熊本城での西南戦争の経緯
当時は段山(だにやま)という小高い独立した丘陵がありましたが昭和に削られてしまい平地になり地名のみが残りました。
藤崎台のクスノキ
鹿児島を出発した薩軍は鎮台が置かれている熊本城に向いました。
籠城戦が決定した熊本鎮台に対して薩軍は熊本城を包囲しての攻城戦が行われています。
正面軍は桐野利秋率いる薩軍4番大隊、池上四郎率いる薩軍5番大隊。
背面軍は篠原国幹率いる薩軍1番大隊、村田新八率いる薩軍2番大隊、別府晋介率いる薩軍6、7番連合大隊。
明治10年2月22日に攻撃が開始されます。
鎮台側は事前に薩軍の隠れる場所をなくすために熊本市街を焼き払い、熊本城内に砲台を築き応戦します。(熊本城天守もこの時焼失)
熊本城攻防戦は激しい戦闘が繰り広げられましたが加藤清正が築城した堅城。
熊本城は落ちません。
薩軍は熊本城を包囲しながらも博多より南下する官軍を迎え撃つため田原、山鹿方面へ兵を派遣します。
3月末に薩軍は熊本城を包囲する兵が少なくなり水攻めを行いますが、熊本鎮台側もこの水攻めで守備範囲が狭まり残存兵力でも持ちこたえる事ができました。
熊本城攻防戦54日にして衝背軍が入城し、薩軍は木山に撤退することで熊本城は開城しまた。
焼失する前の熊本城天守
古写真と同じ場所からの撮影です。
熊本城と京町台地の間にある空堀
薩軍5番大隊と熊本隊が攻めていた場所です。
大規模な空堀ですね。
薩軍4番大隊が攻めていた下馬橋
当時と今の写真です。
現在は隣りに行幸橋が架けられて下馬橋はありません。
熊本城東側の千葉城からの写真
今はビルで立田山は見えませんね。
西南戦争当時の熊本城石垣と宇土櫓
現在は見えませんが木の奥に宇土櫓があります。
法華坂の写真
古城の写真
古城は熊本城の前身だった隈本城でした。
薩軍6、7番連合大隊が攻めています。
当時は水堀がありましたが今は埋められ公園になり、市民が集う場所になってます。
藤崎台の写真
藤崎台は熊本城三の丸に位置し、ここでも激しい戦闘がありました。
当時は段山(だにやま)という小高い独立した丘陵がありましたが昭和に削られてしまい平地になり地名のみが残りました。
下の古写真には段山の丘陵が残っています。
特に段山では激戦が繰り広げられています。
(段山の戦いは次のブログで詳しく説明します)
藤崎台のクスノキ
藤崎台には藤崎八幡宮がありました。
しかし、西南戦争で焼失してしまい現在の場所に移転しています。
今は藤崎台球場になっています。
藤崎八幡宮にあったクスノキで西南戦争当時から残っています。
新町からの藤崎台
西南戦争の史跡
西南の役回顧の碑
この辺りが当時激戦の地であったと碑文に書かれています。
西南戦争120年を記念して建てられました。
西南戦争籠城将校家族避難跡
鎮台兵の妻子達が弾丸の飛来を避けるため空堀に天幕を張って避難していました。
しかし…
これだけの激戦だったのに石垣には弾痕がありませんね…
鹿児島の鶴丸城、私学校跡には弾痕が沢山あります。
不思議ですね。