クロの里山生活

愛犬クロの目を通して描く千葉の里山暮らしの日々

客人の来訪

2014-07-31 16:04:05 | 日記

今日の里山は昨日に増して暑い!

朝の散歩も途中で切り上げ、涼しいところで休養すべく、縁側のヨシズの陰や裏の竹薮で横になっておりました。

 

 

ご主人様はビーチチェアーに寝転がり本を読み、拙者はその側でスヤスヤと良い気持ちで寝ておりましたところ、一台の見知らぬワンボックスカーが屋敷の側で止まり、見知らぬ男が車から降りて「こんにちはーーーー!」と、大きな声を出して玄関の方へ歩いて行きました。

ご主人様が慌ててシャツを着て表の方へ行ったところ、なんと元職場の同僚であった友人がニコニコ笑顔で立っているではありませんか!

夏休みの家族旅行で、鴨川へ行った帰りにやってきたとのことでした。

突然のご来訪でご主人様はビックリしましたが、1年半ぶりの再会でありましたので、さっそく、長屋の方にご案内し、自家製の冷えたシソジュースなどで喉を潤して頂き、旧交を温めました。

 

風情あり過ぎる長屋の様子に、ご夫妻は言葉も無い状態でしたが、しばし里山風情にひたって頂けたご様子でした。

これからマザー牧場に行くとのことでした。

生憎の猛暑なので、羊と遊ぶのは無理かもしれませんが、美味しいアイスクリームが食べられると思いますよーーーー。

お気をつけて!! 

 

 

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暑中お見舞い申し上げます

2014-07-30 09:19:10 | 日記

今日も暑い一日になりそうです・

暑中お見舞い申し上げます。

朝の散歩道には杉木立もあります。

 

今朝は裏の神社にも行きました。

 

 

中庭芝の一部(なかなかいいかも!)

 

中庭芝の全体(冷や汗・・・・)

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コロラドの男ー少しお休みいたします

2014-07-28 09:21:11 | 日記

竹林のこぼれ陽

 

 

 

書き始めたところで大変残念なのですが、諸般の事情により、「コロラドの男」シリーズはしばらくお休みさせていただきます。

いずれご紹介できる好日を待ちたいと思います。

 

 

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植芝盛平との出会い

2014-07-27 22:06:30 | 日記

里山の田んぼにも稲穂が出てき始めました。

この暑さは稲の生育には良いようですね。

 

(本文)

学が合気苑の門をくぐり、玄関口に向かって歩いて行くと、野良着姿の老人が庭にしゃがみこんで草むしりをしていた。

その姿は合気苑の小間使のように見えた。

「すみません。植芝先生はご在宅でしょうか?」

「・・・・・・・君は誰かね?」

「本間学といいます。秋田から出てきました」

「おー、君か。わしが植芝じゃ。君のことはお父さんから聞いておる」

「た、たいへん失礼しました。ど、どうか宜しくお願い致します!」

 開祖がそのような姿で草むしりをしているなどとは、学は思ってもみなかった。

合気道関係者の間では、植芝開祖は神様のような存在であったのだ。

 

開祖植芝盛平氏の合気道家としての活躍、なかんずくその神秘的な技の数々は、伝説となって語り継がれている。

そしてその存在は、今でも巨星の如く輝いている。

 

開祖の主な経歴を振り返ってみたい。

 1930年(昭和5年)開祖47歳の時に、講道館柔道創始者・加納治五郎が盛平の演武を見て「これこそ真の柔道だ」と賞賛し、嘉納は講道館から高弟(望月稔)を盛平に弟子入りさせた。

翌年、新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りからそこは「地獄道場」と呼ばれる。

1933年(昭和8年)、兵庫県竹田町に「武農一如」方式の「大日本武道宣揚会竹田道場」を開設、東京の皇武館と並ぶ西日本の拠点となり、「西の地獄道場」と呼ばれる。

1937年(昭和12年)満州国武道顧問・建国大学武道顧問等に就任。合気武道が建国大学の正課に採用される。

1939年(昭和14年)。満州国武道会常務理事・天竜三郎の招きで公開演武会に出場、腕試しで天竜を投げる。

1940年(昭和15年)57歳。この頃から茨城県岩間町において合気神社の建設に着手する。昭和10年頃から同地に土地を少しずつ買い足しており、引退後の住処にする計画であった。

1941年(昭和16年)。日米開戦。この前後に近衛文麿の依頼を受けて中国大陸に渡り、蒋介石との和平交渉工作を試みるが不首尾に終わる。

1942年(昭和17年)59歳。一切の公職を辞し、皇武館道場長を息子吉祥丸に譲り、妻はつと共に岩間に移住、合気神社および住居周辺を開墾し道場の建設に着手。同地を「合気苑」と名付けかねてより念願であった「武農一如」の生活に入る。

1948年(昭和23年)65歳。「皇武会」を「合気会」と改称、岩間の合気苑を本部とする。この時はじめて正式に「合気道」を名乗る。

1960年(昭和35年)77歳。盛平のドキュメンタリー映画『合気道の王座』がNTV(後の日本テレビ)により製作される。

1961年(昭和36年)78歳。ハワイ合気会の招きにより渡米、ハワイ各地で演武指導を行う。ドキュメンタリー映画『合気道』が製作される。

1964年(昭和39年)81歳。「合気道創始の功績」により勲四等旭日小綬章に叙せられる。

 

本間学が合気苑の門を叩いた時は、開祖は83歳であった。

 

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岩間道場へ

2014-07-26 17:22:06 | 日記

今朝は6時前に散歩に出かけました。

山道は日陰が多く、厳しい暑さが避けられるので助かります。

(本文)

秋の取り入れが終わった田舎の砂利道を、高下駄を履いた少年がゆっくりと歩いていた。

陽が傾きかけた田舎道に、カランコロンと小石を蹴る音が響く。

かなたに小高い山並が見えた。

その山並みの麓から関東平野の田畑が広がっている

故郷で見る田園風景とは大分違うな、と少年は思った。

 

昨晩、故郷の秋田から夜行列車に乗って上京した少年は、今朝、上野駅に着き、常磐線に乗り換えて岩間駅で降りた。

そして今、少年は合気道の開祖・植芝盛平の道場に向かって歩いている。

開祖の最後の内弟子になるために、今こうして歩いている。

 

それにしても、東京上野駅の雑踏は想像以上であった。

田舎者の少年を驚かすに十分であった。

時は昭和41年、日本経済が高度成長の坂を懸命に登り始めた頃である。

誰も彼もが、忙しそうに動き回り、大きな声を出してうごめいていた。

《自分にはあんな喧騒の都会より、こんな田舎の方が性に合いそうだ》

少年はそんな事を思いながら、カランコロンと歩いて行った。

 

少年の名前は本間学。16歳。

しかし、本間少年の顔は妙に大人びて見えた。

その目は憂いを含み、暗く沈んでいるように見えた。

夢と希望を胸に、未来に生きる16歳の少年の顔ではなかった。

 

彼の懐には父から植芝開祖に宛てた紹介状が入っていた。

「自分の息子は暴れ者であるが、根は真面目で辛抱強い。なんとか一人前の男にして頂きたい」

そんな言葉が綴られた手紙が入っていた。

 

一時間ほど歩いただろうか、田んぼと畑の中に広い屋敷森があった。

屋敷森の入り口に「合気苑」という看板がかかっていた。

 「こんなところで、俺はこれから生活するのか・・・・」

ぽつりとそう呟くと、少年はゆっくりと合気苑の門をくぐった。

 

 

 

 

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