七番札所光明寺の山門は竜宮門形式で、そちらを入ると前に水子地蔵が並んでいた。そこから左の石段を上がるとまた門があり上層は愛染堂として愛染明王が安置されていた。
愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、その身色は真紅でとても美しい。少し離れたところに不動明王の立像もあった。
明王様は憤怒のお顔をしている。嘘を並べたてたり、善良な人を騙したりする悪人が平然と生きている世の中。人は見てなくても神様は観ていて、必ずその人自身で帳尻が合うようになっている。
この世で得をしたと思っていても大間違い。明王様の前でどれだけ恥じて後悔してもやった罪は消えず、隠れたくても逃げもできない、そんな事だけはしないで生きていかなければと思う。
荒神経の経本を買って、この間、熊さんとはじめてお山の耳の神様のところで一緒に唱えさせていただいた。最後に、下手くそですみませんとちゃんと謝った。
荒神様は凄い。なんと眷属神が九億九萬八千五百七十二神いるという。荒神経を唱えてびっくり。神様が全部観ていて、天網恢々疎にして漏らさず、不敬悪事は九億九萬八千五百七十二神の眷属神が許さない。人間の眼に見えるものは実はちょっとで、眼に見えない世界にエネルギーが張り巡らされていると信じているから、やっぱり軽やかに美しく優しく生きていこうと思う。
御本尊 は阿弥陀如来坐像、脇侍は観音菩薩立像と勢至菩薩立像
本尊真言 おん あみりた ていぜい からうん
御詠歌 人間の八苦を早く離れなば 到らん方は九品十楽
寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地に逗留した際に阿弥陀如来を感得し、楠にその像を刻み本尊として祀ったとされる。
その際に、空海は人間の持つ八苦(生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)を離れ、極楽浄土に往生すると受けられる十の光明に輝く楽しみ(聖衆来迎楽、蓮華初会楽、身相神通楽、五妙境界楽、快楽無退楽、引接結縁楽、聖衆倶会楽、見仏聞法楽、随心供仏楽、増進仏道楽)が得られるようにと山号・寺号を「光明山十楽寺」とした。Wikipediaより
八苦を考えてみた。今の私にとって
生きることは楽しむこと
老いるのもまた経験値があがること、年齢とともに良い顔になっていければいいなと思う
病は辛いが自分と向き合う時間を持てる経験であり、病の人の心を知りうる経験でその時の心はピカピカで優しい
死はまだ死んでないからわからないけど魂は永遠でやっと神様の元に還ることができるかもしれない
愛別離苦は大切な人を失うと悲しくて寂しいだろうけど、これまたどうすることもできないから巡りてまた逢えると信じ神様にお任せ
怨憎会苦は自分が焼き尽くされそうで避けたいけど、そういう出会いもあるだろうから、とらわれすぎないで、そういう人とはなるべく距離を置くようにしていこうと思う
求不得苦はそういうことがあっても、何もかも永遠は無いから手放していこうと思う
五陰盛苦はあまりよくわからないけど、何事も執着しないことが大切
苦を苦としてではなく経験として捉え、避けられない苦からは何かを学び、それでも軽やかに生きていきたいなと思う。苦を経験した時の自分の行動や心の状態が神様試験なのかもしれない。
山さんが教えてくれた神様試験は、出来ないことはないけど、なかなかしんどいなぁと思う事で、それが来た時に自分がどうするかだという。それが神様試験だったりするという。
山さんが一番最初に一緒にお山に来てくれた事は、山さんの上級試験だったのかもしれない。私も手足になって頑張って試験パスしていきます!