元伊勢三社詣りを終えて帰り道に、鬼の像が建ってたので調べてみると、この辺に鬼の博物館があったりと、この地域は鬼と深いご縁がある地のようです。
出雲と丹波国はレイラインで繋がっていて、その道は鬼の道のようです。
その昔、鬼とされて、周囲を恐れさせたのは、時代の趨勢で悪に仕立て上げられた土着の住人だったのかもしれないと思うようになりました。
神道を守ろうとする物部氏や土着民を、鬼だと周囲に触れ恐れさせ悪にして、征服しようとする側が、鬼退治をするかの如く、我こそは正義であると物語をつくり洗脳したのかもしれません。
岡山の吉備津彦神社を調べていた時に、本当の御祭神は桃太郎の鬼退治前の鬼とされた土着民であるとたどり着いたことがあります。
高知なんかは、旧物部村があったり、物部川が流れていたり、神道を護ろうとする土着の縄文人が追われ辿り着いた土地かもしれません。
旧物部村では限られた神主が、いざなぎ流という神事を執り行っていたりと、調べると奥が深そうです。
ここから酒呑童子のお話。
越後国(現:新潟県)で百姓の子として生まれた酒呑童子は、胎内に16カ月おり、生まれながらに歯を生やし、邪法(じゃほう)を扱う悪魔とされます。
その後、諸国を遍歴。一条天皇の時代に、京では次々と女性や若者が神隠しに遭うようになります。人をさらっては喰らう暴れ鬼が大江山に棲んでいると言われ、鬼を退治するよう命じられたのが時の武将、源頼光(みなもとよりみつ:通称らいこう)。その鬼こそが、酒呑童子だったのです。
4人の強者を従えた源頼光と藤原保昌は鬼の棲み家・大江山へと向かいます。その途中で出会った神々から、鬼だけが酔うとされる毒酒をもらい、道に迷った山伏を装って、鬼に一夜の宿を頼みます。最初は警戒していた鬼も、宴席で酒を酌み交わすうちに酔っ払い、寝てしまいます。その隙を狙い、首を討ち、見事、鬼退治を果たします。
物語の中に「鬼に横道なきものを(鬼は騙すようなことはしない)」という酒呑童子の言葉がある。頼光らに騙されたことに気づき、斬り殺される前に叫んだ言葉だ。
正義は力により反転します。
強者が自らの正義をつくりあげるために、我こそ正義で悪を退治したと。
でも、一夜の宿を提供してくれ、酒までご馳走になりなりながら、騙し討ちをするなんて、その行為は善とはかけ離れているように感じます。
鬼に横道なきものを
つまり、鬼は騙すようなことはしないと叫びます。
寝込みを襲い首を切るなんて野蛮すぎて、何が悪なのかさえもわからないです。
酒呑童子も、やってきた事は悪かったかもしれないけど、退治した方もこれは中々のもんですね。。。
人とは全く違う怪物のように描かれている酒呑童子ですが、同じ人間ですよ。
今の世も色んな人が居ますから、同じ同じ。
自分達を正義にするため、敗者を悪にすることも、今と同じでよくある事です。
両者の間に立って、中立の立場から、どういう事??お互いやった事どう思うって??子供の喧嘩を仲裁する小学校の先生みたいになって話を聴いてみたいものです。
人の魂の奥にある光が、言葉に出せずとも、やってしまった事を悔やんで、それでも対外的に我の正義を守るために、相手を祟り神とか、荒ぶる神とかにして祀っているのかもしれません。
祟り神とか荒ぶる神とかそんなふうに神様を呼ぶなんて如何なものですか。。。
本当の意味で祟り神とかいないし。。。
真っ黒の中にも白一点はあるし、
真っ白の中にも黒一点はあるのが人間。
悪を外にみるのではなく、自らを省みる事が大切ですね。
我こそ正義は究極の我欲であり、その我欲こそ神の道から遠く離れているように感じます。
神は己の内におります。だからこそ、直霊により自らを省み、反省すべきは反省し、常に神を心に、神から離れないようにすることが大切かな。
和を以って尊しと為す。
勝ち負けの戦いではなく、両者の間に立って双方の話しを聴いて、お互いの認識のずれを共有し、互いを理解し言向け和する事ができたら、そこには平和しかないですね。
正義を振りかざすよりも、和して生きるのが幸せで楽しいですよね💖