残照の色が消えて、川面に藍色の帳(とばり)が降りる頃、
葦の葉影に幽かな光が灯る。
ひとつふたつ、その青白い光が藍を溶かした闇の奥から瞬き始める。
ふわぁ~虚空に浮き上がる光跡。
まるで重力の軛(くびき)を解き放ったような、宙(そら)の一点に向けた飛翔。
長い成長期から今夜、命を繋ぐ人(♀)を求め光の飛翔を繰り返す。
そして、あえかな光を瞬きながら力尽き川面に落下する、短い命のフィナーレ。
儚き小さな命たちの最期の光の群舞は、切ないほど美しい。
今夜は、そのあえなか光が闇の底に消え入るまで見つめていたい。
最初に訪れた時は、湧き上がるような蛍の群舞にびっくりしました。
でも、ここ二年ばかり下流域から川の護岸工事が進んいるので、
この場所も、いつまで観られるか怪しくなってきました。
毎年同じ場所で、蛍の撮影をしていると少しづつ学習するようで撮り方が変わってきました。
以下の画像は昨年のものです。
http://blog.goo.ne.jp/toshiaki1982/e/491c0121683a4d30af47b442136c9756?fm=entry_spawp
今年は露光時間を短くして色温度の設定も変えました。
夜の色調である深い藍の再現とそれを映す川面の色。
そして人家から遠い闇の濃さと湧き上がる蛍の光跡を。
デジタル写真の進化は、ある意味、夜の闇の深さを置き去りにしてしまったように思えます。
昼間の画像のように細部までクリアに再現してしまう夜の風景には、どうしても違和感を覚えます。
衛星画像で観る夜間の日本列島の煌々と輝く姿そのままに、
私たちは身近から夜の闇を排除してしまったようです。
谷崎潤一郎の名著「陰翳礼讃」でも記されているように、
夜を照らす自然光(星や月や発光生物の)と深い闇のあわいにある微妙な諧調に、
日本的な美の粋があると思っています。
細部までクリアに浮かび上がらせる、あられもない姿を晒されると?どうも野暮だねぇ~てっ(笑)
もののあわれ…幽玄の美の粋として、闇を灯す蛍の命の光跡を撮り続けたいですね。
普通の長時間露光撮影と方法は一緒です。
鬼城さんの写真の先生である、うわつさんに訊けば大丈夫です。
唯どう撮るか?は、それぞれが工夫するしかありません。
みんな、それで頭を悩ませているのですから(笑)
今年の蛍も発生数は控えめです。
でも、たぶん蛍の生息環境は以前と較べると良くなっているのだと思います。
高度成長期の数十年間、日本の川環境は最悪でした。
生活排水は垂れ流しだったし、なんでも塵を川に放り込んでいましたよね。
そこが腐臭の漂う汚物にまみれている場所ならば、誰もが迷うことなくゴミを棄てていました。
子供の頃に観た家のすぐ側の川で飛び交う蛍の姿は、もう取り戻せない郷愁の風景だと思っていました。
(この川は、鬼城さんも御存知の愛媛大学から近い護国神社の前を流れる川です)
それが、また市街地からそう遠くない里山の小川にも、こんなに蛍が舞う風景が戻ってくるなんて。
嬉しいですね。
私は、ある意味、それは人口減少化と耕作放棄地の増加がもたらした自然環境の回復じゃないか?
と想像しています。
(前回の皿ヶ嶺の植生の回復は、定期的な人の手入れがもたらしたと思っています。
でも今回の里山は、コンクリート三面張りの過剰な護岸や農薬の過剰散布が蛍の生息環境を狭めました。
環境回復の状況は、まったく逆なケースですね)
この場所も休耕田と葦原に覆われた道路から遠い場所です。
だから誰にも気兼ねなく川に下りて撮影が出来ます。
その代わり、藪を掻き分け、やぶ蚊の襲来とマムシの恐怖が伴います(汗)
http://naturephoto2014.blog.fc2.com/blog-entry-816.html
夕映えの色を残した空とそれを映す川面。
そして画面の奥には集落の灯りと水を張った田圃の残照まで描き込んでいる。
画面を横切る蛍の光跡も綺麗な曲線を描いてバランスがいいですね。
蛍の写真は、飛び交う数が多ければいいわけではありません。
画面全体を構成する色調や醸し出す風情が、もっとも大切な要素です。
情緒豊かな里山の蛍風情です(拍手)