一方、罪知らぬ者が垂れ流した罪は一体何処へ行く?……そんな事をふと思う。
人間論、世の中論として『何で自分が?』等と思わず、気付く事にそしてそれを行える事に感謝せよ!というのは理解できる。
しかし、何やら気付かぬ振りして短慮にして短絡的な振る舞いに及ぶは、これは確信犯じゃね?……なんて事を最近僕は感じてしまうのである。
損得や横着心が先にあり……計算して愚かさを演っている?的人間によく遭遇する様になった。最後は決まって……後は野となれ山となれ~で現場から逃げて行くのである。
EQ(エモーショナルIQ) こそが今、一番価値を持ち始めている時代だけど、逆に逃げ得狙いの人間がヤケに増えてしまった。
まさしく凡庸は何時の時代も逆を打つ?の典型的現象だけど……。
近い将来、そんな輩達が自爆へ向かう事は解っていても、尚、憤懣は胸の内を駆け巡ってしまうのである。
恥さらしって軽蔑の言葉あれど、恥を知らぬ者はどこ吹く風でヘッチャラの体である。
大政奉還のその日……変わらず鍬を担いで野良に出掛けた小作もいる。
物事は見えて辛く……また見えなくて、もの悲しく……。
最近様々な『罪の深さ』というものを考える様になった。
一番深く重い罪は……自分の罪を知らない事なんだろうと思う……。
その一番深く重い罪は……日常茶飯事で犯されるけれど……その本人によって償われる事は絶対にないのである……。
だからこそ……自分が気付いた以上……『何で自分が?』を捨て去ってそれが当たり前になるまでルーティーンにして修正を行い続けること……それ以外の修行法は無いんだろうなぁ?
自分の罪知らずは大きな罪だけど……それを見咎めて僕の様に被害感情を持ちその人の心の狡さを上げつらうこともまた無頓着な罪を犯す人同様の大きな罪を犯してるのだと少し分かる様になれた気がする。
その人は出来ない。自分はそれを請けおえる。ならば気付いたものが行えば良い……『気付いた者に行う責任がある』という言葉は共生や共有、共感社会という次なる社会モデルのキーワードそのものだと最近思う様になった。