1月28日

2007-01-28 22:30:22 | Weblog


      駅弁の箱うつくしき春隣   小林松風

またまた、旧友(俳句仲間)からのお誘いがあった、新しく
結社を立ち上げる先輩に続いて欲しいと・・・
正直、3年前なら喜んで参加していただろう。
今はそのパワーが無い。自分の俳句の力は充分知っている
つもりで、当初ならば力が無くとも熱いパワーが何とかしてくれ
ただろう。

何度も分岐点に立った。あそこであの道に向いていれば・・・
俳句誌などで知り合いの名前を目にする度に、少しの妬心が
浮かび上がってくるのがわかる。
自分の中で俳句作品は一期一会と心得ていても。

将来、子供達に俳句の楽しさを教えたいと思う希望には
私に肩書きが必要なのか?何処かの結社に所属して
同人となり、指導の経歴を持たねばならないのか?
そんな事も頭の端にある。

昨年末に決心した計画を4月からはじめようと思っている。

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1月23日

2007-01-23 21:46:53 | Weblog

    
    1月テーマ句会のお勉強

句会が終わり連衆の選評を読むたびに、あそこをこうすれば、
ここはこうだった、そう思うのは私だけではないでしょう。
俳句を30年もやっていて、普通はどこぞの主要同人になって
いてもおかしくないはず。もちろん句歴だけではなく才能が
有ったらの話。恥ずかしながら私の拙句を俎上にあげて、
今回の句会に投句するまでの話。推敲の話など、書いてみます。
何かの参考になれば・・・・・

    雪掻きて掻きても夢の雪の丈

評価は別として、まず「雪の丈」を詠みたかった。そして降り積もる
イメージとして同じ言葉のリフレインを考えた。それが「掻く」と「雪」
の二度使いになった。この句は私の実体験ではなく「夢」であり、
そんな体験への憧れを詠んでみた。ある人は言葉遊びと言うかも
しれないが、俳句をつきつめて行く過程では必要なこと。

    新春のかなめにややの眠りかな

多くの支持を頂いた句。テーマである「慶事の挨拶句」のつもり
だったが補足の「使いまわしの出来る挨拶句」ではなかった。
唯一投句後も気にしていた季語の「新春」は見事に師匠に、
見破られた。しかし「にいはる」と読んで頂いて感謝です。
この場合の季語は「初春」にすれば「やや」が初孫、初子の感じが
したのかもしれない。季語の音、訓表記でギクシャクする場合も
ありえる。

    仮縫いのピンはもも色春隣

この句も多くの指示を頂き有難うございました。
師匠ご指摘の通り、「ピンは」ではなく「ピンの」だったと
思います。「は」では春隣という季語への導きのようですね。
仮縫いのピンのもも色に触発されて春を感じた。とするのが
俳句=詩なんでしょう。
もう一つの目的はころころが作者である事がばれない句を
詠もうとしましたが、うまくいきましたでしょうか?

   ゲレンデに遠き日向のありにけり

自分では自信句だった。「遠き日向」へ行き着くまでに
時間もかかった。読み返すと少し古臭い気もするが、
発見という俳句の要素はあると思う。

   深夜バス雪をかむって今着けリ

連衆のご意見の中にも「今」が気になる。「着きにけり」で良い
のではと有ったが、勿論最初は「着きにけり」だった。
眼前の景(時間)を活かすためにそうしたが失敗だったかも
しれない。

   しばらくは焚火にあそぶ遊山かな

投句まで一番時間のかかった句です。

   しばらくは焚火にあたる遊山かな
   しばらくは焚火にあそぶ旅路かな
   しばらくは焚火とあそぶ遊山かな
   しばらくは焚火とあそぶひとり旅

あそぶと遊山のならびにもかなり悩んだが、今だに納得に
至らない。どうぞご意見を聞かせてください。

 

コメント (4)
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1月22日

2007-01-22 21:19:29 | Weblog


   納豆や飯たき一人僧一人   正岡子規

ご多分ににもれず我家でも納豆ダイエットなるものの効果を
信じるもの二人。2週間でその効果は表れると言われたその
2週間後「発掘あるある大事典」の効果データの捏造が発覚。
当事者二人の談「おかしいと思ったよ、効果でないもん」だって。

現代では一年中食卓にあがる納豆も季寄せによれば、「三冬」
納豆汁、納豆売りなどとしてあるが、生活の中の季感も薄れ、
納豆汁以外は季重なりを意識しないほどの補いは必要かも
知れない。

  天皇の日の納豆溶いてをり    加藤冬人
  まぎれなく雪の糸ひく納豆かな  久保田万太郎

*大徳寺納豆は「晩夏」

テレビの情報を鵜呑みにするほうの事も言われるが、こと
ダイエットに関してはそうはいかなそうだ。
まあ、体脂肪率13%のころころにはあまり関係ないのだが・・

我句会にももしかしたらのお句が有った。

   納豆を百回まぜる七日かな  は様

次回の句会でお会いしても触れないことにしよう。

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1月21日

2007-01-21 09:10:25 | Weblog


     大寒だというに暖かい。

    漬菜石寒九の水に濯ぎけり   ころころ

  久しぶりにのんびりとした日曜になった。
 2月の句会場の周りの花の機嫌をうかがいに探梅行である。

 まづは赤塚城址の梅林、まだまだ固い蕾のまま。
 植物園の梅林も同じようだが、城址の梅林の蕾のほうが
 いくらか膨らんでいるような気がする。
 最後に立ち寄った溜池公園の梅林は紅梅が一樹もう五分咲き、
 白梅が三樹開花し始めた。

 二月の第一週ならば丁度満開の頃となろう。
 そして3日は追儺の日、赤塚大仏の乗蓮寺では豆撒が
 あるやも知れない。もし当日当番の計らいで嘱目の席題などで
 句会になった場合には当然その辺が詠まれることを予想する。
 嘱目の句会が無い事を祈るのみ・・・・

 

 

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1月19日

2007-01-19 20:49:15 | Weblog


    東京ではすでに梅の開花宣言があったが、私のまわり
    ではまだ開花がない。
    去年は向島百花園、別名梅屋敷で見たのが初めの
    梅だった。


    たもとほる土橋石橋梅屋敷

    唐梅のくれない競ふ玉蕾        ころころ

 

    白梅のあと紅梅の深空あり   飯田龍太

    紅梅や病臥に果つる二十代  古賀まり子

    伊豆の海や紅梅の上波ながれ 水原秋桜子

 
    紅梅の花の数ほど恋をせし   平間真木子

    紅梅の一枝に惹かれ来し歩み 福永みち子

 

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1月14日

2007-01-14 09:54:51 | Weblog



      水仙の香ほのかに古き恋   沖山政子
   

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1月13日

2007-01-13 19:17:10 | Weblog


   大佛にひたすら雪の降る日かな   飯田龍太

 

 どうしても俳句モードにならない。
 詠めないのか?というとそうでもないのだが、気が入らない
 きっとそういう句になっているのだろう。
 
   

 

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1月12日

2007-01-12 19:19:14 | Weblog

    少年の毛穴十万寒の闇    飯田龍太
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1月10日

2007-01-10 22:02:18 | Weblog


    山河はや冬かがやきて位に即けり  飯田龍太

 次回の句会のテーマが決まった。いやはや難しいお題である
 慶事での挨拶句。
 ころころがいくら俳句が好きだといっても毎日詠めるわけでは
 ありません。幼子が眠るために用意する縫いぐるみのように、
 私には積読があり、常備薬には季寄せがある。
 積読の一冊の一行によって句作への導火線に火を点ける。

    積読の嵩のままなる去年今年

    パソコンの脇の季寄せや去年今年 

 弔事の佳句には多く目にするが、慶事となると思い浮ばない。
 久保田万太郎にこの一句がある。

    春寒く鶴を夢見て産みにけむ

 鶴を夢みてという措辞も素晴らしいが、春寒くというゆるぎない
 季語に唸ってしまう。
 過去何かの本で挨拶句は虚子といったような文章を記憶して
 いる。傾向と対策の意味でも少し読んでみることにする。
 今句会だけは積読の作用は及ばない。

 今日は文章が繋がっていかない。眠い、眠い。

 

 

 

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1月9日

2007-01-09 19:51:19 | Weblog


   大寒の一戸もかくれなき故郷  飯田龍太

 私が龍太の俳句にのめり込んで行くきっかけになった内の
 一句。自解によれば・・・

 「けして上品な趣味とは言えないが。私は立小便が大好きで
 ある。田舎住いのよろしさは何だ、と聞かれたら、誰はばかる
 ことなくそれが出来ることだと即答したい。とくに寒気凛冽たる
 今日この頃、新雪をいただく南アルプス連峰を眺めながら、
 自然の摂理に従う。この気分は極楽の思いである。これも
 そんな折での一句」

 きっと龍太の眼前の景色は落葉し尽くした故里の景であろう。
 一戸もかくれなきとは、隠しようのないともとれる。
 龍太の幼少の頃の故里はきっと隠すべきほどの貧しさが
 有ったのかも知れない。

     べい独楽や佃渡れば潮匂ふ   ころころ

 この一句は先の1月の句会に投句したもの、季語べい独楽は
 晩秋となっている。江戸時代には重陽の時期、(陰暦9月9日頃)
 その後は秋から冬にかけて流行ったと季寄せにはあるが、
 実際下町の子供らは年がら年中べい独楽をしていた。
 この遊びにも成長によって少し違いがあり。
 幼い年から、めんこ→ビー玉→独楽→べい独楽など遊びの
 進化過程がある。しかも男の子の遊びで、女の子はままごと
 、ゴム段などで一緒に遊ぶとなると鬼ごっこくらいだったかも
 知れない。
 この一句の自解はまたの機会に書くとして、
 いま病臥している父の元気な姿が脳裏にあった。

 

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