アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

華厳三稿 急の章

2017-03-28 02:51:19 | 物語
急の章

 あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る
 額田王に袖を振っているのは大海人皇子です。二人はかって夫婦でした。
 子ももうけています。が、その時には額田王は兄の中大兄皇子(天智天皇)の夫人でした。
 大海人皇子(天武天皇)は返歌を詠んでいます。
 紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも

 弘嗣が太刀を翳したのも、仲麻呂が盗み見したのも、阿部への求愛だったに違いありません。
 やがて皇太子になり、天皇にも成ろうという阿部に恋も結婚も無縁のものでした。女性が未婚のまま皇太子に、そして天皇になったら、夫も子も持てなかったのです。

 薬狩りの翌天平九年(737)、未曾有の災禍が平城を襲った。
 太宰府を訪れた新羅使者が持ち込んだと思える赤疱瘡が大流行したのです。
 平城で暮らす衆生を始め、公家達も次々に犯されて行きました。
 4月、参議藤原房前(57・参議)が薨去。
 7月、藤原麻呂(43・参議)と藤原武智麻呂(58・右大臣)が薨去。
 8月、藤原宇合(44・参議)が薨去。
 なんと、権勢を欲しいままにしていた、藤原四兄弟の全てが死んだのです。
 赤疱瘡は宮城の中までは侵入して来ませんでした。
 
 東宮御所の回廊で、愛菜が皇太子に縋り付いて哀訴しています。
「お願いで御座います。母が赤疱瘡に犯されました」
「この東宮に居れば安全です。嵐の中にあなたを放り出す分けにはいきませぬ」
 歩き出す皇太子を追って更に縋る愛菜、その顔は涙でグシャグシャになっています。
 由利が駆けつけて愛菜を抱きしめます。
「愛菜、梓の大将が東征中ですが、兄の内弓殿が館にいるでは有りませんか」
 鳴き崩れる愛菜を抱き起こし、耳元で囁く由利。
「殿下はあなたが可愛いから、その身を案じているのですよ」
 立ち止まる皇太子、愛菜と、抱きしめている由利を見詰めた。
「高家には、母上の施薬院から人を走らせました。眞備に命じて、李密翳(ラームヤール)も向かわせて治療に当たらせます。彼の物は赤疱瘡に精通しているそうです。皇居に疫病が入って来ないのは、李密翳の処置が正しいからです」
 皇太子はその場で正座して、平城の街の方を望んで合掌しました。
「私たちが出来るのは、ただこうして祈って仏に縋るだけです」
 皇太子を中心として、一団の采女と女孺が合掌し、瞑想して経を唱えた。
 方々から僧侶達の読経の唱名が聞こえて来た。
 この時、平城では、宮城でも市街でも、あらゆる寺院から疫病退散と死者を弔う読経が漂っていた。

 梓の夫人は高志の薫子といい、行基の姪に当たりました。高梓の高家は高志から分かれた家でしたから、梓自身も行基と遠縁に当たっています。
 薫子は幼い時に痲疹を患い、顔に目立つ程のあばたが有ったため、梓との結婚式に現れたのは妹の文子だった。
 梓は幼い日々をこの姉妹と過ごした為、妹文子の夢も知っていた。文子は伯父行基の元で出家する事を強く望んでいた。
 更に、梓は姿容だけでなく心の美しい姉薫子を愛していたので、文子との婚儀を白紙にして薫子と夫婦となった。

 その薫子が病室で赤疱瘡で臥せっていた。
「内弓、そこからは入っては成りませぬ」
 内弓は、病室に続く廊下に座っていたが。母の弱々しくも強い言葉で膝を膝を進める事が出来なかった。
「この家には、わたくしの他にも沢山の病人が居ります」
 侍女が粥と薬湯を持って薫子の傍らに侍り、助けて半身を起こさせて、匙で粥をすすらせた。
 薫子は皆吐きだしてしまった。
 次ぎに薬湯を飲ませようとする侍女を薫子が制止した。
 薫子が内弓を見詰めた。
「母上、どうかわたくしと共に興福寺の施薬院か生駒仙坊に行って下さい」
「内弓、わたくしにそんな力は残って居ません」
 内弓は目を疑った、美しかった母の顔が、痘痕と疱瘡の区別がつかない程膿疱で酷くなっていた。
「生駒仙坊の叔母、春光尼(文子)を頼りなさい。お薬や食べ物を貰って来なさい」
「母上・・・」
 無理に微笑む薫子。
「わたくしは、あなたが帰るまで死にませぬ」
 薫子は心の中で生きたいと望んでいた。夫梓の凱旋を、女孺となった愛菜に一目で良いから会いたいと切望していた。
「だから早く行きなさい」
「はい、母上」
 内弓は涙を拭いながら立ち上がった。

 馬を三条大路に走らせると、まるで地獄さながらの様相だった。
 方々の寺院から読経が轟き、あちらこちらから荼毘の炎が上がっていた。

 この時代、土葬が政令で定められていたが、赤疱瘡の蔓延を防ぐために死人を火葬にしているのだ。
 日本で最初の火葬は奇しくも行基の師・道昭であった。西暦七百年、七十二才で亡くなった道昭の遺志で荼毘に付された。行基も義淵もそれを見ていた。

 三条大路にの道端に沢山の病人が倒れ、多数の死人が転がっていた。
 その地獄絵図の中で、行基教団の僧侶達が、十人程が一隊となって走り回っていた。
「生で物を食べては成らぬぞ! 薬は生駒仙坊と施薬院の物の他は服用してはいけません」
 僧侶達は口々に叫んでいた。
 二人の僧侶が薬と韮や葱を満載した荷車を引いていた。
「韮と葱で粥を作って病人に食べさせよ! 薬湯も水で飲ませては成らぬ!」
 人々が次々とその荷車に走り寄って、食物と薬を受け取って、また走り去った。
 もう一つの荷車は二人が引き、一人が押していた。
 その荷車は筵で覆われていたが、その筵が大きく膨らんでいた。
 馬を走らせながら、内弓はその筵の荷車を凝視した。筵から人の手足が飛び出していたからだ。
 数人の僧侶が一人の女性を抱えて、内弓の行方を遮った。
「お願いが御座ります。この人はまだ生きています。どうか生駒仙坊まで運んで下さい」
「丁度行くところです。承知致しました」
 内弓の返事を待たぬ内に、僧侶達は内弓の背中に女を括り付けていた。
 それを確認した内弓は馬に一鞭入れ、生駒仙坊へと急いだ。
 背中の女は呟くように囁き続けていた。
 なれると、ようやく内弓に分かった。
「あなた、やっと迎えに来て呉れたのね、アアーッ嬉しい」
 女は内弓を、多分死んだ夫と間違えているのだ。
 女が内弓を背後から抱きしめた。その剥き出しの腕から疱の膿が破れて吹き出していた。背中にも膿が入り込んでいた。ヌルヌルとして気持ちが悪かった。

 生駒仙坊に内弓が駆け込むと、数人の僧侶が走り寄って背中の女を下ろした。
 女が背中から下ろされた内弓は、落馬同然にして地べたに倒れ込んだ。
 建屋から荷物を背負った春光尼が出て来て内弓を見下ろした。
「わたしはこれからあなたの館に参ります」
 春光尼に馬が引かれてきた。
「今頃は医の心得の有る三人の僧侶がついている頃です」
 内弓が自分の馬に乗ろうとすると、
「あなたは後から来なさい。赤疱瘡は膿から感染します。早く湯殿に行って、全身を拭い、薬湯を飲み、衣服を新しい物に着替えてから来るのです」
「分かりました。母と家人を頼みます」
 春光尼はもう馬上の人となって走り去っていた。

 湯殿では老沙弥が待っていて内弓の身体に熱湯をかけ、丹念に拭って呉れた。
「傷は無いじゃろうな、病巣は傷を好む」
「はい、何処にも傷は負って下りませぬ。有り難う御座います。赤疱瘡はいったい何時になったら収まるのでしよう」
「誰にも分かりはせぬ。神でも仏でも分からぬ事は有るものじゃ」
 老沙弥は内弓に薬湯を渡した。
「極めて苦いが、良く効くぞ、全て飲み干すのだ」
 言われた通りに飲み干す内弓、余りの苦さに咳き込んだ。
 老沙弥が一かさねの衣服を持ってきて内弓に手渡した。
 急いで袖を通す内弓、着替えた時には、あの老沙弥は姿を消していた。
 内弓は会った事が無かったが、彼のお人こそが行基禅師であった。

 内弓が館に駆けつけた時には既に母は息を引き取っていた。
 数日後、梓が東夷から凱旋したが、数日の間、まるで抜け殻のようになってしまった。
 
 赤疱瘡は藤原氏に取って恐ろしい災禍でありました。
 藤原氏を除きたいと思っていた、時の政庁の首座、橘諸兄にとって千載一遇の機会が訪れたのですが。思惑は悉く外れてしまいました。
 藤原氏の二世達は、仲麻呂と豊成の元で益々結束を固め、更なる権力を集め、兵力も強固なものに成りました。
 藤原氏では式家の弘嗣だけは仲麻呂達と袂を分かちました。

 赤疱瘡の猛威が収まった平城は、嵐の過ぎた秋空のように穏やかで、澄み渡っていました。
 
 東宮の瓢箪池で、阿部はこの年の吉野行脚を思い出していました。

 國栖(くにす)らが 春菜摘むらむ 司馬(しま)の野の しばし君を 思ふこのころ 

 阿部は、赤疱瘡の災害が更なる災禍の先触れのような気がして成らないのです。心の休まる時はありません。

 阿倍の心配を他所に、良きことが続きました。
 姉の井上内親王の白壁王への降嫁が決まったようです。
 年末には、玄昉の祈祷と李密翳の煎薬が効き目を現し、皇太夫人(藤原宮子)が鬱病を克服して聖武天皇と親子の対面を果たしました。

 年が明けて、天平十年一月十三日、阿部は晴れて皇太子と成りました。
 この年の七月七日、天皇は大蔵の省に出御して相撲を御覧になった。
 相撲節会の優勝者は、弘嗣お抱えの巨漢力士が仲麻呂お抱えの長身力士を突き飛ばして圧勝した。
 天皇はその場で力士を褒め、絁を五疋給えた。
 力士は弘嗣の方を見ると、躊躇無くその絁を謹んで皇太子に捧げた。
 絁などの粗く粗末な絹を皇太子が着ける筈も無かったが、阿部はこの贈り物を大層お喜びになった。

 夕方、西池宮に場所を移して七夕を祭る事と成った。
「人は皆それぞれのこころを持ち、好む所はおなじではない」
 と、御殿の前の梅の木を指さして仰った。
「朕は、去年の春からこの梅の木を観察して、良き詩を作りたいと願ったが、未だに果たしていない。そこで今夜は、梅や桜や七夕に因んだ詩を皆で愉しみたいと思う」
 聖武天皇はそこに集う公達を一人一人見回して、早く詠えと促している。
 眞備が膝を進めて申し上げた。
「臣(やっこ)眞備がかしこみて申し上げます。先年身罷った山上憶良と赤疱瘡に倒れた人々を偲んで一首」
 春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ
 
 諸兄が天皇の御前に膝を進めて一首詠んだ。
 天の川 いと川波は 立たねども さもらひかたし 近きこの瀬を
 更に、公家たちが膝を進め、それぞれに詠った。
 秋の野に 咲きたる花を 指折り、かき数ふれば、七種の花
 天の川 浮津の波音、騒くなり 我が待つ君し 舟出すらしも

 この場の誰もが万葉屈指の歌人山上憶良を偲んだ。

「眞備、なにやら湿っぽくなって、やるせない。趣向を変えよ」
「はい、臣は美しい七夕の詩を知っております」
「なにじゃ?」
「二星(じせい)に御座りまする」
「良きかな。これへ篳篥と笙を持て」
 篳篥が聖武に、笙が光明子に渡された。
 この時、皇太子と井上内親王が顔を見あわせ、そっと席をたって、奥に消えた。
「朕が、即興で曲をつけよう」
 篳篥と笙を構える天皇と皇后。
「おそれながら、一つ足りませぬ」
「竜笛であろう」
「はい、この場に竜笛の名手を呼んでも構いませぬか」
「許す」
「お許しが出たぞ、鼓吹司高内弓」
 呼び上げると直ぐに、竜笛を持った若者が姿を現した。
「中衛府の中将高梓の長子で御座います」
「そうか、内弓とやら近う寄れ」
 内弓は天皇の少し前で傅いた。
「それでは朕の声が聞こえぬ。もっと寄れ」
 内弓は眞備を振り返って伺いを立てている。
 眞備が大きく頷いた。
 正面に向き直ると、皇后が優しく微笑んでいた。
 内弓が膝を進めると、三人で曲想を打ち合わせ始めた。

 舞台下手に立った眞備が皆に呼びかけた。
「だれか、この老人を助けてくれる方はおらぬか」
 弘嗣と仲麻呂が立ち上がって眞備の左右に立ち、睨み合った。
 三人は舞台に正座をして、天皇達の楽の音を待った。
 采女の由利は、何故か篝火の向こうを見詰め続けていた。佐伯五郎が護衛の為に居る筈だったからだ。

 皇后の笙が厳かに、帳の降りた西池宮に降り注いだ。
 胡蝶の出で立ちの二人の舞姫が舞台に現れた。胡蝶の羽根の代わりに長い領巾を肩にかけていた。
 彦星の皇太子が上手から、織姫の井上が下手から舞ながら中央に向かい、七夕の逢瀬を果たそうとしていた。
 篳篥が地上に鳴り渡り、竜笛が天と地の間を彷徨うが如く啼いていた。

 眞備が低い声で朗唱した。
 二星、たまたま逢えり、未だ別諸依依の怨みを叙べざるに
 弘嗣と仲麻呂が、高く澄み渡る声で二の句を継いだ。
 五夜まさに明けんとす、頻りに涼風颯々の声に驚く

 阿部彦星と井上織姫が、天の川で再会を果たし、優雅な舞で喜びをあらわしていた。

 この時、この場所だけで、阿倍皇太子にも、井上斎宮にも、眞備、弘嗣、五郎にも、管弦を奏する両陛下にも華厳の世界が実現していた。

 奈良時代、人々は夜明けと共に起き、農民は野良へ、官吏は宮城へ向かった。
 吉備真備は館から夜明けと共に東宮を目指した。皇太子に四書五経の講義をする為だ。
 東の空が朝焼けで真っ赤に燃えていた。
 そのかぎろひを見ながら、皇太子阿部をいかに教育していくか考え込んでいた。また、嫌な噂に頭を悩ませていた。
 東宮への回廊で橘諸兄と遭遇した。
「橘の大臣(おとど)」
 眞備の呼びかけで立ち止まる諸兄。
「眞備先生、何か?」
「妙な噂を聞きました。本当に決まったのですか?」
「ええ、参議の全員で決めました」
「いけません、それだけはいけません!」
 いつも冷静沈着な眞備が珍しくも語気を荒げていた。
「たかが小僧一人を追い払うだけです」
「たかが小僧? 野に放てば虎に成ります」
「太宰の小弐に何が出来ましょう」
「太宰の師は唯の飾り。小弐に赴任した弘嗣は、必ず九州を手の内に入れて大軍を養います」
「まさか、朝廷に反乱するとでも」
 諸兄の顔が歪んでいた。
「朝廷に仇なすとは思えません。弘嗣殿は粗暴の嫌いは有りまするが、朝廷への誠心を持っています。平城に留まらせ、南家を牽制させるのが、良策かと」
「最早取り消せぬ。勅諚が下りてしまった}
{恐れながら大臣、貴男様の罷免を要求して来ます。平城のもう一匹の虎が呼応したらいかがなさるお積もりか」
 膝をついて頭を抱える諸兄、眞備の言葉で事の重大さを悟るが、時既に遅かった。

 天平十年(738)十二月四日、従五位下・藤原朝臣弘嗣は太宰府の小弐に任じられた。
 その弘嗣を仲麻呂が訪れた。
「貴公は九州を纏めろ、俺は平城の藤原を固める」
「何を企んでいる。仲麻呂、俺は貴様には踊らされぬぞ」
 仲麻呂は橘諸兄政権を倒す事を弘嗣に仄めかしていたのだ。
 
その下旬、阿部皇太子は生駒の紫野で薬草を採取していた。冬の盛りのこの時期、採取出来る薬草には限が有った。
 阿部は街道を見詰め続けていた。幼い頃、凜々しく颯爽としていた仲麻呂に憧れ、恋をした。今は、何故か野卑と蔑んでいた弘嗣が恋しいのだ。

 平城から太宰府に行くには、三条大路を抜けて暗越街道から難波津、そして難波津から船で九州に渡るのが通常である。
 弘嗣は必ずこの街道を通ると、夜明けからこうして待っていたのだ。

 昼過ぎに弘嗣一行が姿を現した。
 馬上の弘嗣は、紫野に佇む阿部に気が付かない。
「由利、弓を」
 由利から受け取った弓で鏑矢を虚空に放った。
 鏑矢の飛翔音でようやく阿部に気付く弘嗣、馬を走らせて近づいて来た。
「来ては成りませぬ。弘嗣殿来ては成りませぬ。来たら別れが辛くなりまする」
 阿倍の呟きは弘嗣まで届かなかった。
 阿部は大きく首を振って弘嗣を制止しようとすると、気付いたのか? 弘嗣が馬を止めた。が、笑顔を浮かべて袖を振った。
 幾筋もの涙が阿倍の頬を伝った。
 雪が紫野に降ってきた。その雪は忽ちの内に視界を阻んだ。
 安部は更に涙する、何故か二度と弘嗣に逢えぬ気がしたからだ。

 太宰府に赴任した弘嗣は暫く温和しくしていた。が、眞備の予言通り大軍を
集めていた。

 弘嗣が遂に仲麻呂の罠にはまった。
 続日本紀に曰く。
 天平十二年(740)八月二十九日、太宰小弐・従五位下の藤原朝臣弘嗣が表を奉り、時の政治の得失を指摘し、天地の災異の原因になっていると陳べ、僧正の玄昉 法師と右衛士督・従五位上の下道朝臣眞備追放を言上した。
 弘嗣は玄昉を毛嫌いしていたが、眞備には一目置いていた、秘かに敬愛もしていた。只皇太子の師として安部の近くにいる事に嫉妬していたのだ。
 弘嗣の本心は橘諸兄の失脚にあった。が、子供のように只をこね、憤っていただけで有った。

 更に、
 九月三日、弘嗣が兵を動かしたのを反乱とみなし、天皇は勅を下して、大野朝臣東人を大将軍に任命して弘嗣征討軍を太宰府に発した。
 皮肉にも大野東人は、弘嗣の父・宇合の副官だった男であった。
 この人選の影に潜む物を誰も気が付かない。彼は仲麻呂と通じていた。いや、眞備だけは見抜いていた。

 九月五日、東宮に、安部皇太子を囲んで、光明皇后、吉備真備、中衛府大将と成った高梓とが、弘嗣の乱について相談し合っていた。
「あの子は乱暴者ですが、朝廷に弓を引く等出来ない子です。只をこねているだけ」と言いながら、皇后は梓の手を握った。
「弘嗣は梓、そなたの言うことなら聞いてくれる筈、中衛府を率いて太宰府に行ってはくれまいか」
 安部は拝むようにして梓を見詰めた。
 眞備が意見を具申した。
「大野東人軍が弘嗣を捕獲したなら、必ずやその場で斬首するに違いありません。梓の大将、一刻を争いまする、直ぐにでも出立して下さい」
 皇后の手をそっと外した梓が平伏して言上奉った。
「臣高梓、恐みてお役を引き受け致します。明日にでも兵を発しまする」
 この時眞備は、弘嗣は乱暴者だが話せば分かる男と見ていた。梓と共に必ずや朝廷の両輪になるとまで確信していた。

 翌日の深夜、梓の指揮する中衛府将兵二百が平城から北九州へと出征した。
 秘密を守る為に、深夜小人数に分けて平装での出発だった。
 朱雀門の楼から見送る、皇后と皇太子と由利。
 阿倍は梓に篤い信頼を持っていたので、必ず使命を果たしてくれると信じていたが、ふと不安が脳裏を過ぎり、弘嗣を見送った紫野を思い出した。
 あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る

 由利はまるでこの世の分かれみたいに、副官に任命された佐伯五郎を見詰め続けた。言いようの無い不安で心が苛まされた。
 一日(ひとひ)こそ、人も待ちよき、長き日を、かくのみ待たば、有りかつま
しじ
 君が行き、日長くなりぬ、山たづの、迎へを行かむ、待つには待たじ
 二人の逢瀬で詠い舞った情景が由利の脳裏に蘇った。

 梓軍が二百しか居なかったのは、戦闘行為自体が目的で無かったからだ。
 だが、梓の本拠河内などで兵を募り、難波津では五千に成り、軍船で北九州へと急行した。

 この年の暮れにかけて、北九州に東人と弘嗣軍と梓軍が互いを求めて徘徊し
た。
 いや、徘徊する謎の軍団がもう一つ有った。仲麻呂の密命を受けた壱岐軍が弘嗣軍を擬して動いていた。この軍団の狙いは梓の命だけで有った。

 弘嗣は初めて世の中の恐ろしさを知った。式家の御曹司として育った甘えがあった。朝廷に弓を引くなど一時なりとも無かったが、今は賊軍にされ、征討軍が九州に向かっている。
「兄じゃ、是非も無い、もう後へは戻れぬ」
 弟綱手の言葉でようやく本気で兵を募り、近畿の藤原氏に檄文を送った。

 近畿の藤原氏は誰もが無視し、南家の豊成などは自らを幽閉し、災難から身を守ろうとした。式家までもそれに習って災禍を避けようとした。
 仲麻呂だけは、天皇の近衛兵を指揮していた。豊成と仲麻呂を引き離し、仲麻呂を厳しく監視するための、眞備の策だ。この近衛隊には、藤原氏に縁のある者は一人たりとも加えていない。

 九月二十二日、官軍と弘嗣軍は戦端を開いたが、弘嗣軍は散々に打ち砕かれて敗走した。
 十月九日、弘嗣軍一万と官軍六千が板櫃川を挟んで対峙した。
 官軍の隼人達が河岸に出て、隼人言葉で弘嗣軍の隼人兵に投降を叫ぶと、弘嗣軍の隼人隊は矢を射るのを止め、静まりかえった。
 官軍の将軍が二騎河岸に出て来て弘嗣を呼ばわった。
「弘嗣見参! 臆したか弘嗣」
 騎馬の弘嗣が一人で対岸に立った。
「勅使到来と承る! 誰の事であるか」
 官軍の二人がそれぞれに応えた。
「我こそは、内乃兵(うちのつわもの)衛門督佐伯大夫である」
「小童! 我が名を聞いて驚くな! 式部少輔阿倍大夫とは俺の事だ。分かったか!」
「あい分かった」と下馬する弘嗣、丁寧に二度頭を下げた。
「臣弘嗣、恐みて申す。我らは朝廷に弓を引く者では有りません。朝廷に仇なす二人を引き渡すように嘆願しているだけで御座る」
「小童良く聞け! ならば、どうして軍団を率いて押し寄せて来たのであるか!」
 弘嗣は佐伯大夫の大音声に悄然として騎乗の人と成り、軍の中に消えた。
 その様子を伺っていた弘嗣軍の兵士四五十人程が河に飛び込んで官軍に投降した。
 この後、弘嗣とその軍団が姿を消した。

 その頃、梓軍も北九州に上陸して弘嗣軍を求めて東奔西走していてたが、その行方がようとして分からなかった。
 十月二十日未明、遠賀川河口の梓軍の軍船に一人の兵士が泳いで来た。
 弘嗣の密使で有ると言う。
「中衛府大将が官軍に加わっている事を弘嗣将軍は知りません。証が欲しいと言うておられます」
 梓の横に侍っていた佐伯五郎が口を挟んだ。
「その前に、弘嗣軍の証が欲しい」
 その兵士は黙って刀子を梓に献じた。
 松明に翳して確かめる梓。確かに刀子に藤の紋章が飾ってあった。弘嗣の紋章に間違いなかった。
「この書状は、やんごとなきお方の文である。弘嗣殿に渡して頂きたい」
 文を押し頂いて懐に収める兵を独木舟が対岸に送った。
 夜が明けると、一人の将軍が対岸に佇み、太刀と鎧甲を皆脱ぎ捨て、梓に恭しく礼を捧げた後に、平城の方角を望んだその将軍は匍匐礼で恭順を表した。
 独木舟に飛び乗った梓は対岸に向かった。
 十艘程の独木舟が後を追った。
 佐伯五郎は梓の傍らに立ち竦み、匍匐礼の弘嗣将軍を睨んでいた。
 水鳥が一斉に葦の茂みから飛び立った。
 かぎろひの創る逆光の為、梓軍は匍匐礼の将軍が笑っていたのを、不覚にも見逃した。

 板櫃川の会戦に敗れて敗走した広嗣軍は新羅に逃れようとしたが、十月二十三日捕らえられた。
 十一月一日、大野東人は広嗣と綱手の兄弟を唐津で、聖武天皇の勅(斬首せよとは命じていない)を無視して斬首してしまった。

 十一月十日、平城の朝は常にも増して赤くかぎろひていた。
 皇太子への講義の準備をしていた眞備の元に二つの悲報が届いた。高梓と佐伯五郎の戦死、そして弘嗣兄弟の処刑である。
「おのれ小童、朝廷の両輪と成るべき忠臣を罠にかけおった」
 膝を落として蹲る眞備は天地神明に誓った。「必ずや、この眞備が仲麻呂の小童を撃ち砕いてみせましょう」
 よろよろと立ち上がった眞備は、気を静めると、皇太子の待つ室へと歩を踏み出した。

 東宮の一室で、眞備を待つ皇太子と由利。この朝の講義予定の孟子を必死に読んでいた。
 由利が孟子から視線を外して西の方角を望んだ。水鳥の騒ぐ音が聞こえた気がしたからだ。
「五郎殿」
 呟く由利に、阿倍も顔を上げた。
「梓の大将はご無事なのでしょうか?」
 由利の本心は、勿論梓では無く五郎の無事だ。
「由利は心配しすぎです。きっと今頃は使命を果たして平城を目指して居ります」
 阿倍は父・聖武の勅令を知っていたから安心していた。
 弘嗣兄弟は平城で詮議にかけられ、さして重くない処罰を受ける物と堅く信じいた。

 そこへ、眞備が青い顔で入って来た。
 驚く二人。
「先生、何か有ったのですか? まさか病では」
 眞備は今朝の悲報を今は言うまいと決意した。
 二人の前に正座した眞備は、居住まいを正して、微笑もうとしたが、顔が引き攣っていた。
「今朝は、予定していた孟子ではなく、老子をお教えいたします」
 首を傾げる阿倍、老子の名を知らなかったからだ。
 由利は父・眞備が真に敬愛をしているのが老子だと知っていたので歓喜で眼を輝かせた。
「急の事で、書を用意出来ませんでした。この眞備の言葉に心を傾けて、良く聞き、良く覚えて下さい」
 固唾を飲んで眞備を見詰める二人。
 静かに口を開く眞備。
「すぐれた士は、武の心を持たない」
 二人とも、心で復唱した。
「すぐれた戦士は怒りの心を発しない。よく敵に勝つ者は、敵を相手にしない」
 阿倍皇太子は懸命に考えた。「眞備先生は何をわたくしに教えようとしてい
るのだろう?」
「良く人を使う者は、相手の下に出る。これを不争の徳と言う」
 阿倍はようやく気が付いた。やがて天皇になるこの身に、民をすべる心得を諭しているのだと。
 東(ひむがし)のかぎろひは益々赤く燃え上がり、西に傾く月が、悲しみに沈
んだ。
「兵をあげて攻めあうとき、悲しみを知る者が勝利を収める」
華厳・完     作・GOROU

 参考文献 日本霊異記 続日本紀 万葉集

華厳三稿 破の章

2017-03-27 21:01:02 | 物語
破の章

 阿倍内親王の生母光明子は、皇太子妃の時代から窮民救済や薬草等の採取と病気の治療に大きな関心を持ち、興福寺に悲田院(貧民や孤児を救うために作られた施設)と施薬院(民救済施設・薬園)を創り、皇后となった後には皇后宮にも創り、自ら病人の看護に当たられたりした。
 菩薩と称えられる行基も又、窮民救済に一生を捧げました。橋、路、貯水池を創り、貧民救済の寮施設布施屋を建てました。
 行基は、進んで野山で衆生の為に説教をしましたが。これを政庁が禁じた為に、お尋ね者になってしまいました。
 しかし、聖武天皇の大仏建立に行基の土木技術と動員力は欠かせず、朝廷は大仏建立を行基にゆだねました。大仏開眼供養の時には、行基は大僧正の位を贈られました。
 その時、行基は少しも喜はなかったと伝えられています。

 天平三年(734)年、二月一日。
 朱雀門が開かれ、聖武天皇が雄略天皇の和歌を読み上げた。
「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも」
 鼓吹司が門外に整列して管楽を演奏しました。
 越天楽(黒田節などの元になった雅楽)の調べに誘われて、聖武天皇が家族と大臣達を従え、朱雀門に出御して歌垣をご覧になつたのです。
 五位以上の風流と恋の分かる男女、二百四十余名が参加していました。
 衆生の見学が許され、数万人の人々が門外の広場と朱雀大路に溢れていました。
 男女の求愛が公に許された歌垣は後世には風紀の乱れから禁止されてしまいますが、平安時代に復活し、現代の暗闇祭りに発展しました。

 二十余名の若者が列を成して登場して、
 ザッザッザツと勇ましく踏歌で足を踏みならして難波曲を歌いました。
「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり」
 若者達の一糸乱れぬ踏歌はまるで征戦する兵士の様に勇ましかった。
 次に、やはり二十余名の娘が男踏歌に続いて女踏歌を悩ましくもしなやかに舞って謡いました。
「今は春べと 咲くやこの花」
 娘達の裳が風にひらめいて、春の息吹を巻き上げ、平城は一気に春爛漫が如くになりました。
 鼓吹司達も春の喜びを管楽で奏し上げ。
 嫌が上でも聴衆は熱く燃え上がって行きます。

「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり」
 謡い、舞ながら若者達は女踏歌の方に乱入して、それぞれが目当ての娘に近づいていきます。
「今は春べと 咲くやこの花」
 娘達は、好ましくない若者からは逃げ、好きと思う若者には対の踊りを捧げます。
 娘達の中に阿部と井上がおりました。采女と女孺もいました。彼女たちの位階は精々七位ですが、高い位階の家の出身なので参加を黙認されていました。
 井上は男踏歌の中に白壁王の姿を必死に探しましたが、望むべきも有りません。
 白壁王は、若者達に混じるには少々お年を召していましたので遠慮したのです。それに、王は目立つような行為を、疎まれる天智系の皇族として禁じていました。
 井上はようやく白壁王を見つけました。勿論男踏歌の中では有りません。
 衆生の観衆の中に紛れ込んでいました。庶民のような出で立ちで井上を見守っていたのです。
 微笑みながら見つめ合う二人。

 踊り疲れた阿部と井上は、縁台で休んでいました。二人に采女と女孺が従っていました。
 一同が聖武天皇から賜った菓子を愉しんでいたとき、一人の若者、式家の藤原弘嗣が近づいてきました。
 采女達に緊張が走りました。
 弘嗣は何をするか分からぬ乱暴者と言われていたからです。
 弘嗣の前を遮るように、南家の豊成と仲麻呂か佇みむました。
「邪魔だ、どけ」
「恐れ多くも内親王方の席であるぞ」と、豊成。
「控えろ」と、一括する仲麻呂。
 この騒ぎに、護衛の衛士佐伯五郎を捜す由利。五郎が衛士を数人随えて駆けてきます。
 五郎の姿に胸を撫で下ろして安堵する由利。
「今日は無礼講だ、それに俺は姫様に用ではない、そこの采女だ」
 と、弘嗣は阿倍の横に控える由利の方を見た。
 それでも、遮る行く手を緩める気配を見せない南家の兄弟。
 弘嗣は二人を突き飛ばして近づいて来た。
 血相を変えて追う南家の二人。
 阿部は仲麻呂が懐に刀子を隠しているのに気が付いた。
「仲麻呂! 狼藉は成りませぬぞ! お控えなさい! なおも騒ぐなら、衛士に命じて捕らえさせますぞ」と言葉を投げつけ、豊成に視線を移した。
「豊成殿、落ち着きなされ」
「ははあ」
 豊成は阿倍の前に跪きましたが、仲麻呂はいまにも弘嗣に切りつけそうな殺気を漲らせています。

 阿倍の前に壁を創って身構える五郎と衛士達。
 ようやく仲麻呂は立ち止まりましたが、不服そうにあらぬ方を見ながら、横目で弘嗣を監視している。
 弘嗣は由利の前で跪いて、手折った梅の枝を捧げた。が、彼の視線は明らかに阿部に注がれていた。
 どうすれば良いのか躊躇って、由利は阿倍の顔を伺った。
 素知らぬ顔で空を眺めている阿部、視線だけを由利に向けて、微かに顎を動かした。受け取れと言っているのだ。
 渋々梅の枝を受け取る由利。
「この花の、一枝のうちに、百種の言そ籠もれる、おほろかにすな」
 阿部は可笑しかった、この乱暴者の弘嗣が恋の歌を、それも内親王のわたくしにらしい。どうせ家持にでも手ほどきを受けたのだろうとも思った。それにしても愚かにするな、とは大きく出たものだ。
 由利が又阿部の顔を伺っている。
 阿部は微笑み、顎をしゃくった。
 真備の娘、才色兼備と謳われる由利、忽ちの内に返歌を浮かべた。
「この花の、ひと枝のうちは、百種の言待ちかねて、折らえけらずや」
 弘嗣は小首を傾げて由利と阿部の顔を交互にみた。意味が図りかねたのだ。
 声を上げて笑う阿部、すっと手を差し出して、由利の持つ梅を折ってしまった。そして、阿倍の手に移った梅の一輪を髪にさした。
「わたくしは、そこに控える忠臣面をした豊成やしたり顔の仲麻呂より,無骨な弘嗣の方が好き」と、心で確かめる阿部であった。

 この有様は、乱暴者の弘嗣が采女・由利と阿倍内親王に軽くあしらわれた話として京師に伝わった。

 瓢箪池の水浴びから七年前の事でした。

 神亀六年(729)、八月五日、甲羅に「天王貴平知百年」と文字の書かれた瑞亀が見つかり、天平と改元された。
 天平とは、仏になる修行を華にたとえ、その華で仏の位を飾る華厳の世界を地上に築く事。それが聖武天皇と光明皇后の悲願で有った。
 しかし、百年の平和どころか、激動の時代の幕が上がった。

 養老の遣唐留学生、吉備真備と僧玄昉が帰朝した事で一気に幕が切り落とされた。

 天平七年(七三五)八月二十六日。帰朝留学生従八位下下道朝臣眞備が、唐礼百三十巻を始めとした暦から鎧をも貫き通す矢、儀礼用の矢に至るまで、唐から持ち帰った貴重な文献武具などを献上した。
 
 時の朝廷は人材不足に悩まされていた。期待をかけていた阿倍仲麻呂の帰朝が玄宗皇帝から許されず、遣唐大使藤原清河(北家)は台風のため遠く南の島に遭難し、結局この二人は生涯を唐で過ごした。

 聖武天皇は真備と玄昉を重用し、合わせて薬師寺の僧侶良弁を華厳の総本山・東大寺別当に任命した。この時、薬師寺からは、後の怪僧弓削の道鏡もまた東大寺に移ってきた。権勢を欲しいままにする藤原氏への牽制と対抗策だった。
 特に真備は、四書五経に精通していただけで無く、諸葛亮孔明の八陣をも極めていた、当に文武両道の俊英であった。

 野山に出て衆生に仏の道を教えていたお尋ね者の行基は薬師寺の僧侶で有る。薬師寺の義淵僧正と共に玄奘(三蔵法師)の直弟子道昭に教えを請うた兄弟弟子であったが、義援は薬師寺と法相宗を継ぎ、行基は土木技術と窮民救済を継いだ。
 光明子と藤原氏の氏寺興福寺、実は法相宗の総本山であった。
 筆者はこれらの因果関係に何かが潜んでいる可能性が高いと思っている。
 以下余談。奈良の薬師寺に取材した時、当時の管主が、筆者が行基の話を向けた途端に、好意的だった態度が硬化し、「行基大僧正は薬師寺の僧侶では有りません」と、言い切りました。
 歴史とは難解な物です、史実と事実と真実が万華鏡の様に広がって、とても筆者如きには見通せる物では有りません。

「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む」
 真備の礼記の読み下しに阿部内親王が復唱した。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む」
「其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉ととのふ。 其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む」
 内親王は正座をして書見台の礼記を懸命に見詰めている。
 正座をしていたのは、真備を師として敬う為だ。
 真備の娘由利は内親王の後ろに控えていたが、声に出さずに復唱していた。
「由利、あなたも声に出して復唱するのです」
 阿倍の言葉で、真備が厳しい視線を浴びせた。私語を慎むように言い渡していたからだ。
 由利は父真備の顔色を伺うようにして見詰めた。
 真備が娘に微笑んだ。
「其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉ととのふ。 其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む」
 今度は、二人声を合わせて復唱した。
「後は? 姫皇子、読んで下さい」
「はい、其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正す」
「はいは入りませぬ。続きを由利、あなたが読みなさい」
 由利は緊張で喉がカラカラになっていた。父真備は彼女が生まれて直ぐ唐に留学したので、なんとこの時が初対面だった。少し風変わりな父娘の対面であったが、由利は十分に満足していた。
 まさか父の講義を受けられようとは夢にも思わなかったからだ。
「其の心を正さんと欲する者は、先ず其の意を誠にす」
 
 聖武天皇は真備にやがて皇太子になる、阿部内親王の教育を任せ、この国の将来をも託した。
 真備にとってはやや不本意で有った。二十年にも及ぶ唐の留学で、儒教と軍略を極めたが、古代の中国政治家の多くが、昼は儒家や法家、夜は老荘の人だったように、彼も又老荘の徒で有った。
 真備は帰朝が適ったならば、故郷の吉備に隠棲する積もりだったが。この国の危機を知り、強く請われて内親王の教師となり、大学寮の講師をも務めていた。さらに、近衛兵と言える中衛府の軍師でも有った。

「真備先生にお願いが御座います」
 講義を終えた時、阿部内親王が真備に頭を下げている。
「何をしているのです。貴女様は内親王で御座います。臣下に頭など下げてはいけませぬ」
「この場には、わたくしと真備先生と由利しかおりませぬ故、師として尊敬の心をあらわしての事です」
 苦笑する真備、一体何を考えているのか計り知れないと思った。
「して、何でしょうか?」
「わたくしに文だけで無く武の教授もお願いしたいのです」
「姫皇子(ひめみこ)は、やがて皇太子となり、天皇となられお方。しかも女性であらせられる。武など必要に成りはしませぬ」
「いいえ、だからこそ一通りの武道、馬術、剣術、弓の道を身に付ける必要が有ると、わたくしはおもいます」
 真備はまたも苦笑為ざるを得なかった。
「内親王(ひめみこ)、それは屁理屈というもの」
「真備」
 阿部は今度は真備と呼び捨てにした。
「教えなさい。理屈抜きにわたくしは武術が好きなのです」
 真備は少し驚いた、正直な上に人間関係の機微を心得ている。
 真備は、この時から阿部内親王を好ましく思った。行く末立派な皇太子に、そして民の上に立つ、澄んだ心でお仕え出来る天皇(すめらみこと)にお育てしたいとも思った。

 教えてみると、意外に筋が良かった。特に馬術と弓は急速に進歩を遂げた。

 天平八年(736)、生駒郡司から訴えが有った。生駒山中の鹿が増えすぎ、木の若芽や、若木の皮を食い散らし、放っておけば禿げ山になりかねないと。

 政庁は急遽薬狩りをすることに決定した。
 鹿は神聖な生き物として保護されていて、衆生(民衆)が殺して食べたりしたら厳重に処罰された。悪くすると死罪になったりしたのだ。
 鹿の数を調整する事を薬狩りと呼んだ。
 鹿の肉は滋養に富み、爪の先からは毛、皮に至るまで役に立つので薬狩りと言われたのだ。
 また、鹿狩りは公家の特権で庶民には縁が無かった。
 この宮中行事には官女達も参加して紫草などの薬草を摘んだそうだ。

 東(ひむがし)の野に かざろひの立つ見えて かえり見すれば
 月傾きぬ    柿ノ本人麻呂

 天平八(736)年八月、薬狩りが生駒山中で慣行された。
 阿部内親王は小子(皇族)軍と中衛府軍を率いて意気揚々と狩りに挑んだ。
 この一隊には真備の娘由利、梓中将の娘愛菜を始め、十人程の采女と女孺が加わっていた。薬草を採取するためだ。

 藤原氏は、仲麻呂の指揮する南家と京家の一隊と、弘嗣が指揮する式家と北家の一隊が参加した。この二隊は、おなじ藤原氏ながら頗る仲が悪かった。狩りと戦の区別がついていなかった。

「兄じゃ、宮城を出れば、我ら藤原氏の天下じゃ」
 併走する南家の二人、仲麻呂と豊成。
「仲麻呂、不躾な公言を慎め」
「なんの、この隊の者達は藤原に忠を誓う者だけだ。皇族軍と弘嗣隊に一泡吹かせずにおく物か」
 五十騎程の狩衣の武者が二人の後を追っている。
 勢子も猟犬も追い付くのに躍起に成っている。

 弘嗣の率いる式家と北家の目的は単純明快で有った。
 沢山の獲物を狩り、阿部内親王隊に合流して、それを捧げる積もりだった。

 阿部は狩衣ではなく胴巻き等の武具を纏っていた。真備が万一に備えて、憤る内親王を宥めて付けさせたのだ。
 いやいや付けてみた物の、阿部は気に入ってしまった。念願の戦に出陣したが如くの気持ちに成って、いやが上にも身体も心も異様に昂揚していた。
「ソレッ!」とばかりに、一鞭、そしてもう一鞭くれて速駆けるが、真備と高梓と中衛府の隊正(五十人隊長)、礫の五郎の異名を持つ勇者・佐伯五郎の三人は余裕を持って併走していた。が、三騎は決して阿倍の前には出ない。
 阿部は扇形に矢を並べた平胡(ひらやな)ぐいから矢柄を取り出し、手綱を離し、矢を口に咥えて弓の弦を鳴らした。
「梓殿、わたくしの梓弓聞こえましたか?」
「確かに、厳かなる音に御座います。将兵は皆勇みに勇みましょうぞ」
 梓弓とは儀式などで使う飾弓の事だ。
 だが、高梓の弓は飾りでは無かった。
 梓は無造作に弓に矢を番えて、虚空に放った。
 日の本一の梓の放った矢は、上空に飛翔していた山鳥を射貫いていた。
「見事じゃ、流石に梓、見たぞ、鮮やかな手並み」
 阿部も将兵も、皆箙を叩いて梓の弓に賞賛を送った。

 阿倍の一隊は、草原に乗り入れた所で馬を止めた。
 前方に原始の森が聳えていた。
 その彼方から、勢子達の鳴り物と猟犬のけたたましい声が響いて来た。獲物を阿部へと追い立てているのだ。
 眞備と梓が鋭い目で前方に眼を凝らした。
 森から一頭の巨大な猪が姿を現した。
 生駒の主なのか、続々と猪達が続いて森から出て来た。
 森の中から、鹿の角が見え隠れしている、鹿の群れは猪に護られていたのだ。
 更に狼の群れも姿を現した。今は生駒の住人達は争いを止め、心を一つにして狩人達に立ち向かっているのだ。

「内親王、慌てては成りませぬ」
 眞備が阿部に心得を諭した。
「まずは敵の大将を射止めるのです」
「心得た!」
 阿部は矢柄を弓に番えて猪の大将に的を絞って、キリリと引き絞った。
 一斉に弓矢を構える狩衣の将兵達。
 佐伯五郎だけが弓を構えずに礫を握りしめた。

 その時、草原の左手から弘嗣隊が、右手から仲麻呂隊が雪崩れ込んできた。
 狼の群れは二手に分かれて、それぞれに弘嗣隊と仲麻呂隊に立ち向かい、襲いかかろうとしていた。
 更に、様子を伺っていた鹿達も狼の後を慕った。
「兄じゃ、見たか! 面白くなって来たぞ」と、仲麻呂は豊成に叫ぶが如くにして、雄叫びを上げた。
 実は、この森の勇者達を阿倍のいる草原に追い立てて来たのは、他ならぬ仲麻呂隊であった。

 由利と愛菜達の周りを護衛の衛士が固めた。
 幼い愛菜は恐怖に戦いて由利に縋り付いた。
「愛菜、案ずるでない。獣共はここまで辿り付けませぬ」
 由利は脅える愛菜を優しく抱きしめた。

 阿部は引き絞った鏑矢を大将猪に放った。
 ヒュルヒュルと音を立て、弧を描いて大将に向かって行く阿倍の矢は、将兵達を鼓舞した。
 一斉に、大将に続く猪達に矢を放つ狩人達。
 梓が弓で、五郎が礫を構えて大将猪に的を絞っていた。阿部がし損じた時の備えだ。
 バタバタと倒れる猪達。だが、大将に放たれた阿倍の鏑矢は尻を掠めて草原に落ちた。
 慌てて二の矢を番えようと、征矢を手に取る阿部。
 その阿部を眞備が諫めた。
「姫! 慌てては成りませぬ。矢よりは手綱を確りと持ち為され」
「承知した。後は任したぞ、眞備」
 騎馬を飛び降りた眞備は太刀を抜いて、阿倍の前に立ちはだかった。
 憤怒の形相で阿部に突進してくる大将猪。
 疾風のように弘嗣が駆け寄り、彼の背中に飛び乗って太刀を抜いて翳した。
 梓の矢と、五郎の礫が猪目指して飛んでいった。
 猪の心臓を刺し貫く弘嗣の太刀。
 ほぼ同時に、梓の矢と五郎の礫が眉間を襲った。
 ドドッとばかりに地響きを立てて倒れる大将猪、尚も阿部を目指していたが、立ちはだかっていた眞備の前で動きを止めた。
 流石の森の勇者も、太刀と矢と礫の前に、哀れ草むす屍と成り果てた。
 倒れた猪の背から立ち上がった弘嗣が、阿部に太刀を翳して叫んだ。
「我らは、内親王の前を阻むものは、何者で有っても必ずや打ち倒して見せまする」
 阿部も又、太刀を翳して弘嗣に応えた。
 仲麻呂と豊成も弘嗣の前に並んで太刀を翳した。
「我ら藤原の者どもは皆、内親王をお護りして行きまする」
 声を揃えて強張る二人。
 三人は腰を屈めて阿部に御礼を捧げた。
 仲麻呂が、チラッと阿部を盗み見た。
 この時、仲麻呂の脳裏では、こんな事が掠めていた。「基皇太子(阿倍の弟)が薨去しなければ、この娘は我妹となっていた筈」
 仲麻呂は暗寧で執念深かった。

 三人に馬を寄せる阿部。
「助成忝く承った。今後は、わたくしでは無く、天皇と朝廷に忠勤を励むが良い」と、馬上から声を掛けた。

 申の刻、夕七つを(午後三時)を回った時。一行は、臣籍に下った橘諸兄(葛城王)と白壁王が馳走して来た、昼食に舌鼓を打っていた。
 阿倍の周りには、獲物の獣と籠に盛られた紫草などの薬草が堆く摘まれていた。
 この頃昼食の習慣は無かったが、戦と狩りの時は別だった。
 菓子を頬張る阿部を弘嗣が見詰め、笑いかけていた。
 仲麻呂は睨むが如くに見据えていた。
 大きく溜息を付く阿部。自然と桜児が自殺した時の詩を詠んでいた。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
 読み上げた後、愛菜を見詰めた。
 愛菜は思わず唾を飲み込んだ。内親王の望んでいる詩が浮かんで来ないのだ。
 見かねた由利が、愛菜の耳元でそっと囁いた。
「はるさらば」
 やっと愛菜の脳裏にその詩が蘇った。
「春さらば かざしにせむと 我が思ひし 桜の花は 散りにけるかも」
 続いて由利が、もう一人の桜児を偲んだ若者の詩を抑揚をかけ、歌うが如く詠み上げた。
「妹が名に 懸けたる桜花 咲かば常にや 恋ひむいや年のはに」
 こうして、桜児の恋の果ての如く、阿倍の恋も又、散りゆく花と成り果てた。

   2017年3月27日   Gorou

渡部恒彦さんを偲んで

2017-03-27 05:47:05 | テレビドラマ
 このブログを先日お亡くなりになった渡部恒彦さんに捧げます 。
 珍しくもテレビドラマを見ました。【そして誰もいなくなった】というアガサクリスティの名作を日本の現代に移して創られた作品です。
 渡部恒彦さんの最後の出演作だそうです。この作品で渡部さんは元判事役でした。大変重要な役所で印象的な演技を見せていました。渡部さん演じる元判事は肺癌を煩っていたことと、タイトルの誰もいなくなったが妙に渡部さんが亡くなったという事実と重ね合わせられ、何か不思議な感慨を浮かべながら視聴していました。
 渡部さんは晩年は活躍の場をテレビに移されていました。何本ものシリーズで主演をしていたようですが、わたしはこれらの作品を殆ど見ていないか、印象に残っていません。 今日は映画について話したいと思います。
 わたしが渡部恒彦さんが出演した映画で一番印象深いのは【天城越え】です。渡部さんは刑事役で出演していて、殺人の容疑で捕らえた田中裕子とのやり取りは迫力満点でした。この作品は大変優れているので、機会があったら御覧になる事をお勧めします。
 代表作は【セーラー服と機関銃】でしょうね。又、深作欣二の快作【忠臣蔵外伝、四谷怪談】では堀部安兵衛を演じていました。これも強くお勧め致します。

 さて、本題の誰もいなくなったですが、大変な意欲作ですが、中途半端な小細工が災いして、少し首を傾げる所もありました。
 見所も出演者も豪華でテレビドラマとしては優れた物に仕上がっていました。
 わたしの見方が足りなかったのかも知れませんが、殺される十人の過去の罪が余りリアリティがありません。その為、クライマックスが今一つ盛り上がりません。犯人の「殺人は芸術た」という激白と、この事件を担当した刑事の「殺人に芸術は無い」という台詞が生きていませんでした。
 罪とは何か? 罰とは? わたしたちに警鐘を与えてくれる作品になった筈の作品でしたから、少し残念です。しかし、渡部恒彦さんは元判事役を見事に演じていて大変感動したのも事実です。
 もう少し詳しくお話ししたいのですが、推理ドラマですから控える事にします。

 最後に、謹んで渡部恒彦さんのご冥福をお祈り致します。

    2017年3月27日   Gorou

華厳 三稿 序の章

2017-03-26 03:40:33 | 物語

 華厳       作・GOROU

序の章
 
 天平と呼ばれた時代、
 時の聖武天皇に二人の内親王、阿部と井上がおりました。
 そして、聖武天皇の妃は、後に民間出身で初めての皇后となる藤原光明子でした。この天皇と皇后は生まれた時から夫婦になる事が決められ、三人の賢女にそのように撫育されて大切に育てられました。
 三人の賢女とは、県犬養美千代(光明子の母)と元明女帝(文武天皇の母)と元正女帝(文武天皇の皇后)である。
 文武天皇が薨去した後、皇位を継承したのは母の阿部皇女と呼ばれていた元明天皇でした。
 元明天皇は「一品の氷高内親王は、若いうちからめでたいめぐり合わせにあい、心広く憐れみ深い性質を天から授かっており、若く物静かで艶やかで美しい」と勅し、娘の氷高皇女に天皇の位を譲位した。歴代天皇の中で唯一、母から娘への女系での皇位継承が行われたのである。
 三人の賢女、美千代と阿倍と氷高は、黄金と勾玉を慈しみ磨くようにして聖武と光明子を育て上げ、万全の態勢を構築した後に首(おびと、聖武)を即位させたのだ。
 聖武天皇と光明子の娘、阿倍皇太子の生きた時代は、光輝く華厳の世界をこの世に実現する為に存在していたのだ。

 今も昔も奈良盆地の夏は蒸し暑い。
 暑気払いにと、皇太子と姉は東宮御所の中庭にある瓢箪池の中州の四阿(あずまや)で、薄衣一枚の姿で涼みながら唐の伝奇小説を読んでいた。
 女性で初めての皇太子の名を阿部と言い、姉の名を井上と言った。
 井上は伊勢の斎宮に任じられていたが、何かと理由をつけて皇居に里帰りし
て、妹と遊んでいた。
 二人は腹違いだったが、それはとても仲の良い姉妹でした。
 姉の母は県橘広刀自で、妹の母は皇后・藤三娘光明子でした。
天平と呼ばれた時代を象徴する、名の如く光り輝く女性でした。
 藤三娘とは、藤原不比等の三女を誇りにして良くこの署名を使ったからそう呼ばれたりしたのです。
 当時の政治は、皇族派の長屋王と公卿派の不比等の四人の息子との綱引き状態でした。
 阿倍の母・光明子の母は県犬養美千代ですから、井上の犬養唐家とは姻戚関係にありました。そのせいもあって、家格がかけ離れていても幼い時から共に遊んでいました。

「お姉様は何をお読みになっているの?」
「祝英台よ。わたくしはこんな恋をしてこんな風に同じお墓に入って、生まれ変わっても番の蝶になりたい」
 腹這いになっていた井上が半身を起こして阿部を見詰めた。
「皇太子、あなたは?」
「木蘭。・・・ああ、わたくしも木蘭のように男装の将軍になって、蝦夷を討伐したい」 皇太子と言っても女性ですから適う筈の無い夢のまた夢でした。
「ああ熱い!」
 皇太子は朱の欄干に凭れて大きく背伸びをして、その後。「百合」と、側に侍っていた真備の娘を呼びました。
 片膝をついて畏まっていた百合が、顔を上げて皇太子に視線を寄せました。
「池に水を」
「畏まりました」
 百合は立ち上がって、架け橋を伝って岸の中衛府屯所に走って行きます。
 水が引かれてはいるが、池の所々の水溜まりに鯉などの魚が群れて飛び跳ねていた。 

 二人は弟の皇太子だった基が誕生日を待たずに崩御した事で運命が大きく変わりました。
 井上の弟に安積親王がいたが、家格の問題で立太子を見送られ、女ながらも阿部が皇太子を継いだのです。
 もし、基が長生きをしていたら。阿部は藤原氏の誰か、聖武が寵愛する藤原南家武智麻呂の長男豊成、母・光明子我寵愛していたの次男仲麻呂に降嫁していた筈でした。
 力関係から言ったら仲麻呂だったに違いありません。聖武は、今時の言い方をしたら尻に惹かれていたのからです。
 阿部は二人を好きでしたが、恋などと呼べる代物では有りません。彼女は夫にするなら、式家の大将軍宇合の長男弘嗣が好ましいと思っておりました、阿部に岡惚れしていた弘嗣ならば東夷征討に連れて行って呉れるかも? と夢想していました。

 井上には意中の公卿がいました、天智天皇の孫白壁王です。
 白壁王ならば家格の低い井上でも嫁げる可能性は大でしたが、もしかしたら伊勢の斎宮に任命されていたかも知れない阿部の代わりに斎宮に任命されてしまいました。
 井上が度々平城皇居に里帰りをしていたのは、白壁王との逢瀬を期待していたからでした。

 話が難解になって来たようなので、少々の解説をお許し下さい。
 この時代、王(女王)と名乗れたのは、天智・天武天皇の孫だけでした。時
の聖武天皇が天武系だったため、天智系は肩身の狭い思いをさせられていまし
た。
 因みに、現代の天皇家は天平時代に虐げられた天智系です。
 
 阿倍の采女で眞備の娘由利が中衛府屯所に駆けつけた時、屯所は一人の衛士しかおりませんでした。
「皇太子殿下が池に水を張るようにと」
 由利の胸は激しく息せき切っていました。走ったからでは有りません。その衛士を知っていたからです。その火長(十人隊長)佐伯五郎を憎からず思っていたからです。
 無言の儘立ち上がった五郎は窓際によって旗を振ると、堤に待機していた衛士が堰へと走りました。
 五郎は由利の下手に正座をし、由利を見上げました。
「姫様、何か、水などお持ちしましょうか?」
「五郎様、戯れ言など言わないで下さい」
 五郎は今度は胡座を組んで由利に微笑みを送った。別にふざけて由利を姫と呼んだのでは無い、由利は正七位だが、いっかいの衛士の五郎は無位の身だった。身分が違いすぎたのだ。
「五郎様にお訊きしたい事が有ります。良い?」
 由利は五郎を媚びを売るような笑顔で見詰めた。
「なんなりと」
「貴男は礫の五郎の異名で呼ばれる分けが知りとう御座います」
「わたしが決して太刀も槍も取らず、石礫で敵に向かうからで御座る」
 遙かなる生駒の山並みを望みながら五郎が答えた。
「それが何故かと? 訊いているのです」
「人を殺すのが嫌だからで御座る」
 由利に視線を移す五郎、険しく悲しい眼をしていた。
「修練を積めば、石ころでも人を傷つけ、殺すことも出来るのです」
「ならば衛士を辞めては? いいえ辞めてしまいなされ、近畿を離れ、例えば吉備で百姓を為さりませ」
 吉備は由利の故郷だ、故郷で五郎と夫婦となって余生を送りたい、儚く適わぬ夢であった。
「わたしは兵士になるために生まれた男。朝廷を御守りするのはわたしの本懐」
 想いを告げた由利の胸の動機は止まりません。扇を開いて顔に風を送ると、少し落ち着きました。
「一日(ひとひ)こそ、人も待ちよき、長き日を、かくのみ待たば、有りかつましじ」
 由利は好きな万葉歌を詠いながら舞った。
 由利の裾裳が翻り、薄衣の太股が露わになった。
 五郎も立ち上がり、刀子を鞘ごと抜いて扇の代わりとして、由利の舞に応えた。
「君が行き、日長くなりぬ、山たづの、迎へを行かむ、待つには待たじ」

 一日(ひとひ)こそ、人も待ちよき、長き日を、かくのみ待たば、有りかつま
しじ
 君が行き、日長くなりぬ、山たづの、迎へを行かむ、待つには待たじ

 二人は何度も詠い、舞続けた。
由利は長い日など待てぬと嘆き。五郎は必ず迎えに行くと約束しているのだ。

 衛士の一人が池の堰を切ったので、たちまち池は透き通った水で溢れた。
「皇太子、泳げば少しは涼しくなりますわ」
「ええ、お姉様、わたくしもそう思っておりましたの」
 井上斎宮は薄衣を纏ったまま池に入って行きます。
 阿部皇太子は采女と女孺(にょじゅ、めのわらわ)達を見やって、
「さあ、あなたたちも一緒に」と、薄衣を抜き捨てて、ザブリと頭から池に途飛び込んだ。
 女孺は三人とも、袴と衣を脱いで皇太子に従った。
 二人の采女も女孺にならった。
 由利だけは池に入らずに、皇太子達が泳ぐのを見ていた。吉備真備の娘だった彼女は有る事を知っていたからだ。

 池の辺、その茂みで二人の貴公子、高梓・中衛府中将と天智天皇の孫・白壁王が池に背中を見せた。二人の内親王の様子を伺いながら話をしていたが、思わぬ展開に慌てて顔を背けた。
 当時の高貴な女性は人前で着替えたり、肌を見せる事を恥ずかしがらなかったが、貴公子はあえて直視することを控えるのが嗜みであった。
「天真爛漫とは伺っておりましたが、これ程とは?」
「両陛下は心配されておりましたが、わたくしは、あれはあれで良いと考えております」
「ところで、梓の中将。先ほどのお話はすでに決まっておりますのでしょうか?」
「いいえ、私が両陛下に進言しただけで、決まった分けでは有りません」
「中将(すけ)殿、吉備真備といえば秀才と聞こえておりますが、白猪史真成(しらいのふひとまなり)という書生の名は聞いた覚えがございませんが?」
「真備と真成は大学寮では白虎と青龍に喩えられていた程の青年です、鉈のような真備、剃刀が如き切れる真成、この二人に皇太子の教育を託し、即位成された後の政治も任せるのが良いと思っています」
 高梓は中衛府の実質的な指揮権を持っていた。
 中衛府は東の舎人とも呼ばれており、皇太子の近衛兵をも兼ねていた。
 梓は、皇族派と藤原一門との醜い政争に明け暮れる朝廷を懸念して、阿部皇太子が即位した時には、盤石の体制で大和朝廷を支える覚悟であった。
 白壁王と親しくしているのも、天智系の王達の協力を求めての事だった。が、さすがの高梓も、白壁王と井上斎宮が恋仲とは知らなかった。
 
 数日後、井上斎宮一行は伊勢への路を急いでいた。
 行列は三条大路を進み、平城京師を抜け、暗越街道に入ると急に細くなった。三人通れるかどうかだ。
 牛車に揺られながら、井上は憂いに浸っていた。再び白壁王に会えるかどうか分からない。なんどもなんども平城の方を振り返ったが、想いは募るばかりで、夏の空のように晴れることは無かった。
 街道の右手の丘の上の生駒仙坊から一団の沙弥が現れて、街道に入り、平城へと行脚してきた。
 信心深く、行基禅師を慕っていた井上は、わざわざ牛車から降りて、車も人も道端に寄せて沙弥達の通りすぎるのを待った。
 沙弥達は賛嘆を歌いながら行脚していた。
「百石(ももくさ)に、八十石(やそくさ)そえて、給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
 井上は今平城で流行っているこの賛嘆を知っていたが、直に聞くのは初めてだった。
 生駒仙坊の沙弥達は、こうやって賛嘆を歌いながら托鉢をしているのだ。
 傍らの乳母が耳元で囁いた。
「姫様、あの者達は公家からは托鉢をうけますが、貧者には逆に食物などを与えるそうですよ」
「ほんとうに、心の澄んだ方達なのですね」
 二人の囁きが聞こえたのだろうか? 三人の沙弥が笠を取って井上の前に立ち止まった。
 二十歳を過ぎたばかりの沙弥が、眼光鋭く、良く通る美しい声で歌った・
「願い奉る御詠歌を」
 触れなば忽ち切れてしまう刃物の如き眼光の沙弥は南家仲麻呂とそっくりだ。と、井上は思った。
 中年の穏やかな沙弥と菩薩が如き悟りを開いた容貌の老いた沙弥が若者と共に賛嘆を歌った。
「百石に、八十石そえて、給いてし、乳房のむくい、今ぞわがするや 今ぞ我がするや 今日せでは何かはすべき 年も経ぬべし さ夜もへぬべし」(注・光明子作との説も有ります)
 老いた沙弥が井上の眼前に鉢をつきだした。催促をしているのだ。
 井上は慌てていくらかの銭を鉢に入れて合掌した。
 眼を開けると老沙弥は穏やかに微笑んでいたが、鉢を更に突きだした。
 慌てて布や着物を持って来させて、老沙弥に渡そうとすると、横から若い沙弥が無言のまま受け取った。
「伊勢までの道中恙無く、ご無事で行きなされ。御母君はお元気で御座いますか」
 そう言った老沙弥はまた微笑んだ。
 井上は菩薩のようなお方だと思った。
 三人は笠を被って再び賛嘆を歌いながら行脚を始めた。
「母上をご存じなのかしら」
 独り言を呟きながらぼんやりと見送っている井上。

 老沙弥と井上の母・広刀自は旧知の仲だった。
 三人は沙弥では無く、歴とした僧侶だった。
 眼光の鋭い若者は、若き日の怪僧弓削道鏡。
 穏やかな僧侶は、薬師寺義淵僧正最大の後継者、東大寺初代別当良弁。
老いた僧侶は、菩薩と謳われた行基禅師、その人だった。

 我に返った井上が牛車に乗ろうとすると、道端に騎乗の公卿がいた。白壁王だ。
 下馬した白壁王が井上の前に跪いて書簡を捧げた。
 恥ずかしさと嬉しさで顔を紅く染めた井上が書簡を受け取った。
 その書簡には短歌が書かれていた。

 恋ひ死なむ、後は何せむ、生ける日のためこそを、妹見まく欲りすれ

 うろたえる井上に、気を利かした乳母が紙と筆を渡した。
 筆を構えて返歌を詠もうとするが、どうしても浮かんで来ない。仕方が無いので、好きな短歌で代用した。

 うつつには 逢ふよしもなし、ぬばたまの 夜の夢にを 継ぎて見えこそ

     2017年3月26日    Gorou

我が青春に悔いなし

2017-03-22 14:43:57 | 映画
 黒沢監督の代表作は何か? だったら簡単です。【七人の侍】で決まりで
す。が、好きな映画と問われたら悩んでしまいます。
 結局、【我が青春に悔い無し】にします。原節子主演の戦後間もなく創ら
れたために数々の制限と検閲を受け、後半はかなり大幅に変えられてしまつた
そうです。まず原節子が良いです。それと、黒沢明という人は自由に、思うが
儘に創らせたら、美しいが退屈でくどい映画になってしまうのです。
 影武者のクライマックスの長篠の戦いの場面、あんなにうだうだと続ける必
要は全く有りません。コンパクトに纏めれば、全体が生きてきますし,かえって
物の哀れを表現出来ます。
【乱】にしても唯々長くて退屈です、村木夫妻の美術とワダ・エミの衣装は素
晴らしかったですがね。残念です。
 多分、黒沢明という人は子供のように純粋なんでしょう。だから、誰かがフ
ォローしたり、制限を与えなければ傑作が生まれないのです。
   2017年3月22日    Gorou