西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊵ 植木町・田原坂

2023-04-24 19:09:00 | 熊本県西南戦争史跡
西南戦争での最大の激戦地

なぜ田原坂なのか?

その答えは当時の道にあります。

官軍が南関から熊本城へ向かうには豊前街道、
三池往還、吉次往還がありました。

(西南戦争のリアル 田原坂より)


大砲を運べるのは三池往還の田原坂しかなかったと言われていますが、田原坂の道幅約4mに対し豊前街道は参勤交代に使用された街道で広い所で約8mありました。

しかし、豊前街道は南関から山鹿まで川を5つ、坂を19ヶ所、山鹿から植木までは川2つ、坂5ヶ所と非常に難所が多かったようです。

吉次往還に関しては道幅が狭いうえに吉次峠の難所があり、最短で熊本城を目指すなら比較的難所が少ない三池往還を通るしかなかったのです。

三池往還にある田原坂は加藤清正が熊本城北側からの敵を防ぐために作られた場所で全長約1.2km、高低差約80mで緩やかな坂にいくつものカーブで先が見えない道でした。



それに両壁が高い堀抜きの道で当時は滑りやすい赤土だったようです。

田原坂を進む敵に対し両壁は樹木が茂り伏兵を置くことができ、高所から攻撃ができます。







この攻めるは難しく、守るは易い田原坂を薩軍は防衛地としました。

薩軍は50歩ごとに土塁を築き、横穴を掘って退避壕として官軍を迎え撃ちます。

(西南戦争のリアル 田原坂より)


(田原坂古写真)








官軍は高瀬の戦い後、本軍と支軍で三池往還と吉次往還の2道併進作戦を決行します。

しかし、両方を一度に抜くのは困難で山鹿口も同様であることが明らかになりました。

そこで三池往還の田原坂に兵を集中することにします。

そうした事から田原坂が最大の激戦地となりました。

(西南戦争のリアル 田原坂より)


官軍は田原坂に最大約8万名を動員。

死傷者約3000名、戦死者約1700名。

その数は官軍全戦死者の25%にもなります。

先鋒の第一、ニ旅団のほか三浦梧楼少将の第三旅団、大山巌少将の別働第一旅団、陸軍士官学校生徒までも投入され兵員は複雑に入り交じっていました。

薩軍兵力は記録不詳で配置換えもあり不明ですが数千人規模と考えられます。





田原坂では官軍が新鋭のスナイドル銃で薩軍は旧式のエンフィールド銃だったのが薩軍敗退の原因と言われていますが、調査の結果薩軍もほとんどがスナイドル銃だったことがわかっています。





しかし、両軍の物量の差は明らかで官軍10発に対し薩軍は1発と銃弾を節約し、必要に応じて猛射ししました。

(有名なかちあい弾は造作です・西南戦争のリアル 田原坂より)


官軍の消費弾数は田原坂の戦い17日間で548万発、1日平均32万発を使用しています。

(激しい銃撃戦で樹木が切断された田原坂)


薩軍と官軍との距離が20mほどの接近した時もあり、その距離で激しい銃撃戦や白兵戦を繰り広げ辺りには数多くの戦死者の遺体や負傷者が溢れている状況だったようです。

薩軍は官軍の猛射の中、側面などから突っ込み白兵戦を行いました。

これに対抗した官軍は銃に着剣しましたが、剣には刃がついてなかったので薩軍は左手で銃剣を掴み右手で片手なぐりに斬っていきます。

その後、銃剣を研いで刃をつけましたが平民からなる官軍と士族の薩軍では効果は低かったようです。

官軍は白兵攻撃に対抗すべく剣術に長けた警視隊101名からなる部隊、警視抜刀隊を投入します。

警視抜刀隊の功績により官軍には薩軍に対抗する手段が見えてきたようです。

警視抜刀隊はよく戊辰戦争での旧幕府士族からなると言われています。

しかし、一部に旧幕府士族がいましたがほとんどが鹿児島の郷士階級出身者です。

明治10年3月4日から激しい戦闘を繰り広げられた田原坂ですが3月20日ついに陥落しました。

官軍は20日の早朝、二俣・横平山から放たれた砲撃を合図に田原坂本道及び側面から一斉に攻撃を開始します。

田原坂本道では薩軍の抵抗が激しく一進一退の攻防が繰り広げられました。

側面から本多中尉率いる1隊が柿木台場を襲撃。

柿木台場を守っていたのは16日から戦闘に参加したばかりの高鍋隊でした。

まだ戦闘に慣れていなかった高鍋隊は虚をつかれ潰退してしまい柿木台場は官軍に占拠されます。

田原坂本道で戦っている薩軍は後方にある柿木台場からの挟み撃ちになる形になってしまい田原坂を捨て木留まで退却するしかなくなりました。

これで両軍多くの死傷者を出した17日間にもおよぶ田原坂の戦いは終わる事になります。

今回使用した写真の【西南戦争のリアル 田原坂】は田原坂での戦闘状況や発掘調査など詳細に載っています。
おすすめの1冊です。


田原坂







ニの坂には官軍の陣地が構築されていました。

陣地からは発掘調査で多くの薬莢が出てきているようです。




ニの坂の官軍を迎え撃つ薩軍は三の坂に陣地を築きました。

ここからも多くの薬莢が出ています。




当時の田原坂古写真






豊岡眼鏡橋

官軍はこの橋から田原坂一の坂を目指して進みます。



豊岡眼鏡橋から望む田原坂







田原坂攻撃官軍第一線の碑







西南之役戦没者慰霊碑









谷村計介の碑

谷村計介は熊本城内から官軍本隊へ状況報告の密使として百姓姿に変装し熊本城から脱出しました。

本妙寺裏を抜けて進む途中薩軍に捕縛されたのですが脱走、その後またもや吉次峠で熊本隊に捕縛されたのですが2度目の脱走、ようやく第1旅団本部に辿り着きます。

官軍の野津鎮雄少将に熊本城内の状況を報告したのですが2日後の3月4日田原坂にて戦死してしまいました。











【田原坂公園内の史跡】

田原坂公園







弾痕の家(復元)




田原坂公園から見た三の坂




西南役戦没者慰霊の塔

塔の後ろには田原坂で戦死した方々の名前が刻まれています。






崇烈碑

田原坂公園内にある政府公的に建立された碑






美少年の像

若くして田原坂に散っていった薩軍少年兵の像

モデルは薩将・村田新ハの息子・村田岩熊と云われています。




薩摩塚









田原熊野神社

ここでは神社の参道を挟んで両軍が銃撃戦をしています。

発掘された薬莢からお互いの距離は約60mほどしかなく、樹木なども弾除けにしていました。

参道の石塔などには今も弾痕が残っています。















田原の五輪塔

この五輪塔にも西南戦争時の弾痕があります。











七本官軍墓地

この墓地には田原坂の戦いの後、植木や吉次、木留、辺田野などの戦闘で戦死した各鎮台兵や近衛兵300余名が埋葬されました。

墓石は後年作り変えられ旧墓石は墓地の周りを囲むフェンスとして利用されています。

















七本柿木台場薩軍墓地

田原坂陥落の原因となった柿木台場があった場所です。

木留や七本付近で戦死した薩軍、熊本隊の兵士311名が台場跡に埋葬されました。

地域的にみて官軍が田原坂攻略後、木留の薩軍本営まで押し迫った時期の戦死者のようです。

近くの官軍墓地と比べると同じ墓地でも違いますね。








熊本隊士の墓


奮闘した熊本隊を称えて建立されました


柿木台場の古写真


堡塁から柿木台場を望む






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西南戦争のリアル 田原坂
























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊴ 熊本市植木町木留・萩迫

2023-04-10 16:41:00 | 熊本県西南戦争史跡
南関より官軍の第一・ニ旅団が南下してくるのを阻止するため薩軍は熊本から兵を分けて北上します。

北上するにあたり木留に本営を置き、薩軍一番大隊長・篠原国幹、ニ番大隊長・村田新八、六・七番連合大隊長・別府晋介が入り高瀬の戦い・木葉の戦い・吉次峠の戦い・田原坂の戦いと向かっていきました。

木留での本格的な戦闘は田原坂陥落後の明治10年3月24日から4月15日までになります。


【木留・荻迫での戦闘状況】

3月23日

七本の官軍が進軍を開始。

滴水から荻迫、木留、半高山を攻撃しますが薩軍の抵抗が激しくこの日は全軍後退します。



3月24日

官軍は再び木留に進撃して一時的に木留を制圧しますが薩軍の逆襲にあい保持できませんでした。

26日から木留方面に攻撃を集中します。



4月1日

官軍は木留を突破すべく半高山、吉次峠、三ノ岳方面へ総攻撃を仕掛けます。

半高山攻撃部隊は三方向から一斉に半高山を急襲して制圧しました。

半高山の官軍はその勢いのまま木留に進軍して木留を占領しました。

薩軍は本営を立福寺に移し、熊本隊は東門寺に移しています。



4月6日

午前4時半頃、官軍は密かに荻迫の薩軍陣地へ忍び寄り強襲します。

不意を突かれた薩軍は取り乱してしまい第一陣を突破されてしまいました。

勢いに乗じて第二陣へと迫りましたが薩軍の逆襲にあい元の守線に後退します。



4月8日

午前4時半頃、官軍は再び進軍を開始します。

前衛と左翼隊は滴水から荻迫の薩軍陣地へ向かい、右翼隊は木留から辺田野の薩軍陣地に向かい攻撃しますが、防備を固めた薩軍は応戦して一歩も退かなかったため戦局は膠着しました。



4月9日

官軍は本営を七本から滴水に移します。

乃木少佐率いる2個中隊が辺田野の薩軍陣地を攻撃しますが、薩軍の反撃激しく乃木少佐は負傷して後退しました。

4月12日

薩軍が滴水の官軍本営を攻撃しますが官軍はこれを撃退します。

4月15日

前日に官軍の衝背軍が熊本城に入城したため薩軍は熊本城の攻囲を解きます。

この知らせを受けて薩軍はこの地から退却しました。



田原坂陥落後の両隊の動き

桐野利秋の四番大隊は隈府(菊池市)へ後退し、隈府・植木・萩迫・木留・吉次峠・三の嶽を結ぶ防衛線を構築します。

官軍はこの防衛線を破るため各方面へ向けて進発しました。

木留・萩迫には第一・ニ旅団、第十四連隊、警視隊が歩兵6~9個中隊を1隊として左翼、右翼、中央本隊、後援隊に分け、砲隊の援護を受け進みます。

薩軍は防衛線を死守するため堡塁や胸壁、台場を築き応戦し、お互い堡塁の奪い合いを行う激しい戦闘がありました。

(古写真に残る植木の堡塁)









ときにはお互いの距離が34間(約61m)ほどで戦闘をしています。

しかし、官軍の圧倒的な兵士数と軍備により薩軍は4月15日に木留より退却します。

木留には薩軍本営、薩軍病院、熊本隊本営が設置されました。





薩軍本営跡

薩軍二番大隊の隊長・村田新ハは木葉、田原坂、吉次峠での戦いをここで指示しています。







薩軍病院跡





熊本隊本営跡

佐々友房の戦袍日記には2月27日に池辺大隊長は負傷のため熊本の二本木にある薩軍病院へ向い、花岡山南麓の石川清彦宅に本営を置き、木留には出張本営を置いたとあります。


熊本隊の出張本営があった木留辺りの古写真









萩迫柿木台場跡・薩軍戦没者の墓・薩軍美少年の墓

柿木台場には西南戦争時、高城(たき)七之丞率いる薩軍三番大隊三番中隊が配置されていました。

今は台場の面影はありませんが柿木台場の根元に薩軍の墓が建立されています。





地元の方によりとても綺麗に管理されていました。














萩迫神社

西南戦争の弾痕が残る神社です。











辺田野熊座神社

4月上旬の激戦で乃木少佐以下9名がこの神社境内で負傷しました。

後年、大将になった乃木希典がこの時の事を詠んだ詩碑があります。











山縣有朋歌碑

激戦地だった吉次峠に至る途中にあります。

昭和17年に有志により建立されたとのことです。

場所がわかりにくいのですが観光農園吉次園の農園側に写真にある入口があります。















河原立薩軍墓地

菱形小学校裏の高台にあります。

この周辺で戦死した薩軍19名が埋葬されています。

鹿児島の西太良(伊佐市大口)出身の永峯八郎兵衛(21歳没)以外は名前が不明ってことです。





























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊳ 熊本市植木町市街地

2023-04-01 12:59:00 | 熊本県西南戦争史跡
植木町市街地における西南戦争

明治10年1月28日 山縣有朋は熊本鎮台司令長官・谷干城に警戒命令を発しました。
(1月29日に私学校党が鹿児島の草牟田陸軍火薬庫を襲撃しましたが、その前日には警戒命令を発しっている事に違和感があります。)

2月17日 谷干城は熊本鎮台小倉分営に駐屯中の歩兵第十四連隊長・乃木希典少佐へ熊本に進発するよう命じます。

2月18日 非常警備の命で久留米に出動していた第十四連隊第一大隊左半大隊は久留米を出発して熊本に向い、19日に熊本城に入りました。

2月18日~20日 第十四連隊のその他の隊は随時小倉を出発します。

乃木少佐は第三大隊と共に18日に出発し、22日午前中には高瀬(玉名市)に到着。

22日は薩軍の熊本城攻撃が開始されており、煙が高く立ち上がっているのを見て午後に植木へ向けて進発、熊本城を目指します。

官軍の南下を悟った薩軍は村田三介率いる五番大隊ニ番小隊約300名を北上させ、植木町向坂の崖上に布陣し、官軍を待ち受けていました。

乃木少佐はこの事を木葉(玉東町)で知ります。

22日午後7:00頃薩軍が喚声を上げて官軍に迫りました。

官軍は銃射でこれを退け、薩軍が後退したところを追撃します。

戦闘当初は官軍が優勢に事を運びましたが、午後9:00頃に伊東直二率いる薩軍四番大隊九番小隊が来援、官軍の第一線に突撃しました。

官軍は全線にわたり苦戦に陥ります。

乃木少佐は町外れの千本桜まで隊を後退、殿軍を命じられていた旗手・河原林少尉は隊に戻らず戦死。

連隊旗を薩軍に奪われる大失態を犯します。






官薩両軍緒戦之地

植木天満宮は戦端の火蓋が開かれた場所です。



向坂(豊前街道)









河原林少尉戦死の地

河原林少尉はここで薩軍伊東隊の岩切正九郎に斬られ連隊旗を奪われました。









薩軍弾薬庫跡

この場所には西寺という寺があり、薩軍の弾薬庫でした。

田原坂での敗退で薩軍は植木に退却。

それを追う官軍と激しい戦闘が繰り広げられています。

そんな状況のなか、突然大音響をたてて火薬庫が爆発、西寺を吹き飛ばしました。

大爆発の理由は今も不明です。

現在は区画整理もされて住宅街になっており、案内板など何もありません。







植木学校跡

熊本民権党の宮崎八郎等が設立しました。

植木学校は鹿児島の私学校と気脈を通じ、戦闘訓練など行ったことから熊本県の補助金を打ち切られ半年で閉校してしまいました。

その後、薩軍が決起すると熊本民権党は熊本協同隊を結成して薩軍と共に行動します。









仁連塔神社

この神社には西南戦争の弾痕が残っています。















千本桜・乃木大将記念碑

緒戦で薩軍の攻撃により乃木少佐(のちに大将)が隊を後退させた場所です。











明徳官軍墓地(向坂官軍墓地)











寄鶴官軍墓地

この官軍墓地は軍夫のみ30名が埋葬されている珍しい墓地です。