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東村山殺害疑惑事件! カルト創価本部か?②

2022-06-26 22:58:26 | 日記
第10.殺害予告を証明する上でも必要な東村山事件の再捜査

 被告池田大作創価学会名誉会長の訴訟代理人たちは、和田氏による私に対する殺害予告発言を否定しています。それどころか、新宿のホテルで私を査問する前に、創価学会本部で和田氏を査問したことも否定しています。
 
 しかし、私は、和田氏から電話で殺害予告を告げられたばかりか、査問当日のエレベーターの中でも「優秀な人間を殺したくない。」と直接言われました。この和田氏の発言は、証拠として提出した録音からも聞き取ることができます。

 被告池田氏らの訴訟代理人たちが殺害予告を否定していることの真偽を明らかにする上からも、警察に東村山事件の再捜査をしてもらう必要性があると思います。野崎氏を事情聴取するならば、暴力団員に「ほとぼりが冷めるまで姿を隠せ。」と命じた創価学会員の氏名を明らかにできるだけでなく、東村山事件の詳細を詳しく知ることが出来ると思います。

 野崎氏から聞かされていた東村山事件の「真実」が証明されるならば、創価学会本部が、和田氏を通じて私に殺害予告したことが真実であったということの、動かし難い証拠になると思います。

第11.野崎氏の「真意」

 今回、野崎氏の発言を整理していて、私は、以下のことに気づきました。
 
 まず、なぜ野崎氏は、私が尋ねてもいない東村山事件について、私に話したかということです。
 
 次に、野崎氏は、当時、池田名誉会長とその側近幹部による創価学会の運営のあり方に相当疑問を抱いていたことです。
 
 そして、野崎氏は、池田名誉会長と創価学会本部の秘密を全部私に話し、私の口から創価学会の実態を世間に公表させようと考えていたということです。

 この三つのことから、私は、今になって初めて、野崎氏の「真意」に気が付きました。

 今回提出した電話記録の中で、野崎氏は、「高倉さん、約束破ってるしね。だから、もう既にしゃべっちゃってたわけだな、あの時は、心配になって。前にいろんなことしゃべった時に、婦人部には絶対言うなよと言ってたんだけど、大丈夫だってしゃべったでしょ。そういうことがきっかけなってるんですよ。だから、私は私なりに注意して、高倉さんとしゃべってたんだけど、高倉さんを信用してしゃべってたわけよね。」と語っていました。

 野崎氏は、熱心な創価学会の活動家である私の妻に話すのではなく、野崎氏が語ったことを、私が大学教授であるという立場を利用して、出版物として広く社会に公表することを望んでいたのだと思います。

 「私は私なりに注意して、高倉さんとしゃべってたんだけど、高倉さんを信用してしゃべってたわけよね。」との発言からも、野崎氏が、私に語っていた事柄はすべて真実であると思います。野崎氏が東村山事件について語った内容も本当のことだと思います。

 ところが、野崎氏から貴重な東村山事件のいきさつを聞きながら、当時、問題意識に乏しかった私は、さらに詳細を野崎氏から聞き出すことをしませんでした。「ウチ(註:創価学会のことを指す。)は、オウムの事件にも絡んでいますからね。」との野崎氏の発言に、私は愕然として言葉を失ったのです。





第11.野崎氏の「真意」

 今回、野崎氏の発言を整理していて、私は、以下のことに気づきました。
 
 まず、なぜ野崎氏は、私が尋ねてもいない東村山事件について、私に話したかということです。
 
 次に、野崎氏は、当時、池田名誉会長とその側近幹部による創価学会の運営のあり方に相当疑問を抱いていたことです。
 
 そして、野崎氏は、池田名誉会長と創価学会本部の秘密を全部私に話し、私の口から創価学会の実態を世間に公表させようと考えていたということです。

 この三つのことから、私は、今になって初めて、野崎氏の「真意」に気が付きました。

 今回提出した電話記録の中で、野崎氏は、「高倉さん、約束破ってるしね。だから、もう既にしゃべっちゃってたわけだな、あの時は、心配になって。前にいろんなことしゃべった時に、婦人部には絶対言うなよと言ってたんだけど、大丈夫だってしゃべったでしょ。そういうことがきっかけなってるんですよ。だから、私は私なりに注意して、高倉さんとしゃべってたんだけど、高倉さんを信用してしゃべってたわけよね。」と語っていました。

 野崎氏は、熱心な創価学会の活動家である私の妻に話すのではなく、野崎氏が語ったことを、私が大学教授であるという立場を利用して、出版物として広く社会に公表することを望んでいたのだと思います。

 「私は私なりに注意して、高倉さんとしゃべってたんだけど、高倉さんを信用してしゃべってたわけよね。」との発言からも、野崎氏が、私に語っていた事柄はすべて真実であると思います。野崎氏が東村山事件について語った内容も本当のことだと思います。

 ところが、野崎氏から貴重な東村山事件のいきさつを聞きながら、当時、問題意識に乏しかった私は、さらに詳細を野崎氏から聞き出すことをしませんでした。「ウチ(註:創価学会のことを指す。)は、オウムの事件にも絡んでいますからね。」との野崎氏の発言に、私は愕然として言葉を失ったのです。

 東村山事件のことについて、公表等何らの方策も講じなかった私に対し、野崎氏は、多分失望したと思われます。誠に申し訳なかったと思います。
 
 そこで、野崎氏の「真意」を実現するためにも、東村山事件の再捜査を遅ればせながら提言させて頂きます。
 
 殺害予告、粒致未遂を現実に受け、その上、自宅に対する何度かの嫌がらせや研究室に対する嫌がらせを受けた私としては、東村山事件について書かれていることが痛いほど分かるようになりました。


第12.殺害予告に脅えた背景

 私は、これらの資料を野崎氏から東村山事件の「真実」を告げられる前から読んでいました。いずれも東村山事件は創価学会の犯行であることを主張、立証しようとしたものです。しかし、創価学会が市議会議員の殺害に関与しているとは思いませんでした。

 ところが、野崎氏から東村山事件の「真実」を聞かされました。本当に驚きました。野崎氏が、私に虚偽を述べたとは思えません。

 このような背景があったので、私は、和田氏の殺害予告電話とエレベーターの中での「優秀な人間を殺したくない。」との発言に、心底恐怖を感じたのです。創価学会にとって不都合な人間は、最悪の場合には自殺などを装って殺害されると考えたのです。

          以上

「創価学会の資源・人材活用大運動に参加しましょう」に関するご意見募集
             2013年6月吉日
                  創価学会学術部員
                  国立大学法人香川大学教授
                       高倉良一

 VS.原田創価マフィア♦

創価の二字は  永久に凍結すべき 魔の新興宗教


として  後世の 悪しき模範解答となると


池田氏は
 

組織化よりも  ユダヤ協会のようなやり方を 希望していました。

国 国を 基本として  一人一人が 幸福にならない 宗教では 意味を失い 

政治家に利用され破壊されています

一切 政治を入れない あくまでも 中立的なスタンスが必要となるのでしょう!



創価原田宗教マフィアは 数万人の
陣容で 犯罪被害者の 損害賠償責任組織として 残るのです。


 
 東村山事件についての資料としては、幸福の科学広報局編『創価学会ドラキュラ論』(1995年、幸福の科学出版)、乙骨正生著『怪死』(1996年、教育史料出版会)、矢野穂積・朝木直子著『東村山の闇-「女性市議転落死事件」8年目の真実』(20033年、第三書館)があります




東村山殺害疑惑事件!は創価本部マフィアか?①

2022-06-26 22:53:34 | 日記
創価の排他性 独善性、独裁性、非寛容性、


全体主義傾向、個人の言論の自由、表現の自由を  弾圧する性向は


創立 初期から存在したのです。 

会長根本、会長絶対的性向は  戸田時代からありました。

故に  池田氏の平和派な 団体を 再建するためには  


解体解散することが必勝不可欠です。


大石寺との和合して  やり方を変え  1からやり直す!


下記の 再審裁判を要求します。


高倉良一

第1.東村山事件は創価学会による殺害犯行との野崎至亮氏の証言

 東村山事件とは、平成7年9月1日の夜、東村山市の現職の市議会議員朝木明代氏が、東村山駅そばのビルから転落しているのが発見され、搬送された病院で死亡した事件のことです。この市議会議員は、創価学会と池田大作創価学会名誉会長を弾劾する活動をしていたことで有名でした。

 創価学会元副教学部長の野崎至亮氏(〒 略 住所 略 、TEL 略、以下、野崎氏と記述する。)は、「高倉さんも東村山事件のことは聞いたことがあると思うけど」と前置きして、以下の発言をしました。

 「平成7年9月1日夜、創価学会の最高幹部から朝木議員を脅すように命じられた暴力団員2名が、朝木議員の体をビルの6階の外側に抱え上げて、創価学会に敵対する活動を止めなければ落とすぞと脅していたんです。ところが、誤って朝木議員を落として死亡させてしまったと、この暴力団員2名が、創価学会の幹部(註:池田大作氏の海外資産の移動に関与した創価学会員で、職業は公認会計士か税理士。)のところに顔面蒼白になって駆け込んで来たんです。そこで、この創価学会幹部は、朝木議員のことは自殺として処理するので、ほとぼりが冷めるまで身を隠せと暴力団員に命じたんです。」と、野崎氏は話しました。



 私がとても驚いた顔をすると、野崎氏は、「このことは、暴力団員に身を隠せと命じた学会員から、私(野崎)は直接聞きました。」と、私に告げたのです。

 私が、この野崎氏の証言を聞いたのは、平成16年7月18日(日)午後4時過ぎ、新大阪駅へ向かう大阪市内の道中のことでした。

第2.大阪の研究会が終了してからの野崎氏の発言

 平成16年7月18日(日)の午後4時半過ぎのことでした。高山メディカルクリニック(住所 略)の4階で行なわれた仏法の研究会が終わり、私は高松に戻るべく新大阪駅に向かおうとしていました。すると、高山メディカルクリニックの玄関で、野崎氏が「高倉さん、途中まで一緒に帰りましょう。」と、私に声を掛けて来ました。

 普段は、谷町9丁目駅から地下鉄に乗車していました。しかし、この時は、野崎氏が「少し歩きましょう。」と言われたので、私は、野崎氏の案内で、いつもとは異なる地下鉄の駅に向かいました。

 私は歩きながら、「池田名誉会長(以下、池田氏と記述する。)のことに疑問を持たれるようになったのは何時ごろからですか。」と、野崎氏に尋ねました。

 すると、野崎氏は、「言論問題(註:昭和44年に、創価学会が藤原弘達氏の著作『創価学会を斬る』の出版を妨害した事件を指す。)の時に、本体(註:池田氏のことを意味する。)が、『創価学会が出版妨害をしたとマスコミから叩かれたのは、まるで処女がいきなり輪姦されたようなものです。』と言ったんです。私は、何と品のない表現をするのだろうかと思ったんです。それから、聖教新聞社の資料室に保管されていた水滸会記録(註:故戸田城聖創価学会会長が、創価学会の青年部幹部に語った言行録を指す。)などを読むようになったんです。昔は、この記録を自由に読むことができ、本体が言っていることはおかしいと考えるようになったんです。」と答えました。

 この発言に驚いた私は、「そんな昔からですか。」と質問しました。野崎氏は、「私の弟(註:故野崎勲創価学会副会長を指す。野崎勲氏は、昭和49年に日本共産党と創価学会が締結した「創共協定」の調印者として有名である。)が本体の側近だったから、いろんな情報が入って来ました。また、私が勲の兄だからということで、私に情報提供する幹部も多かったんです。」と語りました。

第3.本体の弱点は金の問題です

 私は、「本体にとって弱点となるのはどんなことですか。」と野崎氏に尋ねました。

 すると、野崎氏は「国民にとって一番分かりやすいのは、本体の金の問題でしょうな。」と言われました。野崎氏は、「山友(註:元創価学会の顧問弁護士だった山崎正友氏のことを指す。)や原島(註:原島嵩元創価学会教学部長のことを指す。)は、本体のスキャンダルを暴露すれば、本体を倒せると思ったんですよ。しかし、女性問題などのスキャンダルでは、本体を倒せなかったんです。本体の金のことが明らかにされたら、国民にとっては分かりやすいでしょう。ルノアール(註:ルノアールの絵画購入と売却に関する不明朗な資金の動きが、池田氏の裏金作りのためではなかったかと報じられた事件を指す。)のことや国税(註:創価学会本部と池田氏の脱税を摘発しようとした国税庁に、矢野絢也元公明党委員長が政治力を駆使して圧力をかけたと報じられた事件を指す。この問題については、矢野絢也著『乱脈経理 創価学会VS.国税庁の暗闘ドキュメント』(講談社、2011年)で、その詳細が明らかにされている。)のことなど沢山ありますからね。」と言われました。




 野崎氏は、「本体が創価学会の会長を勇退してから、私たち幹部を集めたんです。そして、一人一人に、創価学会の資産はすべて池田家のものですと書いた書面に署名させたんですわ。それも、北条会長のいる前での署名でしたから、ようやるわと思いました。」と語りました。

 さらに、野崎氏は、「北条会長が、創価学会の本部職員を集めて、『創価学会の資産に比べたら、君たちの給料はゴミみたいなものだから、給料が貰えなくなるということなど全く心配することはありません。』と発言したことがあったんです。その時、学会本部の職員たちは『俺たちはゴミか』とぼやいていましたわ。」と話しました。

第4.「金庫事件」の真相

 そこで、私は、野崎氏に、和田公雄氏(以下、和田氏と記述)から聞かされていた「金庫事件」のことを話しました。

 「金庫事件」とは、平成元年6月30日に、神奈川県横浜市旭区のゴミ処分場に捨てられていた金庫の中から現金1億7000万円余りが見つかった事件のことです。

 同年7月3日の夜、中西治雄創価学会総務(以下、中西氏と記述する。)が、このお金の所有者であると名乗り出ました。その時の記者会見で、中西氏は、「この金は、昭和46年から3年間、日蓮正宗総本山大石寺で個人的に開いた土産物店で金杯などを売って儲けて脱税した金で、聖教新聞社地下倉庫に置いたまま忘れていた。」と説明しました。

 この金庫事件のことに関して、創価学会本部の経理に携わっていた職員が退職する寸前に、和田氏に面会を求めて来たそうです。和田氏が面談すると、この人物から、「和田さんにだけは本当のことを教えます。あのお金は、中西さんのものではありません。返還前に沖縄で集められた財務のお金だったんです。」と告げられたそうです。

 このように和田氏が「金庫事件」の真相を語っていたことを、私は野崎氏に紹介しました。

 すると、野崎氏は、「和田さんが、そんなことを言っていたの。だったら本当でしょうな。」と言われました。

 そこで、私は、「和田さんは、創価学会の限られた最高幹部しか、この金庫事件の真相を知らないと思うよ。」と話していたと述べました。

第5.海外の銀行に預けられた池田氏の資産

 野崎氏は、池田氏が創価学会の会長だった頃、池田氏が会員を同行して海外に行っていた時のことを話し始めました。池田氏に同行する会員は、学会本部に集められて海外旅行に関する様々な注意事項を告げられたとのことです。その後、幹部から、1人100万円ずつ入った封筒を渡され、それを各人の荷物の中に入れて持ち出していたと言われました。

 私が、「それは外国為替法違反ではありませんか。」と述べると、野崎氏は、「その通り。でも、池田先生のお役に立てる、広宣流布のためだと、みんな使命感に燃えてやっていたから。」と言われました。

 さらに、野崎氏は、池田氏は海外の銀行に資産を預けていると言われました。最初は、スイスの銀行に預けていたけれども、マネーロンダリングなどの審査が厳しくなったので、香港にある上海銀行に移したとのことです。その後に、ケーマン諸島の銀行に移動させたと語りました。

 野崎氏が話した池田氏の資産に関する話は初めて聞くものでした。私が、「海外の銀行に、池田氏が莫大な資産を預けているというのは本当だったんですね。ちょうど、池田氏が、キューバを訪問された時期ですね。」と述べると、野崎氏は、この資産移動を処理したのは、創価学会の経理を担当している人物であると言われました。




第6.野崎氏の東村山事件に関する発言

 野崎氏は、この人物の名前と肩書を口にされました。ところが、私は、その名前を思い出すことができません。駅に向かって歩きながらだったので聞き逃してしまったのです。肩書は、公認会計士か税理士かのどちらかだったと思います。

 しかし、発言内容については鮮明に覚えています。野崎氏が、この人物から東村山事件に関する「真実」を直接聞いたと述べたからです。その内容は、「第1.東村山事件は創価学会による殺害犯行であるとの野崎至亮氏の証言」で述べた通りです。野崎氏は、朝木議員殺害の「真実」を「直接、この人(公認会計士か税理士)から聞きましたわ。」と語ったのです。

 私がびっくりして、「東村山事件には、創価学会が関係しているのですか。」と質問すると、野崎氏は、「ウチ(創価学会のことを指す。)は、オウムの事件にも絡んでいますからね。」と答えました。

 東村山事件に関する野崎氏の発言は、池田氏の資産に関する話の中でなされたものでした。私は、野崎氏は「真実」を語ったと感じました。

 しかも、オウムのことまで飛び出したので、私は、心底驚きました。この時は、私が質問もしないのに、なぜ、野崎氏が東村山事件のことを話したのだろうかと思いました。

 しかし、野崎氏に、発言の真意を聞くことはしませんでした。私は、創価学会の闇の奥深さを垣間見たような気がしました。私は、とても恐ろしくなり黙り込んでしまいました。野崎氏は、私の雰囲気を感じたのか、これ以上は語りませんでした。

第7.野崎氏の発言の信憑性

 大阪の研究会に参加するようになってから、野崎氏は、私からの質問に答えるという形で発言していました。私の質問のレベルを確認しながら、その疑問を晴らすという形で説明されていました。私が質問しない事柄を話すということは一度もありませんでした。

 ところが、東村山事件に関する野崎氏の発言は、池田氏の資産に関する話の流れの中でなされたものでした。私が、野崎氏に対して、東村山事件のことについて質問したのではありません。突然、野崎氏が東村山事件のことに言及されたのです。

 私は、野崎氏の発言を聞き、本当にびっくりしました。そして、釈迦の説法の方式が脳裏に浮かびました。釈迦が、最高の「真実」を語った際に用いた「無問自説」という方式です。

 釈迦が説いたとされる法華経方便品第二の中に、「爾の時に世尊、三昧より安詳として起ちて、舎利弗に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり、其の智慧の門は難解難入なり」 と説き出したという箇所があります。

 これまでの経典では、釈迦は、衆生からの質問に応じて法を説いていました。ところが、衆生の質問がないのに釈迦自らが法を説くことは、「無問自説」と言われ、このような説法は「随自意」 の説法と言われています。

 私は、野崎氏の発言態度から、釈迦の「無問自説」ということを想起したのです。私は、野崎氏は「真実」を語り始めたと感じました。野崎氏は、私が「無問自説」という釈迦が「真実」を述べた際の方式を知っているということを前提に、東村山事件の「真実」を話したのだと思います。

第8.野崎氏が東村山事件の「真実」を語った背景

 実は、野崎氏から、東村山事件の話を聞かされる前に、私は、野崎氏から弟の勲氏(平成16年3月14日死去)が亡くなっているのが発見された状況のことで相談を受けたことがあります。

 野崎氏によれば、勲氏は、自宅の寝室のベッドから落ちている姿で発見され、その時点では、すでに亡くなっていたとのことです。

 ところが、勲氏の自宅に駆け付けた公明党常任顧問の藤井富雄氏が、勲氏の遺体を救急車で慶応大学医学部附属病院に搬送させたとのことです。野崎氏は、なぜ、死亡していたにも関わらず、勲氏の遺体を救急車で搬送させたのかを不審に思っていると言われました。

 そこで、私は、発見時に死亡が確認された場合には、救急車が病院に遺体を搬送することはあり得ないと述べました。そして、以下のような私自身の体験を話しました。


かつて、私は、香川大学の女子寮で亡くなっていた学生が発見された際、現場に駆け付けた体験があります。
その時は、他の大学職員が救急車を呼びました。ところが、女子学生の死亡を確認した救急隊員から、遺体を救急車で病院に搬送することはできないと言われました。そして、警察に通報するように言われました。そこで、警察に通報すると、警察官が女子寮で現場検証を行ったのです。

 以上の体験を話すと、野崎氏は、「警察官による現場検証を避けるために、政治力を行使して病院に搬送させたんですな。エス(註:創価学会本部のことを指す)がやりそうなことだ。高倉さんに話して良かった。」と言われました。そして、さらに、野崎氏は、勲氏の葬儀の模様も克明に話されました

 今にして思えば、私の体験談を聞いて、勲氏の死亡に関する疑問が解消された野崎氏は、私のことを信頼されたのではないかと思います。その結果、野崎氏は、東村山事件の「真実」を「無問自説」という形で私に語ったのだと思います。勲氏の死亡に関する悩みを相談した野崎氏が、東村山事件のことについて、私に嘘を述べたとは思えません。

第9.和田公雄氏から告げられた殺害予告

 これまでの陳述書で述べたように、平成20年2月12日に、私は、和田氏から「将来、高倉さんが忘れた頃に、創価学会とは直接の因果関係が分からない者に、高倉さんを殺させる工作をするはずだ。本体(註:池田大作創価学会名誉会長のことを意味する言葉)は、自分を批判した者は絶対に許さない。目と目を合わせた上で、すっ飛んで行って、相手を殺害するような人間が、創価学会本部には大勢いる。本体の取り巻きは、高倉さんとその家族がバラバラになることを面白がっている。誰も、高倉さんの家族の将来のことなど考えていない。」と、電話で告げられました。

 その2日後の2月14日の夜遅くには、「高松の学会員は逆上して、高倉を殺すと言っている。一応は止めるけれども、彼らはいつ暴発するか分からない。高松の学会員が暴れ出したら、こちらも創価新報で大キャンペーンを張る。」と和田氏を査問した創価学会の幹部が言っていたと、和田氏から聞かされました。

 












池田派、天野達志氏、ハタチ氏等の限界!

2022-06-12 22:00:51 | 日記
あらゆる物事を勧善懲悪の図式に落とし込み、

溝口の言う「はっきりとした(可視化される)憎むべき敵」を常時設定しておかないと自我を保てない人たち、、、


現執行部を執拗なまでに悪魔化し


「池田先生の創価学会を取り戻す!」

と短絡的なストーリーに浸る思考回路を脱却できないうちは、信濃町の術中に嵌ったまま

秋谷栄之助創価会長が八王子サリン事件を通報してれば 地下鉄サリン事件は防げた!

2022-06-10 20:34:20 | 日記


池田大作名誉会長サリン暗殺未遂事件は 警察に通報しない!秋谷栄之助創価邪教日本本部会長のカルト創価マフィアの大実験ですか?

この池田名誉会長サリン暗殺未遂事件を再度 時系列で検証しカルト創価日本本部マフィアの池田氏潰しを検証し 仕組まれた 1979 4 24 の池田氏の会長辞任から 池田の創価学会乗っ取りを みてカルト創価学会本部マフィアを全世界に公開する!

●○●松本サリン事件、地下鉄サリン事件は防げた可能性がありませんか?

秋谷栄之助創価学会本部が警察庁に事実関係を通報していれば松本サリン事件、地下鉄サリン事件は防げた

池田大作サリン襲撃未遂事件(いけだだいさくサリンしゅうげきみすいじけん)は、1993年11月と12月18日に、オウム真理教信者によって、創価学会名誉会長である池田大作が暗殺未遂された事件のこと。

地下鉄サリン事件後にオウムへ集中捜査が入り教団幹部らが逮捕され、裁判では立件はされていないが、松本サリン事件に至る前日談として言及され、麻原彰晃、村井秀夫が首謀して遠藤誠一、新実智光、中川智正、滝澤和義らと犯行を行ったことが認定された。

概要編集
オウム真理教の教祖である麻原彰晃は、同じ新宗教である創価学会を敵視していた。麻原によれば、創価学会は『外道』であり[1]、また、「サンデー毎日から始まったオウムバッシングは、聖教新聞を印刷している毎日新聞社グループと創価学会が結託して行っている」などと主張[2]、『池田大作は日本を侵略するフリーメーソンの手先であり「仏法」を曲げているまむしの一族』[3][4]、『多くの人をだまして来世悪趣に転生させてしまうのでこれを防がなければならない』[5]、『オウムの信徒数を創価学会並みに増やしたいが、それに至らないのは池田大作が小沢一郎を使って国家権力を動かし妨害しているからだ』[6]、『ポアしなければならない』[7]と敵対心を露わにしていった。

1993年8月、土谷正実がサリン合成に成功[8]。麻原はサリンの最初のターゲットとして池田をサリンで暗殺することを企図し、「サリンをまいてみろ」と指示[3]。最高幹部の村井秀夫らが行動に移した。当初ラジコンヘリによる航空散布が検討されたが、ラジコンヘリが操縦ミスで大破したため、車両による攻撃に変更した[5]。

経過編集

1993年12月18日、東京都八王子市の創価大学では演奏会が開かれる予定になっており、池田大作が出席する情報が事前に漏れ、約3kgのサリン攻撃を受ける。
1回目は1993年11月、クシティガルバ棟で生成したサリン約600gを、村井秀夫、新実智光、中川智正、滝澤和義らは乗用車に農薬噴霧器「霧どんどん」を載せて、創価大学の近隣にある八王子市の学会施設「東京牧口記念会館」に1回目の攻撃を行うが[9][10]、霧にならないで路上に落ちる、サリンが車内にも入る、ボツリヌス菌散布用の霧どんどんも故障するなどして失敗[11][3][12]。実行役らはガスマスクをしておらず若干サリン中毒の症状が出た[5]。

2回目は1993年12月18日(土曜日)で、東京都八王子市の創価大学では演奏会が開かれる予定になっており、池田も出席することになっていた。オウム真理教は、事前に池田が演奏会に出席するという情報を入手していた。当日未明、東京牧口記念会館にオウム真理教のサリン噴霧トラックが向かったが、ガスバーナー式加熱気化噴霧器による火災が発生し、会館の警備を担当している創価学会の牙城会の会員に怪しまれワゴン車で追跡してきたため、直ちに逃走。Uターンしながらなんとか3kgのサリン溶液を噴霧した[9]。

その際、実行犯の新実智光は、サリン噴霧トラックを後退させるため防毒マスクを外したせいでサリンを大量に吸引し、重体に陥った。新実に対し遠藤誠一や村井秀夫が人工呼吸を行い、直ちにオウム真理教附属医院に搬送され、林郁夫らの治療の結果一命を取り留めた[11]。遠藤は新実が死にかけたことに関して「このようにステージの高い人でも、やはりサリンの猛毒には勝てず、このような無念な死に方をするのだと悲しく思ったことは、今でも決して忘れることができない」と語っている[13]。だが新実は周りが大騒ぎしているのに反してサリンを吸っていい気持ちだったという[9]。

治療の際、林郁夫が中川智正に原因を尋ねると、中川は「サリーちゃんでポアしようとした」と答えた。林郁夫は、「サリーちゃん」が「サリン」を指すこと、そしてオウムがそれを保有していたことをこの時初めて知った[10][14]。

池田本人には被害は無かったものの、当日、警備していた牙城会員数名が、一時的な視力減退や倦怠感などサリン中毒特有の症状を訴えたという[15]が、後遺症は確認されなかったため、創価学会では警察への通報を行わなかった。

創価学会側の対応編集
数名の牙城会員が被害を負ってはいたが、学会側はこの事件を表沙汰にすることはなく、池田大作サリン襲撃未遂事件の犯行の事実は、1995年に林郁夫の自供で明らかにされるまでおよそ1年半公にされることはなかった[16]。【何故に秋谷栄之助会長創価本部は池田名誉会長の暗殺未遂事件を警視庁に通報しなかったか?
オーム真理教と秋谷栄之助創価本部上層部が 何らかの 情報提供していたという一般人がいます事を 追記しておきます】※※※また、池田名誉会長サリン事件を警視庁に通報していれば、後の松本サリン事件、地下鉄サリン事件は防げた可能性を指摘する 一般人もいます。

しかし、創価学会名誉会長である池田大作の行動予定の外部への漏洩、流出という事態を重く見た学会は事件以降、池田の行動予定の情報管理を厳しくするとともに、創価学会本部職員の中からボディガードを選抜した「第一警備」を発足させて池田の身辺警護に当たらせるとともに、学会員による金城会、牙城会、創価班などに、各会館の警備を強化させている[17]。

その他編集
2回目の失敗の後麻原は、さらに大量のサリンで一般人を巻き添えにしてでも殺害することを決意し、更なるサリン製造を指示しサリン30kgが完成、防毒マスクの改造や散布器の設計変更(ガスバーナー式→バッテリー式)などを行ったが[5]、1994年1月に実行する計画に間に合わなかったため中止された。この時製造されたサリンは滝本太郎弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件に転用されることとなる[10]。うち、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件は1回目の攻撃でサリンが車内に侵入したことを参考に行われた[11]。
この事件の前の1993年夏にも、学会施設に炭疽菌を撒いているが失敗している。1993年12月には東京信濃町をボツリヌス菌噴霧車で再度襲撃しようとしたが、この際も警備に怪しまれたため実行部隊の早川紀代秀が中止させた。これに麻原が不満を持ったためか早川は以後テロの現場から外されることとなった(なお、オウムはボツリヌス菌の培養にも失敗しているので、仮に実行しても被害が起きたかは疑わしい)[18]。
早川紀代秀は創価学会の八王子施設の平面図も入手していたが、それによるとプライベートルームのようなところがあり、そこに浴場があった。早川は麻原にオウムもこういうのを作ってはどうかと勧めたが、麻原は興味を示さなかったという[19]。
創価学会陰謀論はオウムの得意とするところで、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件、地下鉄サリン事件発覚の際には、創価学会によるオウム潰しの謀略であるという主張を行った[20]。
松本サリン事件の前頃、かつて長らく創価学会と関係があった日蓮正宗の総本山大石寺も、サリン攻撃の候補地にあがっていた[21]。
1995年1月には幸福の科学総裁の大川隆法をVXで襲撃する計画があがっていた

♣♦♣前回の資料を添付する。 池田氏は

♦敵は内部♦

この言葉の通り 秋谷栄之助創価日本本部会長 以下  信濃町本部執行部は 池田氏を

見事に裏切り 2022年完全にSGIの大半を乗っ取りに成功したが

アフリカのコートジボワール池田派ディアゾン博士、アウグスティントGM主流派5万信者はカルト原田創価邪教から離脱。

また宮川僧侶のセルビア、マケドニアは部分的に離脱。日本は反対側が多数に分離。 池田派の宮川日護僧侶  金原副会長  林氏  正木理事長派、川崎青年部3人組 の池田平和主義者は

池田の平和思想を 後継者に語り継いでいる。

朝の通勤時間帯の公共交通機関を狙った無差別テロ「地下鉄サリン事件」から23年。新興宗教団体オウム真理教が引き起こした一連の事件では教団関係者190人が有罪判決を受け、うち、教祖だった松本智津夫死刑囚と教団幹部12人の死刑が確定していた。2018年7月6日に松本死刑囚を含む7人、26日に6人の死刑が執行され、事件は節目を迎えた。オウム真理教をめぐる動きを年表にまとめた。池田名誉会長サリン暗殺未遂事件は 1993年 11月 と12月18日に2回に実行された。

オウム真理教をめぐる動き
1984年2月 「オウム神仙の会」発足、87年6月「オウム真理教」に改称
1989年11月 坂本弁護士一家殺害事件
出家信者の家族からの相談をきっかけに、教団の反社会性を批判する活動を展開した坂本堤弁護士(当時33歳)とその妻、1歳の長男を横浜市の自宅で殺害。3人の遺体が発見されたのは、95年9月
1993年秋頃 山梨県の旧・上九一色村の教団施設にサリン工場建造開始(完成には至らず)
1994年6月 松本サリン事件
教団支部建設に反対運動が起こった長野県松本市の住宅街で、神経ガスのサリンを散布、住民8人が死亡
1995年2月 目黒公証役場事務長拉致事件
資産家の女性信者の居場所を聞き出すために、女性の兄を拉致、監禁。麻酔薬を大量投与して死亡させた
1995年3月 地下鉄サリン事件
教団への強制捜査が近づいていることを察知し、警視庁がある「霞ケ関駅」を通る地下鉄3路線、5本の電車内でサリン入りのポリ袋に穴を空けて散布。乗客と駅員13人が死亡、約6000人が重軽傷を負った
1995年3月 警視庁が教団を一斉捜索
1995年5月 松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚逮捕
1995年10月 東京地裁がオウム真理教に解散命令
2001年1月 アレフに改称
2004年2月 東京地裁で松本死刑囚に死刑判決、弁護側控訴
2006年3月 東京高裁、松本死刑囚の控訴棄却
2006年9月 最高裁、松本死刑囚の特別抗告棄却、死刑確定
2018年1月 オウム裁判が全て終結
2018年7月 松本死刑囚ら教団幹部13人に死刑執行
♣♦♣
松本死刑執行ら教団幹部を 13 人も死刑にする必要等ない。

全国の死刑場で 2日で全て死刑執行する異常 カルト秋谷創価マフィア日本本部の 番犬公明は政権与党であり 

オーム真理教幹部の口封じの 可能性が極めて高い。 

カルト創価日本本部大邪教の 関わり 関与の疑惑 ある 戦後史の大事件。

吉展ちゃん誘拐殺人事件 

豊田商事永田会長刺殺事件 永田会長の母親が創価学会会員で  被害額2000億円のうち1000億円は行方不明 

八葉物産詐欺事件 

八王子ナンペーストア殺人事件

世田谷一家4人殺害事件

またテレパシー人体実験、テクノロジー兵器開発実験を渋谷、新宿、難波等で不特定多数に実験疑惑事件がある。

Le président honoraire Ikeda a tenté d'assassiner Sarin pour la deuxième fois

Après le deuxième échec, Asahara a décidé de tuer même avec une grande quantité de sarin accompagné de gens ordinaires, a ordonné une production supplémentaire de sarin, a complété 30 kg de sarin, a modifié le masque à gaz et a changé la conception du pulvérisateur. (Type de brûleur à gaz → batterie type) a été réalisé [5], mais il a été annulé car il n'était pas à temps pour que le plan soit mis en œuvre en janvier 1994. Le sarin fabriqué à ce moment sera détourné vers l'affaire de l'attaque au sarin de l'avocat de Taro Takimoto et l'affaire du sarin de Matsumoto [10]. Parmi ceux-ci, l'attaque de Taro Takimoto contre Sarin a été menée en référence au fait que Sarin a envahi la voiture lors de la première attaque [11].

À l'été 1993, avant cet incident, l'anthrax a été pulvérisé sur l'établissement universitaire, mais cela a échoué. En décembre 1993, il a de nouveau tenté d'attaquer Shinanomachi, Tokyo avec un véhicule de pulvérisation de Clostridium botulinum , mais Kiyohide Hayakawa de l'unité d'exécution l'a annulé parce qu'il se méfiait de la sécurité. Peut-être parce qu'Asahara n'était pas satisfait de cela, Hayakawa a été retiré de la scène du terrorisme après cela (notez que les perroquets ont également échoué à cultiver Clostridium botulinum, donc même s'il avait été exécuté, cela aurait causé des dommages. Suspicieux) [18].

Kiyohide Hayakawa a également obtenu une vue en plan de l'installation Hachioji de la Soka Gakkai, mais selon elle, il y avait un endroit comme une chambre privée, et il y avait un bain public là-bas. Hayakawa a conseillé à Asahara de faire quelque chose comme ça, mais Asahara n'était pas intéressé.[19]

La théorie du complot de la Soka Gakkai est ce à quoi Aum est doué, et lorsque le cas d'arrestation et de détention du secrétaire général de la Soka Gakkai et l'attaque au sarin du métro ont été découverts, il a affirmé qu'il s'agissait d'un complot visant à écraser Aum par la Soka Gakkai [20].

Avant l'incident du sarin de Matsumoto, Taiseki-ji, le temple principal de Nichiren Shoshu, longtemps associé à la Soka Gakkai, était également un site candidat pour l'attaque au sarin [21].

En janvier 1995, il y avait un plan pour attaquer Ryuho Okawa, le président de Happy Science, avec VX.

♣ ♦ ♣ Fixez le matériel précédent. M. Ikeda

♦ L'ennemi est à l'intérieur ♦

Comme le disent les mots, Einosuke Akiya, président du siège de Soka Japon, et ci-dessous, le département exécutif du siège de Shinanomachi est M. Ikeda.

Betrayal a brillamment réussi à reprendre complètement la majeure partie de SGI en 2022

Le Dr Diazon de la faction Ikeda de Côte d'Ivoire en Afrique et 50 000 adeptes du courant dominant des GM augustistes se sont retirés du culte Harada Soka Gakkai.

De plus, les moines Miyagawa de Serbie et de Macédoine se sont partiellement retirés. Au Japon, l'autre côté est séparé en plusieurs. Secte Ikeda Moine Miyagawa Nigo Vice-président Kanahara Président Hayashi Secte Masaki, trio du club de jeunes Kawasaki Pacifiste Ikeda

L'idée de paix d'Ikeda est transmise à son successeur.

Cela fait 23 ans que l'attaque terroriste aveugle « Sarin Attack on the Subway » visait les transports en commun pendant les heures de trajet du matin. Dans une série d'incidents causés par le nouveau mouvement religieux Aum Shinrikyo, 190 personnes impliquées dans la secte ont été condamnées, dont le couloir de la mort des gourous, Tomitsuo Matsumoto, et 12 chefs de secte ont été confirmés. Sept personnes, dont le condamné à mort Matsumoto, ont été exécutées le 6 juillet 2018 et six personnes ont été exécutées le 26, marquant une étape importante dans l'affaire. Les mouvements autour d'Aum Shinrikyo sont résumés dans un tableau chronologique. La tentative d'assassinat de Sarin, président honoraire Ikeda, a eu lieu à deux reprises les 18 novembre et 18 décembre 1993.


カルト創価宗教は解体工事!

2022-06-10 18:42:05 | 日記
池田先生の「指導メモ」より
「信心に関する問題の場合には、第六天の魔王との戦いであり
どこまでも勝負である。戦い切らなければならない。

ただし、応用、立体作戦の場合には強い敵にあたることは愚かである。
賢明にいくべきだ。負けるに決まっている場合には

逃げたほうが利口なのである。そして『時』を待つべきである。

逃げ切って勝ったのは、徳川家康である。其れも勝つために
『時』をかせいだのである。
この兵法の理を知っていたからだと思う。

だからといって逃げてばかりいたのでは、ひきょうな人間になる場合がある。
戦っていい時と、戦いをさける時と、これをわきまえられる人は賢人だ。」

・・・・・・・・・・・

寸善尺魔の原理により、魔王の勢力は、仏軍の十倍である。
正面からぶつかれば、ほとんど勝ち目がないのが現実である。

この前提を知っている人を賢人という。その上で、御書に
「悪は多けれど一善にかつ事なし」(P1463)とあるように
不動の信念を持つことが大事になる。

力なき正義は、結果的に悪を助長させてしまう。だからこそ
正義であるならば、勝たなければならない。負け戦ならば撤退し

時を待ち、創ること。魔王との戦いは、生涯を賭けた大闘争となる。
一朝一夕の戦いではなく、短期決戦でもない。言うならば

仏法は永遠に魔王との戦いであるので、終わりはない。
魔王に打ち勝つ智慧と生命力を具えた人間が仏なのである。

魔王との戦いにおいて、時を創るとは、人材を育成することを要とする。
組織悪に染まらず、魔王を見破ることのできる人間を育てることである。

私も現在、4人の人材を手塩にかけて育てている。それも
10年、20年単位のビジョンでの育成である。それこそが

魔王を打ち破る根本となるからだ。どこまでいっても大事なのは人材である。

善き人材がいなくなった時、学会は滅びる。

時をただ待っていたのでは、魔王に勝てないどころか、卑怯者になる。
魔王のエネルギー源は、「何もしない善人」に他ならない。

何もしない善人は、組織悪に染まり、魔王に利用される。
54年も、何もしない善人の集まりだったから先生は

「情けなく、また、私はあきれ果てた」(桜の城より)と述懐された。

であるならば、個々においての魔王の戦いは、何もしない善人からの脱却が重要となる。

戦うのであれば、負けないための準備を整えること
準備が不足しているのであれば撤退し、出直すこと
そして、時を待つ必要があるならば、時を創ること

何もしないという選択肢は許されない。魔王の寝首をかくための切り札を

どれだけ用意できるか。それが、弟子の時代の広宣流布の戦い