里山の田んぼにも稲穂が出てき始めました。
この暑さは稲の生育には良いようですね。
(本文)
学が合気苑の門をくぐり、玄関口に向かって歩いて行くと、野良着姿の老人が庭にしゃがみこんで草むしりをしていた。
その姿は合気苑の小間使のように見えた。
「すみません。植芝先生はご在宅でしょうか?」
「・・・・・・・君は誰かね?」
「本間学といいます。秋田から出てきました」
「おー、君か。わしが植芝じゃ。君のことはお父さんから聞いておる」
「た、たいへん失礼しました。ど、どうか宜しくお願い致します!」
開祖がそのような姿で草むしりをしているなどとは、学は思ってもみなかった。
合気道関係者の間では、植芝開祖は神様のような存在であったのだ。
開祖植芝盛平氏の合気道家としての活躍、なかんずくその神秘的な技の数々は、伝説となって語り継がれている。
そしてその存在は、今でも巨星の如く輝いている。
開祖の主な経歴を振り返ってみたい。
1930年(昭和5年)開祖47歳の時に、講道館柔道創始者・加納治五郎が盛平の演武を見て「これこそ真の柔道だ」と賞賛し、嘉納は講道館から高弟(望月稔)を盛平に弟子入りさせた。
翌年、新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りからそこは「地獄道場」と呼ばれる。
1933年(昭和8年)、兵庫県竹田町に「武農一如」方式の「大日本武道宣揚会竹田道場」を開設、東京の皇武館と並ぶ西日本の拠点となり、「西の地獄道場」と呼ばれる。
1937年(昭和12年)満州国武道顧問・建国大学武道顧問等に就任。合気武道が建国大学の正課に採用される。
1939年(昭和14年)。満州国武道会常務理事・天竜三郎の招きで公開演武会に出場、腕試しで天竜を投げる。
1940年(昭和15年)57歳。この頃から茨城県岩間町において合気神社の建設に着手する。昭和10年頃から同地に土地を少しずつ買い足しており、引退後の住処にする計画であった。
1941年(昭和16年)。日米開戦。この前後に近衛文麿の依頼を受けて中国大陸に渡り、蒋介石との和平交渉工作を試みるが不首尾に終わる。
1942年(昭和17年)59歳。一切の公職を辞し、皇武館道場長を息子吉祥丸に譲り、妻はつと共に岩間に移住、合気神社および住居周辺を開墾し道場の建設に着手。同地を「合気苑」と名付けかねてより念願であった「武農一如」の生活に入る。
1948年(昭和23年)65歳。「皇武会」を「合気会」と改称、岩間の合気苑を本部とする。この時はじめて正式に「合気道」を名乗る。
1960年(昭和35年)77歳。盛平のドキュメンタリー映画『合気道の王座』がNTV(後の日本テレビ)により製作される。
1961年(昭和36年)78歳。ハワイ合気会の招きにより渡米、ハワイ各地で演武指導を行う。ドキュメンタリー映画『合気道』が製作される。
1964年(昭和39年)81歳。「合気道創始の功績」により勲四等旭日小綬章に叙せられる。
本間学が合気苑の門を叩いた時は、開祖は83歳であった。