さんよ。大丈夫、かならず治してあげるわ、身体も心も」
 香は、今度は僕の両手を自分の首に導いた。
「さあ私の首を絞めて。私を殺しなさい、私の患者さん」
 僕は抗う事等出来ずに彼女の首を絞める手に力を加えた。
 夢遊病者のように彷徨する僕の目が、大きな鏡台に置かれた亜麻色の鬘を捕らえた。
 驚いて香の顔を凝視すると、彼女の瞳がエメラルドグリーンに煌めいた。
「私を滅ぼして解放されるのよ。私の患者さん」
 その後の事は全く覚えていない。総ては闇の中に消えた。

 香と出会ったのも、公園で再会したのも偶然なんかじゃ無い。
 香は、ユキコかマリアの生まれ変わりなのだろうか?
 魔女なのか? 菩薩なのか?

 世の中は常かくのみと思へども 
 いざ行かん、記憶の旅へ、真を求め
 
   記憶の旅・完    作・GOROU


   GOROU          2018年4月2日

記憶の旅 八 消えた魔女

2018-04-02 17:39:55 | 物語
八 消えた魔女

 いざ行かん、記憶の旅へ。我に続け。

 あれほど僕を悩ましていた、ユキコとマリアが現れなくなった。多分、丸山
さんと小早川さんが池袋センターから卒業して社会復帰をしたからだ。
 小早川さんがセンターを出る前日、僕に二人の話をしてくれた。二人とも衝
撃的で風変わりな人生を歩んでいた。

 僕がホームレスの達人と呼ぶ丸山さんの話を、出来るだけ主観とか既成概念
を交えずにしよう。が、余り自信が無いのも事実だ。なにしろ僕は精神を病ん
でいたからだ。

 1999年3月28日夜十時頃、丸山さんはカッターナイフで脅してマリアを襲っ
た。魔がさした訳では無い。丸山さんは絶望の絶頂にあった。
 その十日ほど前、アパートで何時ものように娘・桃子(五才)を風呂に入れて
いた。
 娘の幼い身体を隅から隅まで洗っている時、丸山さんの脳裏に悩ましいマリ
アの肢体が浮かんだ。毎日ののように勤務先のコンビニに現れる彼女に魅せら
れていた彼は、不覚にも性欲をもよおした。幼い娘が、いつもと違う父親の様
子と性器を見て怯えていた。
 その時、母親が浴室に飛び込んできた。
「あんた! 何してんのよ!」
 彼女は娘を丸山さんから引ったくって浴室を飛び出していった。
 丸山さんの女房はその夜の内に実家に帰ってしまったのだ。 溺愛していた
娘をもしかしたら永遠に失ったのかも知れない。十日の間、勤務を休まなかっ
たものの、やけくそになっていたのだ。
 マリアを襲ったが、軽くあしらわれた丸山さんは失意の内にアパートに帰っ
た。待っていたのは女房だった。鬼のような形相で彼の前に離婚届を置いて、
絶縁を迫った。
「あんたのような人でなしになんか、桃子を一生逢わせない」 丸山さんは返
す言葉も無いまま、寝室に籠もった。
 翌朝目が覚めてリビングに行くと、まだ彼女がそこにいた。観念した丸山さ
んは離婚届にサインをした。
 マリアを襲った日から十日ほど後で事件を知り、容疑者にされるのを恐れて
放浪の旅に出た。
 一年経った頃、ネパール人が逮捕されて無期懲役になった事を知ったが。な
おも慎重にホームレスを続けながら、土地勘の有る渋谷に来た。
 約五年間ホームレスをしていたが、身体を壊した事もあって、保護を願い出
て渋谷区の生活支援を受け、池袋センターに入寮した。

 小早川さんの話はもっと複雑だった。事件当時、小早川さんは先輩刑事の石
井さんとチームを組んで捜査に当たっていた。 どうやら真犯人らしき人物を
探り当てた時、突然二人は署長に呼ばれた。
 署長室から出てきた石井さんは苦渋の表情で、「俺は博多だそうだ。次はお
前を呼んでる」

 署長のデスクの前に立つ小早川(小助川)さん。
「分からないものだな? お前ら二人は馬があっていると思っていたが。石井
には小早川を連れて行って良いと言ったが、断られた。何かあったのか?」
 首を傾げて見せたが、小早川さんは思い当たる節があった。
 石井さんの細君と不倫関係に有り、その娘・陽子(五才)も小早川さんが父親
だったのだ。何よりも恐れたのは石井さんに気づかれる事だった。
「お前には函館に行って貰う」
「いやだと言ったら?」
「刑事でいられなくなるだけさ」
「俺は刑事が天職だと思ってます。何処にでも飛ばしてください」
 こうして、二人のコンビは解消された。
 小早川さんはそれでも刑事でいられたが、石井さんは麻薬組織の潜入捜査を
命じられて地獄の業火に投げ込まれた。
 函館にいても休暇には必ず東京に出てきて、真犯人捜しをしていた小早川さ
んに、五年ぶりに石井さんから連絡が有った。「ようやく尻尾を捕まえた。お
前は休暇を取って直ぐ博多に来て手伝ってくれ」
 小早川さんは嫌な予感がした。なぜ休暇をとって行かなくてはいけないのか
納得がいかなかった。
 それでも、何らかの形で決着を付けなくてはいけない。未だに石井さんの細
君・聡子と娘の陽子とは会っていた。聡子さんは離婚を決意していたのだ。
 
 深夜の博多埠頭で、小早川さんは石井さんと対決をした。
「久しぶりだな。元気そうじゃないか」
 そう言う石井さんは変わり果てていた。覚醒剤に犯されているに違いない。
「凄いヤマだ。三十億にはなる」
「確かに凄い。だけど幾らになろうと俺たちには関係無い」
「関係有るさ。山分けだ」
「二人で?」
「いや」と言って拳銃を構える石井さん。
「三人だ」
 小早川さんは背後から忍び寄る影に気がついていた。「殺される。石井さん
は復讐の為に俺を呼んだのだ」と、覚悟を決めたが、懐の拳銃を握りしめた。
 石井さんと背後の男の拳銃が同時に火を吹いた。
 転がって難を逃れた小早川さんは背後にいた男を撃った。その弾は見事に男
の頭を打ち抜いたが、彼もまた足を撃たれていた。
 足を押さえて立ち上がろうとすると、石井さんが直ぐ側で拳銃を構えてい
た。
「悪いな、これで俺一人のモノになった。家族で、愛する妻と娘と三人で海外
で優雅に過ごさせて貰う」
 二人の拳銃が同時に火を噴き、小早川さんは肩を打ち抜かれて気を失った。

 気がつくと、救急ヘリの中だった。
 傍らに同期で警視庁のキャリア組の吉溝がいた。
「やっと気がついたか。もうダメだと思った。医者もこれだけの重傷者をヘリ
で運ぶのは無茶だと言ってた」
「どうしてだ。それより石井さんは?」
「即死さ。まずいな、正当防衛とは言え現職の刑事をお前は殺してしまったん
だ」
「俺はどうなる? どうされるんだ?」
「東京の病院で治療を受ける。言っておくが、お前の名前は小早川だ」
 この時から小助川さんは小早川という名前に変えられた。
「なぜ?」
「博多の組織が躍起になって小助川という刑事を追っているからさ」
「だったら。石井さんの家族の方がよっぽど危ない」
「ああ、分かってるさ。二人の名前も小早川に変えて保護している。二人が拉
致されると、かみさんは拷問、娘は薬漬けにされて売り飛ばされる」
「大丈夫なのか?」
「日本の警察組織を見くびるな。組織には指一本触れさせない」
「どこにいるか教えくれ。国外に逃がしたのか?」
「教える事は出来ない、今はね。お前は体を治した後にミッションが待ってい
る」
「ミッション?」
「ゴビンダのいる横浜刑務所にお前を殺人犯として送る。奴の白黒を確かめて
ほしい」
「白でも黒でも関係ないんだろう?」
「まあな。・・・もう一つ、重要参考人の丸山が生保を受けて池袋にいるから
それも調べるんだ。二つともこなしたら、お前は新しい女房と娘と共に新しい
人生を送れる。刑事には戻れないが、仕事は見付けてある」
 
 小早川さんは横浜刑務所でゴビンダと仲良くなって色々聞き出して報告し
た。
 ゴビンダは白だが、限りなく黒に近い灰色だった。紗智子を殺してはいない
が、強姦して金を盗んだ。

 ゴビンダは冤罪裁判に勝訴してネパールに帰国した。

「小早川さんは真犯人を見付けたの?」
 僕は一番気にしている事をズバリと聞いた。
「ああ、100パーとは言えないけれどね」
「どうするの?」
「どうにも。・・・誰も望んでいないし、迷宮入りとして完結してるからね。
それに刑事でも無い俺には手の届かない相手なのさ」
 正直ほっとした。僕だったら、直ぐ手が届くじやないか。

 それからだ、ユキコとマリアが現れなくなった。
 よくよく考えてみれば、ユキコは僕の記憶の中に住み着いた亡霊のような存
在だったし。マリアに至っては顔から何から、全く思い出せないのだから、妄
想の産物に違いない。

 僕は一年くらい池袋センターにいて、その後他の施設に移された。就籍裁判
に備える為だった。
 就籍というのは、籍に就くという意味で、名前も本籍も分からなくなった者
の救済制度で、地検が担当する裁判だ。警察で身元が明かせなかった者も、大
抵は探し当てたと言う。
 結局僕の身元は分からなかった。半年くらいの裁判で僕は新しい名前とアパ
ートが与えられた。これで、仕事に就く事が可能になった訳だ。

 世の中は常かくのみと思へども 
 いざ行かん、記憶の旅へ、真を求め。

  GOROU
2018年3月28日

記憶の旅 六 丘の上のマリア

2018-04-02 17:34:49 | 物語
六 丘の上のマリア

 いざ行かん、記憶の旅へ。我に続け。

 男が窓から降ってきた時。丸山さんと小早川さんは屋上にいた。
 二人の話を交互に聞かされて、僕はそれが記憶になってしまった。

 保護直後、僕は七八人の精神科医をたらい回しにされ、いろいろな事を聞か
れ、いろいろな意見を聞かされた」
「あなたは記憶喪失では有りません。記憶喪失というのは、二三時間から十日
ほどで記憶が戻ります。どのくらいたちますか?」
「どのくらい?」
「記憶の無いのに気がついてから」
「たぶん・・・一月位かな」
 あまり自信が無かった。
「やはり・・・、あなたの病気は一種の記憶障害で○×△○○(難しいので覚
えられなかった)と言います」
 ショックだった。
「一生治らない・・・?」
「多分。一生記憶が戻らないと覚悟してください」
 多分・・・? 無責任な医者だ。
 他の精神科医がこんな事を言った。
「あまり記憶に囚われて、無理に鍵を開けようとすると・・・」
「開ける?」
「すると、あなたの脳の回路がショートして、本当の精神病患者なってしまい
ます」
 精神病? 今と変わらないじゃ無いか。
「で・・・?」
「悪ければ自殺に至ります」
 自殺? あの男のように飛び降りてしまうのだろうか?
 これも僕の記憶の一部になった。
 だが、記憶の旅を続けないなんて出来ない。

 そう、男が降ってきたあの時。
 二人(丸山さんと小早川さん)はこんな話をしていたそうだ。
 タバコを吸いながら暫く睨み合っていた。
 百七十五センチのひょろひょろ丸山さんは、百八十五センチの逞しい肢体の
持ち主、小早川さんに睨まれてビビっていたそうだ。
 が、先に口を開いたのは丸山さんだ。
「俺、あんたの事覚えている。・・・俺は一度見た見た人と名前は絶対に忘れ
ないのさ。あんたデカだろう。名前は小助川」
 小早川さんは高い金網により掛かって丸山さんを手招きした。
 丸山さんが近づくと、小早川さんは首を抱え込み、こう囁いた。
「確かにあの時は刑事だった。今は刑事じゃ無い。ある事件で人を殺して服役
していた」
「だったらどうしてここに来たんだ」
「偶然」
 首を解放した小早川さんは金網を少しよじ登った。
「偶然なんかじゃ無い」
叫ぶ丸山さんの前に飛び降りた小早川さんはこう言ったそうだ。
「心配しなくていい。あんたは白さ、アリバイが完全に成立している」
「たけど、俺の血と精液があの女の下着に着いていたって聞いた」
「それは、あんたがカッターナイフで脅して女を駐車場の影に連れ込んだ時の
ものだろう? 十時頃だった」
「ああ」
「女が殺されたのは十一時半から十二時かけてさ。完全なアリバイが有った」
「女房に会ったのか?」
「ああ、事件直後と三ヶ月ほど前にね。娘さん、桃子って言うそうだね。今は
中学生になってる」
お願いだから教えて欲しい。教えて下さい。娘にだけはもう一度会いた
い」」
「忘れるんだな。・・・ここを出たら、真面目に暮らすんだ。そしたら何時
か会えるさ。俺のようにね」
「小早川さんは。真犯人を知ってるの?」
「ああ。突き止めた」
「だったら・・・?」
「もうデカじゃないし、誰も望まない。知ってるだろう? 犯人に仕立て上
げられたネパール人は去年冤罪が確定して国に帰った。彼を犯人に仕立てた
のは警視庁と殺された加藤紗智子の母親さ」
「なんの為に?」
「娘のスキャンダルをもみ消したかったのさ。加藤グループの女帝が政治家
を使って総てをもみ消した」

 二人からこの話を聞いてから、この迷宮入り事件も僕の記憶になった。
 僕は怯えた。殺されたマリアはユキコじゃないのか? 小早川さんのター
ゲットは丸山さんじゃ無くて。ぼくじゃないのか・・・と。

 千九百九十九年三月下旬。桜舞う渋谷の夜。
 道玄坂の石畳を、カッカッカッと靴音高く颯爽と闊歩する一人の女性がい
た。十センチ程も有ろうかのハイヒールで大股に歩き、真紅のスプリングコー
トの裾を翻してその坂(道玄坂)を登っていく。まるで小さな旅女〔たびびと〕
が如くエルメスのトートバッグを肩にかけ、亜麻色の長い髪を風になびかせて
いた。
 彼女の華麗な容姿、真紅のコート、そして黒のエルメスとが盛り場の宵に輝
くばかりに映えた。
年のころ二十歳前後と見える彼女はいつものごとく、甲高
い声で歌を口ずさんでいた。
「ロクサーヌ」
 ポリス〔スティング〕の歌であったが、誰にもそのようには聞こえなかっ
た。恐ろしい程の音痴だったからである。

 ポリスのロクサーヌの概要を言えば。
 南米かどこかの場末の街娼に激しく恋をした男の心情を歌いあげたもので、

ロクサーヌ!
 今夜は髪を結いあげないでおくれ  客を拾うのもやめておくれ
 君にはどうだっていいじゃないか ロクサーヌ!
 今夜はそんなドレスで着飾らないでおくれ
 ロクサーヌ! 今夜は客を取らないでおくれ

「お兄さん、お茶しない」
 彼女はすれ違う男という男に、明るく高い声で話しかける。
「お兄さん、遊ぼうよ」
 男という男、彼女にとって老人であっても若者であっても、英・米人、フラ
ンス人、ドイツ、スペイン、ロシア、どの国の男でもかまわなかった。
 通称、円山町のマリアと呼ばれていた彼女はなんと十数ヶ国語を理解してい
たのである。
 外国人が何語で声をかけても即座に反応した、が、彼女の口から吐き出され
るのは嬌声と日本語だけだった。彼女は会話が苦手だった、それ以上に嫌悪し
ていた。
 音痴と会話が苦手という事の関連は筆者には良く分からない。どちらも真似
と言えば言えた。あるいは多少の関係が成立しているのかも知れない。彼女
(丸山町のマリア)は真似という事を極端に嫌い、激しく憎悪していた。

 彼女が道玄坂で客を拾うなどという幸運はほとんどなかった。
 道玄坂上の交番を必ず右折して、彼女は自分の猟場である丸山町に入って行
く。
「ずいぶん暖かくなったわね。もう春よ」という具合に交番の巡査に声をかけ
る。まるで彼女自身が佐保神になって春を呼んできたように声をかけるのだ。
 声を掛けられた巡査(彼らは皆彼女がマリアと呼ばれている街娼である事を
知っていた)はやや顔を顰めるか苦笑を浮かべる。赴任したての若い巡査な
ど、彼女の華やかさにうろたえて顔を赤らめたりするのだ。
 カッカッカッカッ! 円山町をマリアは漁る、獲物を、客を。相変わらずロ
クサーヌを口ずさんでいた。
「マリア!」
 その筋と思われる男がマリアに声をかけた。
「この間の話、考えてくれたかい」
ひとひらの桜が風に待ってマリアの頬に止まった。
「あらっ、サブちゃん、何だったかしら?」
 立ち止り、振り返ってマリアが男に聞き返した。
「うちの組は渋谷の連中」
 男はそう言って拳を額に当てて言った。
「奴等にだって顔が訊くんだ。お前みたいな商売は一人でやるには危ないぜ」
「大丈夫よ。あたしにはいつだって覚悟が出来ているわ。それよりどう?」
 街灯に照らされたマリアの瞳が青く光っていた。
「よせやい、おれは女なんぞに不自由はしてねえ」
「あらまあ、そのお面相で良く言うわね。あたしのほうが御免さ」
 笑いながらそう言うと、踵を返してまた歩き始めた。そのマリアの瞳が今度
はエメラルドグリーンに煌いた。頬の桜の花弁が頬から夜空に向かって旅立っ
た。
 マリアを他人はおそらくハーフではないかという、数ヶ国語〔実際は十数ヶ
国語〕を解し、青い瞳と亜麻色の髪を持っていたからである。
  あたしのほうが御免さ、と毒づかれた男はマリアに対して腹を立てなかっ
た。今夜だけでなくいつもである。マリアが明るくあまりにもあっけらかんと
していたからである。

 マリアは円山町ではドナウというラブホテルをたいていは使っていた。定宿
のように使うことで利益があるからだったが、なぜドナウでなければいけない
のか自分でも良く分からなかった。かすかな理由を探せば、美しく青きドナウ
というワルツに魅せられていたからからも知れない。現実のラブホテルドナウ
からはとうてい美しく青きドナウという連想は起こしようもなく裏寂れて薄汚
れていた。
 円山町には川はおろかどぶ川でさえ存在しなかった。このドナウ川のさざ波
という歌詞からはせいぜい江戸川か隅田川を連想させることが出来た。

 彼女の一日の目標は稼いだ金額ではなかった。最低三人、出来れば四人。と
自分自身に言い聞かせその達成に向かって懸命に励んだ。
 一日の旅の終わり近く、マリアは必ずといって良い程、神仙駅近くのコンビ
にによっておでんと野菜サンドを買う。おでんの種は決まってコンニャクか糸
コンニャクで、汁をたっぷりとかけ、からしを数袋要求した。たいていの場
合、レジで百円玉を千円札に、千円札を万札に両替した。
 井の頭線神仙駅を渋谷発の終電が発着した前後にその踏み切りを必ず渡っ
た。
 渡りきって松涛方面に向かって、今度は密やかに、足音を忍ばせて歩き始め
ると彼女の歌が変わる。
「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!」
 エイズでこの世を去ったフレディ・マーキュリーの歌である。
「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!」
 空しい中なんで生きるか? 見放されて先が見えてきた。それでも、わかる
か、ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!、舞台は続けねばならない。今日が終
われば明日、明日が終わればその次の日、来る日も来る日も、ザ・ショウ・マ
スト・ゴー・オン! ショウを続けねばならないのだ。
 ある意味では彼女は流離女であり、女優であったのかも知れない。

 松涛町に入ると、彼女は立止まって円山町を苦渋に満ちた顔で振り返った。
 ラブホテル街のケバケバとしたネオンの上天に清らかな星が煌き、十六夜う
月が輝いていた。
 魂を振り絞るようにして、低い声でマリアが叫ぶように呟いた。
「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!」
 
 四月五日、円山町のボロアパートで彼女の死体が発見された。殺されたのは
十日ほど前の三月二十八日。奇しくも彼女の誕生日だった。二十歳を幾つか過
ぎたと思われていたマリアは、三十八才のOLで丸山町と目と鼻の先、高級住
宅街・松濤の住人だった。

 GOROU
 2018年3月22日

記憶の旅 五 氷のようなユキコ

2018-04-02 17:32:59 | 物語
 
五 氷のようなユキコ

 いざ行かん、記憶の旅へ。我に続け。

 娘はピンクのコートを翻して坂を上っていく。
 まるでミュージカルのような軽快なステップを踏んでいた。
 ピンクのハイヒール、ピンクのトートバッグ、ピンクのドレスの胸から桜花が舞い上がった。
 僕は不自由な左足を励ましながら、懸命に娘の後を追った。
「おじさん、お茶しない?」
「お兄さん、遊ばない?」
 ユキコと名乗った若い娘は、まるで年増の街娼のごとくすれ違う男に声をかけた。
 一人の青年が反応すると、・・・
「ごめんごめん。今日は駄目なの。また今度ね」

 僕は『ドナウ』という名のラブホテルのエントランスで戸惑っていた。
 娘が僕を振り返って微笑んだ。
「どうしたの? 処女じゃ有るまいし」
 まさか、僕は金の心配をしているのだ、そっと札を数えると六枚有った。休憩だったら十分だ、だが僕の一月の小遣いの六割だ。僕たち池袋センターの入寮者は区が支給してくれる保護費の九割以上を搾取されていた。まったく酷い話だ。
 戸惑う僕を置き去りにして、娘はさっさとフロントで会計を済まして奥に消えた。
 僕が急いで後を追うと。
 娘はエレベータを止めて待っていた。

 雪のような白い肌を持った女、ユキコは氷のような透き通った身体の持ち主だった。
 暖房全開のその部屋のベッドでは心地よかった。ほとばしる汗がスーッと引いていく。
 氷のような身体。だがその中は蕩けるように熱かった。
 そして娘の白い肌が薄紅色に紅潮してゆく。紅潮するほどに甘い芳香が漂ってくる。香水では無かった。たぶん香木だ、伽羅か栴檀に違いない。
 年から(どう見ても二十歳前後に見えた)すると、李の筈が熟れた白桃のように、その蜜が僕を蕩かして行く。
「アアーッ!」
 悩ましくもあえぐ娘。
 僕は限界だった。
「ダメ! まだよ」
 娘の上で動きを止めて堪える僕は大きく深呼吸をした。
 娘は妖しく微笑みながら僕の首に腕を絡ませて引き寄せ、僕の両手を自分の喉に誘った。
 娘の唇が迫って来た。そして耳元で魔女のように囁いた。
「殺して。私を殺して」
 僕は驚いて娘を凝視した。
「お願い、殺して。お願い、違う! 命令よ」
 僕は命じるままに両手に力を込めて娘の喉を締め上げた。
 咽ぶ娘、その顔から血の気が引いて蒼白になっていく。
 狼狽えた僕は、娘の首から手を離した。
 ぐったりとしてピクリとも動かない娘。ああ! 僕は娘を殺してしまったのだろうか?!
 僕は頭を抱えて踞った。
 嗚咽に咽ぶ僕。その頭を誰かか撫でた。
 顔を上げると、娘が僕を見詰めていた。
「どうしたの? 泣きたければ好きなだけ泣くといいわ」
 そして、桜の木の下の魔女が如くに微笑んだ。

 今、娘は軽い寝息をたて、スヤスヤと眠っていた。
 僕は、その傍らで身支度を調えていた。急がなくては退寮になってしまう。
「ユキコさん」
 僕は娘に声をかけた。
 寝返りを打って僕を見る娘。今度は童女のような無邪気な微笑みを送って来た。
「もう行かなくては」
「あら、そう。もっと愉しみましょうよ」
「今日は時間が無いんだ。また、会えるよね?」
「さあ」
 僕はサイドテーブルからメモを取り上げ、携帯の番号を走り書きして娘に差し出した。
「そんなものいらない」
「お願いだ。色々話が聞きたいんだ」
「だったら大丈夫。・・・私は何時だってあなたの中にいるわ」

 なんとか五時前にセンターに帰り着けた。
 僕は、心配していたみんなの眼を避けるようにして下段の住み処に潜り込んだ。
 夕飯を食べないで寝ようとしたが、ダメだった。
 どうしても眠れない。睡眠導入剤を喉に流し込んだが、無駄な抵抗だった。
 いくら考えてもあの娘の記憶が蘇らなかった。
 僕が十年前の三十五の時に知り合ったとしたら。娘は十かそこらの小娘だ。あり得ないと思った。もしかしたら、丸山さんのように僕にも童女嗜好が潜在していたのかも知れない。
 違う! 雪のようなユキコ、氷のようなユキコ。君は本当に実在しているのか?
 ユキコ、ユキコ、ユキコ。その顔と微笑みが僕の中で木霊していく。
 
 この夜も夢を見た。
 長い長い白い砂浜の長い長いベンチ。僕はそこに座って夜の海と星々を見ていた。
 傍らでは二十歳を過ぎたばかりの若い娘が僕によりかかつていた。かすかな寝息を立てている。その肌は雪のように美しく、氷のように透き通っている。抱きしめると崩れ落ちてしまいそうだ。そっと抱きしめるだけで、夏の熱帯夜では心地よかった。 微かに動く気配に、僕はその娘を見た。
 美しい唇が僕の顔に近づいて来た。
 口吻を迫っているのかと思ったら、僕の口を通り過ぎて耳元に来た。
「わたし、知っているのよ」
 魔女のように不気味な声で囁いた。
「あんたは私を殺した」

   GOROU
2018年3月19日

   

記憶の旅 四 雪のようなユキコ

2018-04-02 17:31:34 | 物語
四 雪のようなユキコ

 いざ行かん、記憶の旅へ。我に続け。

 今僕は、渋谷に来ていた。この年の春は早く、三月末には桜は七分ほど咲いていた。
 何度来ても、渋谷は記憶の扉に響かない。みんなから言うと、渋谷は新宿や池袋と違って変わらない街だそうだ。谷底のような地形が邪魔をしているらしい。
 渋谷は二つの河川の合流点に出来た谷底の街で有る。繁華街から四方に急坂が走っていて、丘の上と駅とを結んでいる。
 しばらく徘徊したが、知っているところは見つからなかった。
 僕は数日前のインターネットのウィキペディアを賢明に思い出そうとしていた。最近のことは少しは覚えていられる。駄目なのは人の名前と顔、凄い方向音痴で来た道を帰るのさへおぼつかない。だから誰かしらが着いてくるのだ。
 また、携帯が鳴っている。
 そろそろ帰ってもいい頃だと思って携帯に出た。
「Gさん。いまどこ?」
 小早川さんからだ。
「渋谷」
「丸山さんがしょんぼりしてたよ。Gさんに巻かれたって。大丈夫・・・? 一人で帰れるかい」
 まるで小学生だ。
「ええ、駅前から池袋行きの都バスが出ているから」
「それじゃ時間がかかるでしょう。山手線に乗れば直ぐつく」
「ありがとう。でも都バスで帰ります。電車賃もったいないから」
 僕たちは都営の地下鉄とバスのフリーパスを持たされていた。
「気をつけて。何かあったら電話して。誰か迎えに行くから」
 今度は幼稚園児。我ながら恥ずかしくもあり情けなかった。
 
 僕はバス停を目指してスクランブル交差点を渡った。歩きながら用心深く場所を確認した。交差点を渡ってガードを潜って四つ角を左折。そしてビックカメラの前に池袋行きのバス停があった。
 僕はバス停を目指して横断歩道を渡った。
 渡りきった時、向かいの一○九の前で僕を見詰める若い女性に気がついた。あの目は・・・? 僕を知っている目だ。
 僕は一○九へと急いだ、痺れる左足を叱咤激励して早足で歩いた。
 ビルの前に辿り着いたが、女の姿は消えていた。
 慌てて辺りを見回したが見付からなかった。僕の勘違いだったのか? また、白昼に幻想を見たのだろうか。
 あきらめた僕の前に、その娘が飛び出して来た。
「久しぶり。生きていたの? 元気」
 間違いない。この娘は僕を知っている。
 娘は雪のように白い肌を持っていた。身体は氷のように透き通って冷たいのだろうか? なぜかそんなことが気になった。
 深紅のスプリングコートが翻って花柄のワンピースが現れた。胸の桜花が吹雪のように舞って僕の眼を眩ませた。
「僕を知ってるの・・・?」
「なに馬鹿なことを言ってるの」
 娘は少し腰を屈めて僕を見上げた。彼女は十センチは有ろうかのハイヒールを履いていたので、そうしなければ僕を逆に見下ろす事になるからだ。
「僕の名前は?」
「君の名は・・・って? 頭がおかしくなったのね。私を覚えていないの?!。人でなし」
 確かに人でなしだ。
「わたし・・・ユキコよ、分からないの?」
 僕は返事をする代わりに小首を傾げて見せた。


 GOROU
 2018年3月17日