日本霊異記に曰く。
聖武天皇は大願をおこし、天平元年(七二九)春二月八日、左京元興寺で大法会催して三宝(仏、法、僧)を供養なさった。太政大臣正二位長屋親王に僧侶接待を命じられた。その時、一人の沙弥が勝手に給仕所で列に割り込んで、鉢の中に飯を盛らせた。王はこれを見、象牙の笏で沙弥の頭を打った。頭は傷つき血が流れた。
薬師寺の僧、景戒はこの後、仏の化身の沙弥を笏で傷つけた長屋王は罰を受け、身を滅ぼしたと記している。
続日本紀に曰く。
二月十日、塗部君足と中臣東人が、「長屋王は密かに佐道(妖術)を修得し、国家を倒そうとしています」と密告した。
その夜、三関(鈴鹿・不破・愛知)に使者を使わして閉じさせ、藤原宇合らに六衛府(従来は五衛府だったが、先年、藤原房前を長官とする忠衛府を増設している)の兵を率いさせて長屋王の邸宅を包囲させた。
翌朝十時頃、舎人親王らを長屋王邸に遣わして、その罪を追求し、尋問させた。
翌十二日、長屋王は夫人の吉備内親王や子らとともに自殺した。
誠に鮮やかな手並みで、我が世の春を謳歌し、権力を欲しいままにしていた長屋王を葬り去りました。
前の年、皇太子を亡くしていた聖武天皇にとって長屋王は邪魔者だったのです。夫人の吉備内親王と共に皇位継承権の上位にいたからです。この時には、聖武天皇と藤原氏は夫人の光明子を皇后に、娘の阿倍内親王を皇太子にする事を密かかに決めていました。皇族以外の皇后も、女性皇太子も例の無い事でしたから、慎重に図られ、後年実現させています。
この事件は長屋王の乱とか変と呼ばれ、反乱という記述は有りません。冤罪だと誰もが知っていたようです。藤原氏の数々の陰謀の一つです。
続日本紀は、淡々と事実を記しています。古事記やむ日本書紀のような神話よりの書物と違って、信用する事の出来る史書です。
後年、長屋王の乱は冤罪だったと、あっさりと書いて有ります。
2016年12月16日 Gorou
聖武天皇は大願をおこし、天平元年(七二九)春二月八日、左京元興寺で大法会催して三宝(仏、法、僧)を供養なさった。太政大臣正二位長屋親王に僧侶接待を命じられた。その時、一人の沙弥が勝手に給仕所で列に割り込んで、鉢の中に飯を盛らせた。王はこれを見、象牙の笏で沙弥の頭を打った。頭は傷つき血が流れた。
薬師寺の僧、景戒はこの後、仏の化身の沙弥を笏で傷つけた長屋王は罰を受け、身を滅ぼしたと記している。
続日本紀に曰く。
二月十日、塗部君足と中臣東人が、「長屋王は密かに佐道(妖術)を修得し、国家を倒そうとしています」と密告した。
その夜、三関(鈴鹿・不破・愛知)に使者を使わして閉じさせ、藤原宇合らに六衛府(従来は五衛府だったが、先年、藤原房前を長官とする忠衛府を増設している)の兵を率いさせて長屋王の邸宅を包囲させた。
翌朝十時頃、舎人親王らを長屋王邸に遣わして、その罪を追求し、尋問させた。
翌十二日、長屋王は夫人の吉備内親王や子らとともに自殺した。
誠に鮮やかな手並みで、我が世の春を謳歌し、権力を欲しいままにしていた長屋王を葬り去りました。
前の年、皇太子を亡くしていた聖武天皇にとって長屋王は邪魔者だったのです。夫人の吉備内親王と共に皇位継承権の上位にいたからです。この時には、聖武天皇と藤原氏は夫人の光明子を皇后に、娘の阿倍内親王を皇太子にする事を密かかに決めていました。皇族以外の皇后も、女性皇太子も例の無い事でしたから、慎重に図られ、後年実現させています。
この事件は長屋王の乱とか変と呼ばれ、反乱という記述は有りません。冤罪だと誰もが知っていたようです。藤原氏の数々の陰謀の一つです。
続日本紀は、淡々と事実を記しています。古事記やむ日本書紀のような神話よりの書物と違って、信用する事の出来る史書です。
後年、長屋王の乱は冤罪だったと、あっさりと書いて有ります。
2016年12月16日 Gorou