山鹿に本営を置いた薩軍桐野利秋率いる第4番大隊と熊本協同隊、延岡隊は南下する政府軍と山鹿口で戦闘に入ります。
山鹿口での戦闘は明治10年2月26日の第1次から3月21日の第5次まで続き戦死者は政府軍411名、薩軍108名と壮絶なものでした。
山鹿口での戦闘地
平川惟一戦死の地
熊本協同隊の平川惟一は肥後細川家家臣平川文助の子。
協同隊での選挙で隊長に決定されています。
3月3日に車坂の戦いで流弾に当たり戦死しました。
車坂の戦い跡
飫肥隊奮戦の地
飫肥隊は南下する政府軍小倉14連隊を攻略すべく2月26日から3月21日の間この地を死守しました。
特に3月12日、15日は激戦だったようです。
ここは墓地なのですが明治10年以前の墓石の殆どが銃砲弾で欠けています。
山鹿博物館
ここには西南の役戦没者慰霊碑と弾痕の碑があります。
ガラス張りの碑は初めて見ました。