華も実もある筈の年齢になって小学生の陰湿なイジメっ子並の幼稚にして稚拙なメンタルの大人達が増え過ぎている。
その癖『イイ人に見られたい』願望は哀しいくらいに強い。
しかし、人の不幸ばかりを鵜の目鷹の目で嗅ぎ回り顔にスッカリ底意地の悪さが貼り付いているのだから……そりゃ無理というものである。
この傾向は小学生から老人会に至るまでのあらゆる年代、分野の組織に顕著に見受けられる。
この構造は『深刻な虐め問題』と密接に関係している。
彼等がアカラサマな上から目線でネチネチと演り始める為の条件がある。
『その対象が反撃して来ない!』という確証である。その確証を担保するのは先ずは『多勢に無勢の構図』と次にシャーデンフロイデ連合のコンセンサス(合意)である。
そこに至るまでの『イジメの犬笛』を何度も確かめ、哀しい生贄となる人の孤立を完成させてから一気呵成に事は始められる。
どんなに気取った大人の集団に於いても事の始めは幼児が行う様な幼稚にして、稚拙な精神レベルで合意がなされる。
『行っても良い?理屈』なんて後付けで幾らでも出来るのである。
ここに来て、その行為者への批判は少し様相が変わって来た事に気付かされる。
この手の人種に対する正面切った批判は『未だまともに関わっているレベル』なんだけど……
相手にする以上彼等は調子に乗り続ける事を学び、心ある人間達は『無関係・無視・無関心』による『ハッキリした区別・区分の線引き』によって『棲み分ける』手法が採用される様になった気がする。
『そんな空気感の変化』によって、イジメ側の人間が妙に孤独感を抱えたり、被害者以上に寂しい思いをしたりする様になったんだと思う。
田舎で何時もの連中が集まっては気勢を上げ、生贄をイジメ倒す?なぁ〜んて事を繰り返してたから……一度でもそんな理不尽な目に遭った人間は二度とそこに行かなくなった。
お盆という機会で催した同窓会?らしきものは出席者激減し、とても寂しい集まりになったのだとか?……気の許せる人間がそう言った。
そこまでとはね?と言うくらい酷い盛り下がり様に白け切ったと……。
早くから鳥泣き里のコウモリ達の狂宴に嫌気がさしてたから僕はオイラ一抜けた!状態でずっと平和に演ってたのだが?
ここに来て、ご無沙汰だったコウモリ達が一人二人とメールして来たり、実際にやって来たりし始めた。
えっ?今更何で?……と戸惑ったが、どうやら『溜め込んだ後ろめたさ』に耐えられなくなり
『何か?自分達に対するカウンターパンチの企み』でもあるんじゃないか?という疑心暗鬼に苛まれている事が見て取れた。
そこまで世の中暇じゃねえ!なぁ〜んて言えないから適当にあしらったけれど、『自分のしたこと』ってのは過去のその場の陰湿な喜びだけじゃ終われないんだな?……と思った。
どんなに上手く立ち回った積りでも、キッチリと『自分のしたことは自分が知っている』ものなんだと。
オープン前から店の前で待ってた女は、聞きもしないのに出席者の数を倍に膨らまして話した。
今度は出席してよ!なぁ〜んて言うから
俺は貧乏人だから働かなきゃならないし、何より今、仕事が楽しくて仕方ないんだ。ゴメンと……。
今までの人生の中で今が最高に幸せなんだよと言うと彼女は凄く哀しそうな顔をして帰って行った。
今、この刹那だけの表面を見て、散々『知り合い達の不幸を捏造し続け囃し立てた人間達』の人生を集大成する様に訪れた『自己不信の恐怖』……さぞかし辛いだろうなぁ?と思う。
しかしこれ僕の担当する問題じゃなく当事者が何とかして生きていく案件なのである。
そんな世界の人間達と無関係というのは頗る健康的な空気である。
自分自身のまんま受け入れ生きていけば楽なのにね?
自分より恵まれない人間を探す内に、自分が一番安心出来ない存在になってしまったのか?
必死こいて今の自分より少しでも上を目指す。
競争相手は昨日の自分しか居ないのである。
人の事ばかり見てた人間はそんな事にも気付けなくなるのか?……と感じた。
イジメてもイジメられても最終的にはフィフティフィフティの五分五分。
人生はホントに、公平に作られているもんですね……?
今辛い環境に喘いでいる人達に。
人は見ないで自分の心の内だけをシッカリ見て上げて欲しいと願います。
何時の日か?人に対して依存じゃなく真っ直ぐ依頼出来る日が必ずやって来ます。
楽しみは先にある方がよいのです。そしてその日は必ずやって来ますからね。
皆様のご健闘、本年も切に願っております。