プレーオフでボスニア・ヘルツェゴビナに3連勝し、勝利\(^o^)/
今大会大活躍のダニエル太郎選手。
日本のエースに急成長。頼もしい限り。
数年前に四大大会の本選で、試合中に体調を崩してしまったと、自己管理の重要性を敗戦後のインタビューで爽やかな笑顔で語っていた彼。
その後ホントに頑張って、本当に努力したことが、結果となって表れ始めている気がして、感慨深いです。
デビスカップでの活躍をみると、プレースタイルこそ違いますが一年位前に杉田選手が躍進した時と重なる部分があります。
ダブルスペアもストレート勝ち(^^)/\(^^)
わたくしごとですが、
大学が共学で、硬式テニス部は男女ともあり、強くはないながらも、中四国内で青春18切符をフル活用しながらして、香川県から遠い遠い山口県や、広島県や岡山県や、高知県や愛媛県や徳島県あたりまで、公式戦の度に遠征をしていました。
先輩や同級生、後輩の試合の、手に汗握る応援も、試合会場が同じになったら当たり前にしてきたので、
男子ダブルスのガッツポーズとか、曲芸のような必死のボレーに、心踊った場面は、特に印象に残っています。
硬式テニスは、何回も書いているかもしれませんが、大学デビューなので、
入学して、硬式テニス部があると知って、その日にすでにコートを訪れているんですよね。親切な知人にプレゼントしていただいたラケットを携えて。
サークルを選ぶという選択肢は、私の中には皆無でした。
そういう意味では、テニスサークルも大学内にがあったような気がするけれど、小学校時代は唯一あった学校の球技のクラブ活動のミニバスケット、その後中学高校とずっと運動部育ちで、大学でも運動部に入部するというのは、割りと自然な流れでした。
特に、高校時代に「硬式テニス部がない」ことを知った上で、進学を決めた、私の進路選択が、今になってみると、ちょっと負荷がかかりすぎるかもしれない道だったことは、想定の範囲内・範囲外でいうと、微妙なんですよ。
高校時代、自転車で通学に片道40分かかることもあり、もともと実は入る気がなかった運動部
に、2、3ヶ月遅れて中学と同じ球技を選んで入ってしまったことが、多分その後の私の人生に深く関わっている気がします。
なまじ、そこそこ運動神経があるだけに、運動をしたい衝動、試合の緊張感と集中を味わってしまうと、全力プレーの快感は、試合に負けても勝っても、清々しい。
この衝動知ってしまうと、いくら受験があろうが、家で勉強を毎日3時間はしなさいと担任教師から言われても、部活と両立して頑張ります、としか言えない。
尤も、運動部に入ったことをとがめられる高校ではなかったので、そこは“自由”。今風に言うと“自己責任”。学業とも、まあまあそこそこ両立していた、、のかな?
塾にも行かせてもらったりもしていました。
塾にも行かせてもらったりもしていました。
いま考えると、親には相当な負担を強いていたのですね。特に、部活帰りの送り迎え。帰り道も、当然40分かかるので、よく構内の公衆電話ボックスから家の電話に”迎えに来てよー“とSOSをだし、自転車ごと乗せて帰ってもらっていました。
お父さん、特にお母さん、ありがとうございました。3年間の高校生活で百回は軽く超えている気がする、軽自動車での、自転車ごと送迎。
自転車をチャリ、自転車通学をチャリ通と略すことに、だいぶ抵抗があったのは、自転車通学イコール自分で漕いで通学というよりは、かなりの頻度で親に送迎してもらっている申し訳なさ、後ろめたさも、もしかしたらあったのかもしれない。
自転車をチャリ、自転車通学をチャリ通と略すことに、だいぶ抵抗があったのは、自転車通学イコール自分で漕いで通学というよりは、かなりの頻度で親に送迎してもらっている申し訳なさ、後ろめたさも、もしかしたらあったのかもしれない。
いまになって言えることは、やっぱり親に「ごめんよ😢」よりも先に、「ありがとう🥰おかげさまで。」
さて、
高校では中学校に比べて、先輩後輩の関係が成熟していました。
中学校時代の運動部であった
“オイオイ(*^)/☆(+。+*)”💦というような同性の先輩からの呼び出しは、高校でも最初1回だけ実はあったけれど、その後が凄かった。詳しいことはご想像にお任せしますが、女子なので、暴力に訴えることは中学も高校もなかったのですが。
中学では、先輩達が真剣に叱ってくれて、下の学年の私達は、一人ずつ部室に呼ばれ、先輩方にずらっと囲まれて個別にご指導とご注意をいただいた。数回に渡ってね。
中学では、先輩達が真剣に叱ってくれて、下の学年の私達は、一人ずつ部室に呼ばれ、先輩方にずらっと囲まれて個別にご指導とご注意をいただいた。数回に渡ってね。
高校でも、呼び出しは1度ありました。
中学時代の“部室”(外部から隔離された閉鎖的な場所)とは違い、そこは”コートの隅っこ“(明るくて、誰からも見られる開放的な場所)でした。
「こりゅうちゃん、ちょっと(手招き)」に、中学時代のデジャヴが脳裏に浮かび、
緊張MAXで先輩の前に行くとまず、
「あー、緊張してるー」と、笑いにかえてくれた。
ここが、中学生と高校生の、「差」だなと、ホッと胸を撫で下ろしながらその先輩の軽いダメ出しのあとに一言。
「しゃーなしよ?(伊予弁なのかな。当時流行っていた口調で、仕方なくだよ?という意味です)」
…言葉通りにいま考え直してみると、やっぱり私の態度は大きかったのだろう。
気付いてないって、怖い。
当時ももちろん、叱られた感はなかったけれど“注意されたんだな”とは、思った。
先輩が、目に余る部分を、口調はやんわりと“譲って”、ピシッっと教えてくれたんだね、きっと。カッコ良かったなー、女子の先輩。中学でも、高校でも。団体球技、でした。すでにblogでも書きまくっている、〇〇〇〇〇部。
「こりゅうちゃん、ちょっと(手招き)」に、中学時代のデジャヴが脳裏に浮かび、
緊張MAXで先輩の前に行くとまず、
「あー、緊張してるー」と、笑いにかえてくれた。
ここが、中学生と高校生の、「差」だなと、ホッと胸を撫で下ろしながらその先輩の軽いダメ出しのあとに一言。
「しゃーなしよ?(伊予弁なのかな。当時流行っていた口調で、仕方なくだよ?という意味です)」
…言葉通りにいま考え直してみると、やっぱり私の態度は大きかったのだろう。
気付いてないって、怖い。
当時ももちろん、叱られた感はなかったけれど“注意されたんだな”とは、思った。
先輩が、目に余る部分を、口調はやんわりと“譲って”、ピシッっと教えてくれたんだね、きっと。カッコ良かったなー、女子の先輩。中学でも、高校でも。団体球技、でした。すでにblogでも書きまくっている、〇〇〇〇〇部。
中学は、総体地区予選を勝ち抜き、県大会へ。県大会1回戦を勝ち、2回戦で優勝候補にこてんぱんにやられて負けた。というくらいの実力でした。
高校は、中学ほど強くないももの、毎日放課後と土日は部活練習があった。2年の時の総体地区大会で、そのやんわり呼び出し注意してくれた先輩方と一緒に、地元の強いチームに挑み、私も畏れ多くも後輩だけどレギュラーとして使ってもらえて、シーソーゲームの後勝利し、歓喜した翌日、地元でそこそこ強い相手に挑んで、今度は比較的あっさり負けてしまった。
そういう、“学業と運動部の両立”というあり方で、青春を過ごしました。
今年は、新型コロナウィルスの影響で、中学総体、高校総体とも異例の中止になりましたね。
今年は、新型コロナウィルスの影響で、中学総体、高校総体とも異例の中止になりましたね。
知り合いの中学校3年の運動部に入ってる女の子と、先日話をしていて、最後の部活の話を聞きました。
その子は球技ではなく、個人競技でした。
学校が自粛要請から登校できなくなり、大会本部の決定をもってそのまま、引退になったそうです。
私は選ぶ言葉に気を付けながら、その女の子の話をじっと聞きました。
「進学したら、高校では部活入りたい?」と問うてみると、
「入りたいな」
と教えてくれました。
甲子園では、春のセンバツに続き、夏の選手権大会も今年は中止が発表された、その日のニュースで、大会本部のトップの男性が、記者会見をしているようすを、私はTVで見ました。
「大会はありませんが、甲子園を目指したという栄冠は、きっと君たちに輝きます」という趣旨のことを仰っていて
胸が熱くなりました。
誰かが悪いわけでもない
時代のせいにするのも違う
受け入れて
許容して
前を向いて進むしかない
きっと⭕⭕年前は、白球追いかけた球児だったであろう、その男性の、若者に向けた
心からの“エール”だ。
そう思いました。
朝ドラの「エール」は、コロナウィルス影響で6月終わり頃で、一旦お話をとめるそうですね。
そして、⭕⭕歳の私の話。
ほんと、気をつけよう。
今後も。何歳になっても。
信頼、信用のおける”大人の女の人“になりたいです。
…全米オープンが終わってグランドスラムが全部終わっても、ここからはアジアシリーズ。
観に行けたらいいんだけど、WOWOWに入ったので、専らテレビの前で応援しています。
頑張れ日本🇯🇵
今後も。何歳になっても。
信頼、信用のおける”大人の女の人“になりたいです。
…全米オープンが終わってグランドスラムが全部終わっても、ここからはアジアシリーズ。
観に行けたらいいんだけど、WOWOWに入ったので、専らテレビの前で応援しています。
頑張れ日本🇯🇵