サンチョパンサの憂鬱

人の失態を責める人達の倫理

世界チャンプの村田が先般のボクシング界のスキャンダルに対して興味深い呼び掛けをしていた。
心理学者ビクトルフランクルの著書を例に鋭い指摘だった。

アウシュビッツの収容所の捕虜の中から有利な立場に抜擢されたユダヤ人が同胞に対して、不遜になり非人間的な振る舞いを行った事を例に……『もし自分がその有利な立場になったら同じ振る舞いをしないか?』と想像し考えて欲しい……と。

これは自分の汚さとか弱さをシリアスに考えた事がないと中々難しい。
得てして、自分を大正義の上に置き聖人君子になったかの様に批判を浴びせがちである。

体制が磐石と見える時には口をつむいで黙認していた人が、空気が変わって多勢の側が批判勢力に変わったぞ!となれば手のひらを返して『前から常々憂慮していた聖人』となるのである。

自分の汚さ弱さを念頭に置いておかねば、人は罪を犯した人をトコトン追い詰めてしまうという懸念を彼は表明した。
さあ……会長を叩いてやっつけろ!の空気の中でも冷静な呼び掛けは流石だと思った。

『自分もそうなるかも知れない?』という想像。
他人の罪の中に自分の罪を見付ける事は……結局は自分を救う。
自分を客観視出来る事は……大人として自分を愛する為の必須条件だ。

人の弱み(罪)が暴かれた途端に自分を神の立場に置いて批判、攻撃に没頭するのは歪んだ餓鬼の全能感に酔いしれているだけだ。

テレビのワイドショーでコメンテーター達が安っぽい正義を振りかざし口を極めて罵る文化がこの国を詰まらなくさせたのだと思う。
そんな……自分を棚に上げて喋る正義にはなんの力もなく、その人間の品性の乏しさを浮き彫りにするだけなのである。

人の上に立って失敗を犯した人を糾弾するのと……その人のこれからを憂えて説諭することは全く違う。

自分にその資格はあるか?……という自問は絶えずモチベーションしとかなくちゃね?
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