磐船神社のお詣りを終え、星田妙見宮に向かいました。
こちらは姉が友達から、とても素晴らしいから是非お詣りするように言われたようです。
到着して鳥居をくぐると、天気が良かったからかキラキラ✨と空間が光ってみえ、こちらの神社好き💖と思いました。
入るとすぐ妙見信仰の伝来という看板が立っていました。
聖徳太子に縁があるのですね。
六甲比売神社にて買ってきたパンフレットに、渡来勢力が日本の政権に影響を及ぼし、日本の神々が別の祭神へとすり替えられ、元の姿をとどめることが困難とされたので、日本の神々を仏教的に守り、顕現化させる方法がとられたとありました。
そして、神仏習合を前提とした仏教を国教化して日本の神々を守っていこうとする流れは
聖徳太子→役行者→空海
へと繋がっていきました。
如意輪観音をはじめとする様々な観音は瀬織津姫様を象徴していると思われる。
その、神仏習合を進めていった本当の理由は、すでに改変されていた伊勢祭神、就中その存在が消されようとしていた瀬織津姫様を守るためであったと書かれていました。
七星如意輪観音曼荼羅とあります。
ここで空海と如意尼といわれた眞名井御前のお話を少しだけ。。。
淳和天皇の次妃である真名井御前は、25歳頃、摂津の甲山で修業を始め、空海から教えを賜ります。
その後、真名井御前は出家し、名を如意尼として神呪寺を建立しました。
空海は、その山の桜の木で如意尼(真名井御前)の生き姿をモデルに如意輪観音を彫りました。
如意尼は33歳で高野山に向いて如意輪観音の真言を唱えながら亡くなり、空海は、その次の日に61歳で亡くなりました。
空海は、真名井御前のことを深く愛されていたんだと思います。
神呪寺は今回は寄れなかったのですが、以前お詣りさせて頂きました。
こちらの看板に、各自の本命星、本辰星に礼拝くださいとあります。
こちらの鳥居をくぐり、階段を上がります。
妙見宮HPによれば
星田妙見宮は天之御中主大神を主祭神とし、高皇産霊大神・神皇産霊大神を祀っています。
御祭神は、江戸時代までは、仏教では北辰妙見大菩薩、陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神であるとされていたようです。
平安時代には「神禅寺」と称されており、河内長野の天野山金剛寺の古文書には「嘉承元年(1106)9月23日、星田神禅寺」と見える。
また『東和久田系図』延宝6年(1678)には、「采女迄三代妙見之別当ショクニシテ御供燈明捧ゲ御山守護到由候緒也」と記されており、応永9年(1402)生まれの和田出雲安直・将藍安道・采女安国の三代にわたり、別当職であった。天文4年(1535)神明帳には、小松大明神と記されている。
生駒山系に残る数少ない岩座信仰の霊場のひとつのようで、岩座が祀られていました。
古くから七夕祭祀が行われており、享和元年(1801)に刊行された『河内名所図絵』には「妙見祠 妙見山にあり。
神躰巨石三箇、鼎の如く岐ちて、丘の如し。前に石の鳥井、拝殿、玉垣、石段あり、土人、織女石とも呼ぶ。」とあるようにご神体である磐座は織女石(七夕の織姫を祀る石)とも呼ばれていた。
また、江戸時代初期、貝原益軒の紀行文『南遊紀行』にも「此谷のおくに、星の森有。星の社あり。其神は牽牛織女也。」とあるように七夕の神様としても知られていた。
そして、階段を登り切ったところから眺める景色が美しかったです。
そして、階段を登り切ったところから眺める景色が美しかったです。
頂上にてお祀りを終え、帰りの階段に脇道があったのでそちらに向かってみました。
青龍🐉様の祠です。
此方はお稲荷様。
さらに進むと龍王社がありました。
此方まで来ると人も少なくて、あまりに美しいから磐笛を吹いてみました❣️
此処から、隕石が落ちたといわれる七曜星降臨の地へ向かいました。
続く