政治・行政、マスコミ問題、教育界隈、司法・警察界隈、経済活動組織……何処を見ても行われている手法は?……不都合な状況に在って狙うのは『相手方の失点狙い』というコトが顕著な傾向である。
自らの失態には『如何に仕方なかったか?』ばかりが口を衝いて出る。
人が理不尽な形で命を落とす。
すると警察は『捜査に問題はなかった』が?何故か『結果として遺憾な形』となってしまいました?……と言う。
教育委員会は『イジメは無かった』けれど?何故か元気だった生徒が自殺を選択したのです……と言う。
財務省は野党の主張はよく分かる?けれど残念な事に『財源がないのです』……と言う。何故?財源が無くなったのか?とか?限界を迎えてる国民の税金、社会保障費の負担能力の問題なんぞは…存在してないかの如くのお言葉を放つ。
フジテレビは……被害者の人権、メンタリティの毀損を危惧する余り……『何も変えずに』『現状維持するしか無かった?』なぁ〜んて言う。
返す刀で、それにしても文春の報道姿勢は如何なものか?と攻撃勢力の失点狙いを演る。
何処もかしこも、今の目も当てられなくなった『現状』に対して『今まで通りの現状維持』しか提示出来てない事に気が付かなきゃね?ソロソロ。
『問題の当事者』が他者の失点を幾ら数え上げたって悲惨な現状は一ミリも改善してはいないという話である。
今頃、TKOの木下や鶴瓶がどうのこうの?と『枝葉末節の失点』を数え上げつらってもなぁ〜んも変わらない。
そんな間に時間とチャンスがどんどん目減りしてるだけなのである。
よく考えて欲しい。
『人間はサボタージュするもの』である。だって人間だもの。相田みつをでなくてもそんなの分かってる。
問題は『演って良いサボタージュと道徳踏み越えた法律を犯す論外の範疇のサボタージュ』の明確な線引きなのである。
かつてソレを我が国では『ケジメ』って呼んでいたんだけど……ね?
教育委員会とか神戸入管とか文書問題の財務省とか?……人が死んでいるのにイケシャアシャァと口だけ動かしてやり過ごそうとする事を許すのですか?……て話なのである。
これはね?左っけた人達がお題目の様に唱える『人権の話』とは訳が違います。
コレを傍観者気取って看過するならばその人間も全く同じ『共犯者』なのである。
かと言って、その場の当事者でさえ法律的にペナルティは課せられない。ましてや無事これ名馬?なぁ〜んて看過したって直ぐ様現実的不都合は起きないです。
しかし、よくしたもので『自分の演って来た事』って隅々まで自分が知っている。それは長い時間をかけて全身に回る『緩慢な毒薬』となってその人の足を引っ張り始めるのです。
結構な歳になって思うのは……周りのイイ歳の人間達が『自分の不安』から逃れる為に、やたら『人の失態・失点探し』に夢中になる姿はとても哀しく映るのです。
今になって『カネの不安』って時と共に大きなものになっています。そして『そのカネ事情は悪くなろうとも良くなることはない』という約束事……です。
カネもさることながら『言い様のない寂しさ』を抱えてるのもハッキリ見て取れます。
しかし今迄、培ってきた得意技は『人の不幸探しと失態祈願』です。一刻も早く、『自分の生き直し』に着手すれば良いのにね?と思えども『今迄、演って来たこと』は正直に『その人の力量をカウントしてる』……だから『その楽な現状維持』ばかりに囚われちゃう。
如何に憎い相手でも?その相手の失点は自分の加点にはカウントされない。
日々を浪費しながらドンドン寂しくなって行く。
『早過ぎる結論』に従って生きればとても楽です。だって『生きる横着』してるのですから。
しかしね?その横着はとても高くつく。
『そんなの』の『その時の計算』なんて占いレベルの精度しかないのは自明の理だからです。
時折やって来る同年代の人間は必ず僕に言う。
『僕は、私はもう働かなくても食って行けるんだ』……と。その癖、人の収入に恐ろしく興味を示す。
自分より、もっと稼げない人間を探しても彼の彼女の収入が増える訳もなく……。
『不安』って奴は次の時間の自分の目標設定のネタそのもの。人の事なんて放っといて『自分に夢中』になれば楽しいのに……ね?
僕が『今の自分の状況』を話せば彼等はとても哀しく寂しい顔になる。カネはどうであれ、少なくとも今の僕は、とても楽しく幸せだからなんだろうなあ?
ニューヨークダウにもブルームバーグのニュースにもコレからの自分の幸せのネタはない。
本気で何を演って生きてくか?
自分のホントの幸せのネタは自分の心の中の本音・本気・本望だという事に気付きたいよね?
その場しのぎの口……。
相手の失態・失点にしか目がいかなくなった時点でその人達は間違いなく不幸なんである。