立ち居振舞いに作為とか意図が窺えたらその演者の狙いは見事に外れる。
その立ち居振舞い以前に、全てを決するのはその人間の目の光、その様である。
目は口ほどにモノを言うっていうけれど、目は口以上に真実を語るものである。
意図とか作為を含んでいる目は、所在なく定まらず、いわゆる泳いでいる状態になる。
意図・作為が漂うをよしとせず、自らの品性でそれを抑制しコントロールしている人は目線がどしっと座り潔い光を湛えている。
それこそが天性自然の美なのだが……人間は後天的に『人工的に盛る技』を身に付けてしまう。
その狙いが漂うから……下品に堕してしまうのである。
『盛ってます!』、『こんなに盛れます!』ってアプリを嬉々として使ってるのが大人という事実……。
美的感性も経済同様……二極化を迎えているんだと思う。
これも『直ぐ!美味しい!』を欲しがる刹那万歳主義文化の一つだけど……夢も希望もないってなそんな状況下で必要なのは……『うんと先を見据えて考える方法』だという皮肉だ……。
激貧に喘ぐ国に必要な援助は……直ぐ美味しいカネじゃなくて、教育とか方法とか技術を教える事だというまどろっこしい方法が一番有効だというのと同じ原理である。
女子スケーターが華美な衣装を揃えても……人知れず鍛え上げたスキルに裏打ちされた人の演技には敵う筈もなく……
そろそろ、『時間が掛かる方法』を再評価しないと『勘違いのカワイイ』が街中に溢れ返る事になる……。
男の性欲に突け込みメシ泥棒を狙うおブスとカネを頼りに一発狙うおバカの男の……アカラサマな意図された作為 の応酬を見るにつけ……僕は思う。
お前たちにも親が居るんだろ?……と。
そして……哀しくなってしまうのである。
そして……哀しくなってしまうのである。