今更、このカルトムーヴィを紹介するのも気がひける。
2002年公開のデビット・リンチ監督作品「マルホランド・ドライブ」
その一筋縄ではゆかない難解さ故、数多の謎解き、作品解釈が、ずらり並ぶ。
私が、これらと同じことを試みても、詮無いこと。
まず、全編を覆ういかがわしさに強く惹かれる。
場末の芝居小屋を思わせる猥雑な見世物的仕掛けを随所に散りばめる。
そのフェリーニのようなデフォルメされた異形の夢幻世界。
同様に不安を煽るようなコマ撮りと揺れるカメラアングル。
これはヒッチコックそのものか…
リンチはビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」へのオマージュだと発言する。
それからリンチの50年代ポップミュージックへの強い拘りも見逃せない。
ジョーランドー(crying)の痛切な歌声は忘れられない。
そして、なんと云っても二人の女優の存在が、この映画の最大の魅力。
ほっほさんが絶賛するナオミ・ワッツの演技には舌を巻く。
健康的なブロンド、ブルーアイズのアメリカンガールを演じたかと思うと、
どんどん崩れてゆく女優の卵の危うい精神の崩壊を演じ切る。
そして、あのオーディションシーンの豹変ぶりには目を見張る。
もう一人の女優は、ローラ・エレナ・ハリング。
いかにもリンチ好みのゴージャスな夢の女、そのもの。
始めは弱々しい影の薄い印象なのだが、次第に妖艶な香り立つような女へと変貌してゆく。
その存在感には、くらくら眩暈がする(笑)
謎は、謎のままで好い。
それよりも、物語(芸能)が本来もつ、虚構のいかがわしさに翻弄される快楽に浸りたい。
最近、特に考えねばならないことに集中できなくなっている自分に気がついた。
デビット・リンチ監督のツイン・ピークスあたりまでなら何とかなるんだが・・・
集中力の退化は否めない。(^^;)
病み上がりで、少しは自重されるかと思うと、相変わらず好奇心全開ですね(笑)
3月の高速道宇和島までの開通で、また遠くまで足が延びそう。
早速、「マルホランド・ドライブ」観られましたか。
映画の楽しみかたは、それぞれです。
「ツインピークス」でも、その張り巡らされた謎に、
皆さん幻惑され謎解きに夢中になっていましたね。
私は、どちらかというと謎解きには興味ありません。
それよりも、自分の原風景のなかに封じ込めた昏い記憶や
子供心に妖しくいかがわしいと感じたものや場所の記憶、
そういったダークサイドな部分を刺激するデビット・リンチの世界に惹かれます。
2度目のマルホランド・ドライブを観た後に、
「錦繍の石鎚」へ寄せられた皆さんのコメントへ返信したため、
なんだか、どっぷり暗黒世界で呪いの言葉を吐き出すような酷い書き込みですね(苦笑)
来週は、秋の森で静かに過ごしてみます。
たえず表の「表層」しか見えない。一周した時点で裏面にたどり着いているが、やはりその裏面は見えず、この映画のどこがプロローグでどこでエピローグかはっきりしない。
いつまでも過去と現在を流転していく映像を観てしまうだけ。
「映画を観るという行為の謎」を問いかけるリンチの「ロストハイウェイ」「マルホランド・ドライブ」「インランド・エンパイヤ」の三部作。
「マルホランド・ドライブ」のラストシーンの近くで本筋とまったく関係のないホームレスが、謎の小箱で遊んでいる。
そして「インランド・エンパイア」では、六層の平行世界が互いに入れ子状に絡み合い、どこまでも相互に浸透しあう。
リンチは映画製作において「統一場」という言葉をしばしば使用する。
それは、一見無関係な断片を関係づけるような総合的な作用を意味している。
遠く離れた二つの要素が、それらも統合してくれる第三の要素を召喚するのだという。
リンチの「気質」は分裂病。この系譜の偉大なる先達としては、作家のフランツ・カフカと画家のフランシス・ベーコンの二人がいる。
彼らの作品に共通する特徴がある。
リンチの発言で「私は、発見する時の感じが好きだ。それは物語についていえる、最も素晴らしいことの一つだ。物語の懐深く、さらにより深く入っていく。すると謎が姿を現し出来事が起こりだす。
同様ではないかもしれないが村上春樹が小説「約束された場所で」の中で「僕らは世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があってまたその箱の中に箱があって・・・と言うやつですね」と発言している。
「インランド・エンパイア」では、リンチのクローズアップ趣味が多様されている。
クローズアップされた細部のテクスチャ-が好物なのである。「わたしは必ずしも腐乱死体が好きじゃないが、そういう死体には信じがたいようなテクスチャーがある。小動物の腐乱死体をみたことがあるかい?わたしはそうゆものを見るのが大好きだ。ちょうど樹皮や、小さな昆虫や、一杯のコーヒー、あるいはパイをクローズアップで見るのと同じくらい好きだ。近づいて見るテクスチャーは素晴らしよ」
リンチが敬愛してやまないベーコンもまた、テクスチャーに強いこだわりをもっている。(美術手帳・参照、一部引用)
諏訪敦も松井冬子もベーコンやリンチの前ではごく常識的な人間に見えて来るから不思議だ。
リンチにとって映画のストリーなどそれほど興味がなくインパクトのある映像(シーン)を絡みあわせ混沌の世界に身を置く事が悦びであり快感であり意味や価値があることなのでしょうか?
ランスケさん混沌から抜け出したみたいですね。
私は、お遍路の旅のなかで、もっと人との関係性を無邪気に信じたかった。
でも東日本大震災以降の社会の有り方を思うと不信感ばかりが募ります。
あれから、僅か半年ばかりで私たちの記憶は風化しようしている。
結局、私たちは時間の必然性として、目の前の風景しか見ていないのでしょうね。
この閉塞感を抜け出すには、時間を横断するような
想像力の翼を羽ばたかせるしかない。
はは…また風呂敷を広げました。
ほっほさん、ご指摘の通り、抜け出せない後悔の地獄は、
そのまま諦めて受け入れてゆくしかないのです。
消そうと思うから、堂々巡りに苦しむのでしょうね。
はて?混沌から抜け出せたのでしょうか?