一言主様は事代主様の別命ともいわれます。
以前姉も記事にしていました。
以下Wikipediaより。
一言主命は『古事記』(712年)の下つ巻に登場するのが初出である。
460年(雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。
雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。
少し後の720年に書かれた『日本書紀』では、雄略天皇が一事主神(一言主神)に出会う所までは同じだが、自ら「現人の神」だと名乗り、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっている。
時代が下がって797年に書かれた『続日本紀』の巻25では、高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。
これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている。(ただし、高鴨神は、現在高鴨神社に祀られている迦毛大御神こと味耜高彦根神であるとする説もある)
古事記が書かれたのは712年
日本書紀が書かれたのは720年。
それ以前の神代を含む聖徳太子と蘇我氏が編纂したと言われる史実の書かれた書物は、乙巳の変後(大化の改新)、つまり645年に蘇我氏が火を放ち焚書にしたとされています。
乙巳の変に出てくる蘇我馬子、蘇我入鹿って本当はどういう御方なのですか?
馬子というお名前も気になりますし、蘇我からスガからスサを想像します。
蘇我蝦夷の蝦夷って?後に東北に逃げられたのでしょうか?
乙巳の変とは本当はどういう事件だったのでしょう。強者は敗者を悪者にし何もかも正当化するので真実はわかりません。
その後書かれた古事記、日本書紀も何らかの書籍をベースに書かれたはずで、元になるものがあったはずです。
記紀が全てではないと改めて思います。
中立に返り真実を眺めたいと思うのです。
だからといって、どうすることもできませんし、それがどうしたではありますが。。
でも事実が捻じ曲げられ、消された方が後世に悪人のように記され続けているとしたら、それは何だか可哀想だと思うのです。
真実は違うと知ってくれる人が一人でも増えてくれたら、御霊が癒されるかななんて思ったりします。
もうとっくに神様になっていると思いますけどね。。。
時の思惑や権力により、人間の方が神様より上といった序列をつけ、神様の立ち位置までこんなに下げ、後世に伝えていくなんて酷すぎて驚きです。
高知県須崎市に海に面した鳴無神社があります。
鳴無神社の社伝によれば、葛城山に居た一言主命と雄略天皇との間に争いがあり、一言主命は船出して逃れた。雄略天皇4年の大晦日にこの地に流れ着き、神社を造営したのが始まりであるとされる。
高知県須崎市のこちらの海から高鴨神(一言主様)を祀る賀茂一族が、たどり着いたんですね🥲
敬うべきなのに、いつの間にか対等になって、時代を経て神様までも蔑むなんて酷い😭
土佐神社にお詣りした時、御祭神の味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ神)がわからなかったのですが、両親からみると事代主命ですね。

お父様が大国主、お母様がタギリヒメ命
ある時、ものすごく土佐神社に行かなきゃって思った理由がわかりました。
事代主様にご挨拶に行ってたのですね。
直感人間でいつも直感で動いてます。。。笑
賀茂氏は土佐に一部が流れつき、その賀茂氏が大切にお祀りになられて、恵比寿様は土佐国一宮土佐神社の御祭神になられていたのですね。。。
こうなったら土佐を楽しんでください🥹
釣り好きには、土佐国は最高です💖
鰹釣り楽しんでますか???🎣🐟🐡🐠
土佐神社にて、熊野大社と鳥居の感じ、雰囲気が似ていると思ったのも何だかルーツを紐解くと納得しました。。。
続きます。。