サンチョパンサの憂鬱

後ろめたさの説明に他者は要らない

後ろめたさの正体は自分が述べた詭弁の質の悪さと量に比例している。

そんな失態を演じる時、必ず相手に対する甘えというものがある。
何度か同じ構図でそれを繰り返した後に、それでも懲りずに甘えを頼りに目一杯の要求なり意趣返しを行う……。

我慢を重ねた相手が何の抵抗もせずそれを受け入れた時…… その関係は瓦解し消滅する。
哀しい事に既に相手には怒りの感情はなく、その関係に対する諦観が支配している。

そこから当人は遅過ぎるエクスキューズを語りながら狼狽し始める。

後悔にせよエクスキューズにせよ、また頼りの怒りの感情であれそこからのその人の感情の全ては無意味と化すのである。

そんなオオカミ少年の様な……やること為すことの主張全てが是認された結果の孤独な状態……はとても過酷である。

オオカミ少年はオオカミによって一気に最期を迎えたけれど……人の世では終わる事さえ出来ないのである。
甘え頼りにしていた人の全人格が自分の前から露と消える。
その欠片さえ『何も無い』時空が自らの人格の質を 突き付け続けるのである。

『弄(もてあそ)んだ』という愚はそうやって現実となる。
その人は人間の関係を人質として弄んだのか?うんと後になってその人は知る……。

自分が意気揚々と増長し弄んだのは他ならぬ自分の心であった事を……。

後ろめたさとか引け目って奴がたちが悪いのはその事の最中には増長、不遜のせいで自分の為に狼狽している相手に優越感すら抱いてしまう事である。

随分と後になってその薄ら寒い負の感覚がやって来る。
増長、不遜を放置したままだから全く同じやり方で『相手の気持ちは自分に残っているか?』を確かめるという愚行を繰り返す事になるんだと思う……。

『薄ら寒い負の感覚』……それを感じた時が最後の修正のチャンスと捉えられた人のみが後ろめたさから解放されるのである……。

『仏の顔は三度まで』って昔の人は言ってるから……自分の真実の部分から送られてくるその信号を逃す事を三度続けてはならないって事だと思う……。
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