拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『必死』に東・西

2024年05月09日 | 東洋自分なり研究所

  今日はスイスではキリストの『昇天祭』ということで祝日になっている。

  と言っても、特別なにがあるということもなく、まぁ祝日ということで天気がよければ春の日差しを家族であびましょう・・・ぐらいなもの。

 

  最近、私の妄想のなかでは、キリスト教というものが、仏教・・・ことに『禅仏教』に非常に似た宗教のように思える気がしているが、

  私のキリスト教の知識はほぼゼロ、聖書も一度も読んだことがなく、ただこれまで沢山の十字架のキリスト像を観た・・・という体験だけからくる

  身勝手な印象論といえばそうであるが、これまで何度も言ったように『キリストの十字架』というのが禅の『公案(禅問答)』であると、

  もし受け入れることが出来た場合、『必死』という日本語の単語で禅とキリスト教の共通項を見いだせるような気がしたのだ。

 

  先日、5月4日のブログで『畳のうえで死ね!』という題で書いたが、禅の修行が、宗教的な意味で『畳のうえでの必死』を期したうえで

  『悟り』という人生の新しいビジョンの覚醒を画策しているならば、キリスト教の方では十字架という『必死』を設け、キリストの『死と復活』による

  衆生の神への目覚めの画策ではなかったか。 

  求める方向が自己の内と外、仏と神という違いはあれ、『必死』という『生命のアップデート装置』がどちらにも必要であったことは、面白い・・・。

 

        

            『必死』を超越した者・・・といった風貌  Jean-Marie Borgeaudの作品より

  

  



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