サンチョパンサの憂鬱

サンチョパンサの食卓(108)人を評論する資格でも持っているかの様な人達(3)

自分を見捨ててない人間は、基本、人には無関心である。
『自分のこれから先』に未解決、改善の余地を見付けているから他人に構っている暇なんぞない!というのが生きる基本スタンスだからである。

人間は自分の改善の見込みを失い諦めてしまうと、何故か?他者の事ばかりが気にる様になるらしい。この傾向は人を選ばない。
何かに追い掛けられてるかの様な気忙しさで人の不幸や、失態とか落ち度を嗅ぎ回る様になる。

客観的に俯瞰して観てると『そんな人間』こそ早く手を打って改善したら良いのに?なぁ〜んて思うけれど、哀しいかな自分を諦めた人間は
自分の専権領域は荒れ放題のまんま放置する。

恐らく、ソレを『無意識に認識してる』からこそ『他者にはそれ以上、駄目で居て欲しい』という願望を抱く様になるのだろう。
『自分より恵まれてない人』を見付けては『あの人より自分はまだマシ?』そんな安心感を求めるのだと思う。

寄ると触ると……『…らしい?』と他人の噂話を求め歩く様になると時間と共に、自分の正常な位置確認が出来なくなってしまうのである。

そして世の中の基本ルールを一切見失い、全ての行動基準が『自分ナイズされたモノ』になってしまうのである。

自分が他者にしている行動、言動はそのまんま相手が自分に対して行っても良い、文句を言うことは許されないというのが最低限度の大人の世界の暗黙の了解なのである。

所が、『人間裁判所の判事様』になってしまった人はソコを忘れるのである。
『人間見たよ!』ってな言動を繰り返し、何を演っても揶揄を混入させ続けるのである。

知らず知らずの内に自分がまともな人間から見れば『取るに足らない?』存在に堕している事を全く認識・予見出来ないという孤独を囲うのである。

何があろうと『陽はまた昇る』のである。

静かに世の中は前に進み続ける。
慢心した人間は何時までも『同じ状態の中で同じ事を演っている積り』で生きている。
人は人を見て学び、二度と痛い目に遭う嫌な轍は踏まないと決意する。
そしてそんな輩とは縁を切る。

自分だけが人との縁を上げ下げ出来ると勘違いしている人間は……何時の間にか上げ下げどころか縁そのものが失われた事に気付けない。

アイツは除け者にしちゃおうぜぇ!と演ってる内に肝心の自分が迷子になっちゃうという悲喜劇……。
『自分のしたこと』は『相手も自分に対して同様に行うことが出来る』というルール。
相手がギリギリまで我慢した挙句に『無縁』をチョイスしただけ……。

肝心の自分はとっくの昔に『縁の冒涜?のやり様』で相手を落胆させている。
何度でも相手は哀しそうな顔をして擦り寄って来てくれる?そんな哀しい思い上がりの勘違いを途方も無い時間を失ってからやっと思い知る哀しさ……。

少なくとも……自分の事を残念に思ってくれている間が悔悛の執行猶予期間だと知っておきたいと思う。
ソレは大人を生きる為の最低限度の認識・流儀だと思う……。
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