小野不一さん、またしてもあなたの記事の引用です。ごめんなさい。
「諸法無我」この言葉に救われた。
この一週間、世界を覆う過剰な暴力の実態に心が萎えていた。
世界は理不尽で、人間は愚かで、生命(いのち)は日々軽くなってゆく(70億という爆発的人口増加の前に)
諸法無我という言葉(キーワード)が、重苦しい閉塞感の先に光明を見出す切っ掛けとなるだろうか?
自我という実体が幻想なら、私という記号は人やモノとの関係性のなかで常に変化するのなら、
私は「自我の地獄」から解放される。
それは地球上のすべての生物種がそうであるように、
人も生命の循環のなかに組み込まれた一つの生物種であることの証明だろう。
人だけが自我という主体を持つ別個の存在という発想の方が歪に思えてくる。
その関係性は「縁起」であり「慈悲」へと辿り着くのなら、これは幸福のかたちではないだろうか?
雪山童子(釈迦)の苦行と羅刹(帝釈天)に残りの偈文を説いてもらい悟りを得る話。
諸行無常(作られたものはすべて無常である)
是消滅法(生じて滅することう本性とする)
生滅滅巳(生滅することがなくなり)
寂滅為楽(静まっていることが安らぎである)
から引用したのであれば、鈴木傾城氏のコンゴ共和国や、メキシコ、中国のブログ記事とリンクしている在り方が理解できる。
まさしく諸法無我の世界だと思う。
八方塞で、救いの無いこの世界も、ふと空を見上げるとなんでもない顔(無為)した青空。
そこは、あるがままの世界(無我)だ。
石鎚山 初冠雪
自然は、人知を超えた諸法無我の世界!
諸法無我に私も救われました。
森に帰ろう。
明日から山へ入ります。
天気悪いけど面白そう。
ほっほさん予告通り長文の書き込みありがとう。
私たちは、やっと近代以降の自我の呪縛から解き放たれるかもしれません。
不毛の地で生まれた一神教の発想は、私たちには馴染まない。
私たちの暮らすこの場所は、多様な神を有する生命(いのち)の溢れるところなのだから。
石鎚初冠雪は初霧氷の間違いでした。
そうでしょうね。
昨日は、雪を降らせるような冷え込みではなかった筈。
山の紅葉も終わっているので面河側から滝へ入る予定です。
でも日曜日は終日雨ですね。
まぁ。雨の滝も好いかぁ。
また店名については、ほっほさんが指摘されている通りです。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20001115/p1
E・H・カーを読んで直観したのですが、人類にとっての神と、個人における自我は全く同じものを象徴していると考えられます。
ランスケさん、批判も大歓迎です。どうぞご遠慮なく。
小野さんのブログ記事や鈴木傾城さんの「ダークネス・オブ・アジア」の記事を
読んでいると、いかに私たちが一面的な報道にしか晒されていないかがよく判ります。
イラク戦争や福島原発事故において、マスコミがまったく真実を報道しないことを私たちは目の当たりにしました。
確かに、凄惨な暴力やレイプを生々しい画像で見せつけられると
自分の立っている位置が分からないほど混乱し気分が滅入ります。
でも目を逸らしてはならないことだと思います。
私たちの安穏とした暮らしや豊かが、この70億を超える地球の人口のなかで
そして限られた地球の資源のなかで、どうして維持されているか?
それが、よく判ります。
これからも「言弾を撃て」の鋭い舌鋒に期待しています。