アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

象牙の笏

2016-12-16 09:43:14 | 古代史(日本)
 日本霊異記に曰く。
 聖武天皇は大願をおこし、天平元年(七二九)春二月八日、左京元興寺で大法会催して三宝(仏、法、僧)を供養なさった。太政大臣正二位長屋親王に僧侶接待を命じられた。その時、一人の沙弥が勝手に給仕所で列に割り込んで、鉢の中に飯を盛らせた。王はこれを見、象牙の笏で沙弥の頭を打った。頭は傷つき血が流れた。

 薬師寺の僧、景戒はこの後、仏の化身の沙弥を笏で傷つけた長屋王は罰を受け、身を滅ぼしたと記している。

 続日本紀に曰く。
 二月十日、塗部君足と中臣東人が、「長屋王は密かに佐道(妖術)を修得し、国家を倒そうとしています」と密告した。
 その夜、三関(鈴鹿・不破・愛知)に使者を使わして閉じさせ、藤原宇合らに六衛府(従来は五衛府だったが、先年、藤原房前を長官とする忠衛府を増設している)の兵を率いさせて長屋王の邸宅を包囲させた。
 翌朝十時頃、舎人親王らを長屋王邸に遣わして、その罪を追求し、尋問させた。
 翌十二日、長屋王は夫人の吉備内親王や子らとともに自殺した。

 誠に鮮やかな手並みで、我が世の春を謳歌し、権力を欲しいままにしていた長屋王を葬り去りました。
 前の年、皇太子を亡くしていた聖武天皇にとって長屋王は邪魔者だったのです。夫人の吉備内親王と共に皇位継承権の上位にいたからです。この時には、聖武天皇と藤原氏は夫人の光明子を皇后に、娘の阿倍内親王を皇太子にする事を密かかに決めていました。皇族以外の皇后も、女性皇太子も例の無い事でしたから、慎重に図られ、後年実現させています。
 
 この事件は長屋王の乱とか変と呼ばれ、反乱という記述は有りません。冤罪だと誰もが知っていたようです。藤原氏の数々の陰謀の一つです。
 続日本紀は、淡々と事実を記しています。古事記やむ日本書紀のような神話よりの書物と違って、信用する事の出来る史書です。
 後年、長屋王の乱は冤罪だったと、あっさりと書いて有ります。
     2016年12月16日    Gorou

ラームヤールはどこに消えた?

2016-11-11 16:11:37 | 古代史(日本)
ラームヤールはどこに消えた?

 天文十八年(1549)八月十五日、スペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩鹿児島へ上陸、キリスト教が我国に初めて伝わる。と、云う事になっていますが、実は七世紀に伝道していました。
 続日本紀は、天平八年(西暦736)に検唐副使中臣名代が三人の唐人と一人のペルシャ人を率いて聖武天皇に帰朝の挨拶をしたと伝えています。このペルシャ人はラームヤールと言い、玄宗皇帝から李密翳いという名を賜った景教の伝道師で医者でした。因みに玄宗皇帝は李姓なので大変気に入られていたようです。当時長安には大秦(恐らくローマを意味する)寺という景教の寺院が有りました。ラームヤールはその寺院の僧侶だったと思われます。緑の瓦と白壁の塔を持った大秦寺を根拠にして景教の伝道師達は北と東アジアに散っていったに違い有りません。
 景教というのはキリスト教ネストリウス派の中国での呼び名です。ネストリウスはキリストの神性は認めたものの、キリストを産んだマリアは人であると説いたため、三位一体説のローマ教会から破門されてペルシャやインドにに逃れました。ペルシャでマニ教やゾロアスター教などと同化しました。そして中国に伝わり、仏教や道教と同化しました。更に景教はモンゴルや渤海に伝わってかなり繁栄しました。景教の特徴の一つは花弁型の十字架に有ります、どこかで見たような気がしませんか? 家紋や瓦の模様などにありますよね。また、景教が東アジアに伝道した後、聖母マリアは観音菩薩に姿を変えています。日本に伝わっていたのは確かなんですが、中々見分けがつかないんです。

 さてラームヤール、聖武天皇の生母宮子の病を治しました。また、大仏開眼供養にも参加しています。それからは? どうやら二十年位は日本にいたらしいのですが、中国に帰ったのか、伝道の旅に出たのか、日本で亡くなったのかは分かっていません。
 ここからは私の推測ですが、日本各地を伝道していたのではないでしょうか? 天狗のモデルにもなったと思われます。日本各地のキリスト伝説の源にもなりました。

 景教は中国からの伝来の他に、渤海国から日本海を経て北陸から東北地方に伝来したルートが考えられます。渤海人、特に靺鞨(まっかつ)族(満州人の祖先)は度々日本海を渡って大和朝廷に帰化しています。
 天平十八年、千百人を越える渤海人(高句麗系朝鮮人)と鉄利人(鉄利府靺鞨族)が出羽に漂着して、大和朝廷から帰化を許されました。もしかしたら、この中に景教伝道師や景教信者がいたのかも知れませんね。ラームヤールと合流して新しい郷をみちのくの奥に開いたかも知れません。
 青森の奥入瀬にキリストの墓が有るという村が有ります。昔戸来(ヘブライの意味か?)と言った新郷村です。
 ゴルゴダで処刑されたのは弟のイキリスで、イエスキリストは日本に逃れ(伝説によれば帰って、ということになります。キリストは十二才から二十三才までを日本の越の国で過ごしたそうなのです)、天寿を全うして戸来郷に葬られたそうです。本当でしょうか? こんなものは墓を科学的に調査すれは真贋は明らかになるのですが、そうもいかないし、ロマンとして残しておいても良いのかも知れません。

 新郷村にこんな盆踊りが残っています。

 ナニャドヤ~ラ~
 ナニャドナサレ~ノ
 ナニャドヤ~ラ~

 神学博士・川守田英二氏はこの歌詞を古代ヘブライ語であるとし、次のように翻訳しています。

 御前の聖名を褒め讃えん
 汝の毛人を掃蕩して
 御前の聖名を褒め讃えん

 また民俗学者の柳田国男氏はこの唄はヘブライ語ではなく、異性への語りかけ、恋歌だとしています。

 なんなりとおやりなさい
 なんなりとなされませんか
 なんなりとおやりなさい

 どちらだとしてもおもしろいですよね!
 このキリストの墓にラームヤールが眠っていたとしたら? と私の妄想は膨らみます。考古学者か歴史学者の誰かが調べてくれるといいですね。
2016年11月11日    Gorou