「コウちゃん、今度はどこへ行ってきたんだい?」
カウンターの向こうで、おかみさんがコーヒーを入れながら耕一に尋ねた。
「北海道の釧路へ行ってきました」
「クシロ! ・・・・・まあ随分と遠くまで行ったもんだね」
「えぇ、海が荒れて、向こうへ着くまで1週間かかりました」
「そりゃぁ、大変だったねぇ・・・。あっちは魚の他には何にもないだろう」
「まあね・・・。北の果てですからね・・・。でも人情の熱い人が多くて、みんな親切にしてくれました」
「そうかい、わたしゃ、これからも北海道なんていうところへ、行くことはないと思うけど・・・・」
そう言いながら、おかみさんは入れたてのコーヒーを耕一のテーブルに運んできた。
耕一は白いコーヒーカップを持ち上げ、ブラックで一口飲んだ。
しかしそのコーヒーは、コーヒー豆から作ったコーヒーではない。松葉を煎じて作ったコーヒーもどきのコーヒーであった。
その当時、本物のコーヒーは、ホテルなどの高級な喫茶店に行かなければ飲めなかった。場末の喫茶店で飲めるコーヒーは、そのような安い代用品であった。
しかし、それでもなんとなくコーヒーの香りがし、コーヒーの味がし、そしてコーヒー色をしていた。とりあえずコーヒーを飲んだという気分にはなった。
耕一がそんなコーヒーをゆっくりと飲んでいると、先客の男が立ち上がって耕一の側へ来た。
「おにいちゃん、そこへ座っていいかい?」
「・・・ええ、どうぞ」
「おにいちゃんは、釧路へ行ってきたのかい?」
「ええ、そうですけど・・・」
「わしは、つい最近まで釧路の炭鉱で働いていたのよ。落盤事故に遭って足を少し痛めてな・・・。そしたら、お前は使い物にならないって言われて、それでそこをクビになって、本土に渡ってきたのよ」
「・・・・・・・・」
「釧路はどうだった? もうだいぶ寒かっただろうな・・・・」
「ええ、山の木はもう紅葉が始まってました。地元の人は、後1ヶ月すれば雪が降るって言ってました」
「そうか・・・。もうそろそろ雪が降るか・・・。ところでお前、春樹ていう名前の男を知らないか?」
「春樹・・・・」
「そうだ、春樹だ。背が高くてかっこいい奴だ。ゼロ戦に乗っていたんだが、運よく生き残って戦地から帰ってきた。今は横浜にいるらしいんだがな・・・・」
「あんたは、その春樹さんとどういう関係なんですか?」
「あいつは俺の弟だ。兄弟でも一番出来が良くてな。おふくろの自慢の息子だ。おふくろが、ひと目会いたがってる。おふくろはもうあまり長くはない・・・・・」
「その春樹さんなら、さっき根岸屋で会いましたけど・・・」
「根岸屋! あの伊勢佐木町の根岸屋か?」
「はい・・・・」
「まだ、そこにいるのか?」
「いえ、なんだか仕事があると言って、すぐ店から出て行きました」
「そうか、ありがとう」
その男は、そう言うと、カウンターにコーヒー代を置いて、慌てて店から出て行った。
びっこを引きながら、わき目も振らず・・・・・・。
続く・・・・・・