クロの里山生活

愛犬クロの目を通して描く千葉の里山暮らしの日々

富士見台展望スポット

2015-02-27 01:16:43 | 日記

今回は、久々に拙者(クロ)の解説でご主人様の里山暮らしをご紹介することと致したい。

富士山が見える場所を、なんと大胆にも「富士見台展望スポット」と命名したご主人様は、そこを名前負けしないような場所にしなければと気合を入れて、鬱蒼たる竹薮ジャングルの大掃除に取り掛かったのであります。

竹薮ジャングルの中から、倒れて折り重なっている枯竹や古木などを「ヨイショ、ヨイショ!」と引っ張り出し、そして邪魔な雑木などを「エイヤッ!」と切り倒して見晴らしを良くした場所に、ご主人様は青竹のベンチを設置しました。

 

更には、聳え立つ楠の大木に長いはしごをかけて、樹の上に登って行きました。

 

そんな作業を、拙者が呆れ顔で眺めていると、

「おいクロ、ここからの富士の眺めはまた一段と素晴らしいぞ。ここで富士山を眺めながらコーヒーを飲んだら、さぞかし気分が良いだろうなぁ。なぁクロちゃん」

と、ご主人様は樹の上から得意げに言うのであります。

しかし拙者には、あのお山には全く関心がないので、大きなあくびをしてゴロっと横になりました。

 

しばらくすると、裏山に住むオヤジさんが散歩の途中に顔を出しました。

「おやおや、なかなか精が出るねぇ。そろそろ音(ね)をあげるんじゃないかと思っていたんだけどねぇ・・・」

裏山のオヤジさんも、半分呆れ顔で辺りを眺めながら言いました。

「この辺りは、昔は畑だった所でね。そこの2本の杉の木も20年程前は苗木だったけど、今じゃすっかり大木になってしまたなぁ」

「ここから富士山が見えるもんで、少し整備しているところなんですよ。この辺りは楠やケヤキなどの大木に囲まれていますから、夏には森林浴にも良い場所ですよね」

樹の下に降りたご主人様が、顔の汗をふきながらそう言うと、

「そうだねぇ。都会から来た人たちは珍しがるかもねぇ。ところで我が家の居間からも富士山が見えるんだよ。朝の富士山も良いけど、夕方の富士もなかなか風情があるよ。夕陽が沈む頃に富士山が影絵のように浮かび上がってくるんだ」

「へぇ・・・。そうなんですか。それは良いことを聞きました。夕方が楽しみですね」

ご主人様はそう言うと、鼻唄まじりでまたセッセと竹薮掃除に取り掛かったのでありました。

 

続く・・・・・・・。

 

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富士山探訪記

2015-02-14 23:53:53 | 日記

昨年の年末、家主さんが里山へ墓参りに来た。

拙者が裏山の竹林で、東屋作りに精を出していた頃だ。

お墓参りを終えた家主さんが、東屋を眺めながら言った。

「なかなか良いものができたね。竹薮もきれいになって有難いよ」

今まで荒れ放題だった里山が、来るたびにきれいになっているので、家主さんの機嫌は上々のようだ。

「ところで、もう少し上に行くと富士山が見えるんだけど知ってるかい?」

家主さんがニコニコしながらそう言った。

「本当ですか! 全然知りませんでしたね。どの辺から見えるんですか?」

拙者は半信半疑ながら尋ねてみた。

「確か、あの楠の木のあたりだったと思うけど・・・・」

家主さんは、高台にそびえる大木を差して言った。

あの楠がそびえている辺りは、以前は畑か田んぼだったらしいが、今ではすっかり竹薮と化し、富士山が見える方角は鬱蒼たる竹薮に覆われていて、今となっては近づく者もない。

しかし、富士山が見えるとあっては一大事である。それも、自分が今住んでいるこの裏山から見えるというのだ。拙者の胸は高鳴った。

そしてその日から、拙者の富士山探訪作業が始まった。

富士山が見えそうな方角に向かって、邪魔な竹をバサバサと切り倒し、雑木なども手当たり次第になぎ倒して前進した。

だが、富士山は毎日その姿を現すわけではない。空気がスッキリと晴れ渡った日でなければその雄姿を拝むことはできないのだ。

残念ながら、それから数日間は、その姿を確認することはできなかった。

 

 続く・・・・・。

 

 

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アズマヤ作り

2014-12-25 22:22:00 | 日記

久しぶりの投稿になってしまいました。

実は、我が家の裏山竹林に東屋(休憩所)を作ることを思い立ち、この2週間程、その作業に没頭しておりました。

ようやく「東屋もどき」が完成しましたので、お披露目させていただきます。

 

 

 

東屋というよりは、開拓村の掘っ立て小屋という風情ですが、竹林から聞こえる「サワサワ」とした風の音を聴きながらコーヒーなどを飲むと、なんとも良い気分になります。

この里山は、真冬でも天気の良い日はポカポカ陽気になるので、ランチの後のコーヒータイムにはちょうど良い場所になりそうです。

近くにお越しの際は、お気軽にお立ち寄り下さい。

 

そんなこんなで、耕一物語をUPする暇がありませんでしたが、近々に続きを書きたいと思っています。乞ご期待。

 

 

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耕一物語ー伊勢佐木町の根岸屋

2014-08-27 20:13:22 | 日記

戦後の横浜の繁華街・伊勢佐木町に根岸屋という店があった。

飲んで、食べて、踊って、騒いで・・・・

大衆食堂と大衆酒場とダンスホールを一緒にしたような、騒々しくも賑やかな店だった。

もとは進駐軍相手にオープンした店らしいが、その後は外国人船員や港湾労働者あるいは日雇い労働者なども来るようになり、かなり怪しい雰囲気の店となって行く。

後年、あの黒澤明監督が、『天国と地獄』という映画の中でこの根岸屋を使っている。ヤクの密売の舞台としてその根岸屋が登場するのだ。

黒澤が、「日本中で最もいかがわしい酒場を見つけてこい!」と号令を出して、白羽の矢が立ったのがこの根岸家だったという。

 

 

 

港町ヨコハマのそんな店に、愛友丸の男達も通って来た。

店の外壁には「INTERNATIONAL RESTAURANT NEGISHIYA」と書かれた大きな看板が掛けられていた。

店の中に入って行くと、奥の小さなステージでジャズバンドが静かな曲を奏でている。

天井には大きなミラーボールが妖しく輝いていた。

店内中程のテーブル席に松さん達が座ると、店を切り盛りしている女主人が明るく声をかけた。

「あら、松ちゃん、お久しぶり。いつハマに戻ったのよ」

「やあ、スミさん。相変わらず繁盛しているね」

「ええ、お陰様で。でも最近は色々とややこしい話があるのよね」

「そりゃそうだろう。ややこしい世の中なんだからな」

「アハハハーーーー。ところで松ちゃん、今日は何を食べるの?」

「そうだな・・・。牛肉たっぷりのカレーでも食うかな。後でウイスキーをロックで持ってきてよ。おい、みんなは何にするんだ?」

「俺もそれで良いよ」

健さんがそう言うと、他の仲間もみんな同じカレーとウイスキーになった。

 

奥のバーカウンターには、短いスカートをはいたスタイルの良い女が、長い足を組んでタバコを吸っているのが見えた。外人のような派手な格好をしているが、日本人のようだ。

その女をはさむようにして、進駐軍の兵隊らしい若いアメリカ人二人が、ジャズのリズムに合わせて身体を揺らしている。

バンドの音楽がアップテンポなジャズになっていた。

 

 

「これがヨコハマの夜か・・・・」

初めて見る店内のその光景に、耕一は心の中で思わず呟いていた。

 

続く・・・・・・・ 

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耕一物語ー闇舟生活

2014-08-25 23:21:43 | 日記

生麦沖で愛友丸に積まれた進駐軍闇物資は、静岡の焼津で降ろされた。

そして、その後の愛友丸の航海は至って順調であった。

北は北海道の函館や釧路あたりまで行った。北海道へは進駐軍の横流し物資を運び、帰りは北洋の海産物で船倉は一杯になった。

東北の塩釜、釜石、気仙沼あたりでは主に闇米を積み、降ろすのは生麦や追浜(三浦半島)など東京に近い港であった。

耕一は愛友丸の仕事を一生懸命やったので、機関長に信頼され、健さんや他の仲間にも可愛がられた。

やがて、一航海が終わるたびに機関長から給料を貰うようになった。

その給料の札束は、耕一が仕事に慣れるにつれ、次第に厚くなって行った。

半年後には、普通の勤め人がもらう給料の10倍以上の額を貰うまでになった。

「こんなにもらって良いのだろうか・・・・・」

最初、耕一は少し不安になったが、そんな気持ちは次第に消え、財布の中に札束が沢山入っているのが当たり前になって行った。

 

 

そんな耕一であったが、夜になると明子とのあの夜のことを思い出した。会うのが待ち遠しくてしかたがなかった。船がどこかの港に着くたびに、その想いを手紙に書いて明子に送った。

たくさんのお土産を抱えて耕一が明子を訪ねて行くと、彼女はいつも耕一の好物の茶碗蒸しや肉じゃがを作って待っていてくれた。そして一緒に風呂に入り、お互いの身体を洗いあった。

だが、二人の甘い夜はいつもあっという間に過ぎ、次の港へと愛好丸は慌しく出航した。

 

しかし、横浜に近い生麦や追浜に寄航した時は、船長は、4、5日そこで船を停泊させることがあった。

船長は横浜に家族が住んでいたので、そこへ帰る必要があたのだ。

そんな時は、当直を船に残して、みんな陸(おか)に上がる。

そして、海の男達は船旅の疲れを癒すため横浜の歓楽街へ遊びに行った。

その当時、野毛山界隈には金持ちが遊ぶ花街が復活しつつあり、また真金町や黄金町地区には庶民が遊ぶ遊郭なども整備されつつあった。

愛友丸の男達は、札束で膨らんだ財布をポケットに入れて、意気揚々と横浜の花街へと繰り出して行ったのだった。

 

 

続く・・・・・・ 

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