西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 史跡巡りのお知らせ①

2024-07-25 16:45:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西南戦争最後の決戦地【延岡市の和田越】

この地には数多くの遺構が現在も当時の姿で残っています。

他県では見ることができない貴重な遺構が身近にあります。
(他にこれだけの規模の遺構があるのは個人では行くことが難しい山岳地帯のみです)

『和田越決戦を語り継ぐ会』が恒例行事の環境整備保全と遺構巡りを開催します。

どちらも参加者募集していますので興味がある方は参加して下さいね。


延岡市和田越古戦場のシダ刈り&遺構巡り

(お知らせ)

 

「西南戦争 和田越決戦を語り継ぐ会」では、8月15日の和田越決戦の前後に古戦場のシダ刈と遺構巡りを行っています。参加されませんか

 

         《シダ刈り

例年、有志や学生の協力にて和田越決戦之地整備・保全を行ってます。

今回ボランティアで参加する延岡看護専門学校の生徒は白衣を脱いで作業服に身を包み、先人達が築いた近代日本の遺産を整備して保全活動を行います。

10月には宮崎県産業開発青年隊野外実習とボランティアによる作業も予定されています。

この活動が貴重な遺産を後世に語り継いでいきます。


  日:8月04午前中(日)

     当日雨天の場合は11日(日)  

     集合時間:8:30

集合場所:東海幼稚園 

     サンサンおひさまランド駐車場

     (稲葉崎町6丁目、長尾山一本松山麓

      域農道沿い、可愛岳トンネル南口か

      ら西へ300m

 

         《史跡巡り

日本の転換期を迎えた明治時代。

時代のうねりと幾多の政策において大きな歪みを生み出しました。

その歪みが国内最後の内戦西南戦争」と云う形で爆発します。

ここ延岡は西南戦争最後の決戦地でもあり、西郷隆盛が初めて陣頭指揮をした場所です。

和田越決戦之地には多くの遺構が残っています。宮崎県内にとどまらず、西南戦争関連遺跡全体の中で、戦跡の規模や遺構の種類・残りの良さは屈指の場所であると評価されています。

サムライ達が築いた塹壕・砲台・堀切・竪堀・切岸などを、実際に自分の目で見て、体で体感して下さい。

明治から令和に紡がれてきた先人達の鼓動や息吹が感じられます。

自分も参加しようと思われる方は、歓迎いたします。シダ刈り・遺構巡り実際に目で見られ・作業されて、体感してください。150年前の戦いの模様が浮かんでくるようです

 

  日:8月18日(日)

     小雨延期の場合は25

所要時間:9時集合、14時解散

集合場所:東海幼稚園 

     サンサンおひさまランド駐車場

 (稲葉崎町6丁目、長尾山一本松山

  の広域農道沿い、可愛岳トンネル

  南口から西へ300m)        ス:小梓峠~長尾山一本松 

     片道1.3㎞×往復=約3.0


  品:昼食・ドリンク・虫除けスプレー

健康状態:健康に問題が無く、往復約3.0

     を完歩できる体力に自信のある方

  費:無料

参加申込:不要、当日集合場所にお越しくだ

     さい。

問合電話:語り継ぐ会会長・牧野の携帯電話 (☎080-1750-5139

 



和田越決戦之地案内

薩摩猫之介の散歩 番外編③

2024-07-15 16:17:34 | 宮崎県西南戦争史跡
明治10年8月17日午後10時

官軍に重囲された薩軍は可愛岳突囲を決行します。

薩軍前軍経路探索で書いてあるのですが可愛岳突囲での前軍指揮者の名前が2通りある事に疑問を持っていました。

鹿児島県史料の薩軍兵士上申書と資料を全て読み、多くの書籍を見る事で自分なりに解決できたと思いここに書くことにします。

史跡の情報ではないので関心のない方はスルーして下さい。


疑問1

2通りある突囲の前軍指揮者

①相良長良・貴島清・松岡岩次郎

②辺見十郎太・河野主一郎

疑問2

薩軍の戦闘した場所と時間


この2つの疑問を解明すれば前軍の行動がわかってきます。

相良長良の上申書





丁丑ノ夢





松岡岩次郎の上申書



河野主一郎の上申書







前軍指揮者に選ばれた松岡岩次郎の上申書には詳細は書かれていません。

相良長良の上申書に付け加えているのが丁丑ノ夢ですね。

河野主一郎の上申書にも相良長良等が指揮者とあるので相良・貴島・松岡が前軍指揮者で間違いないでしょう。

丁丑ノ夢で前軍に池上四郎が曽木から高鍋に向かうよう西郷隆盛の命を伝えたとありますがそれも事実でしょう。

大磯考平太の上申書



和泉祐太郎の上申書



丁丑弾雨日記(河東祐五郎手記)



この上申書や日記で延岡方面から祝子川に転進した事がわかります。

可愛岳の百間ダキ下を潜行する前軍ですが中ノ越に迫る頃、桐野利秋・辺見十郎太が駆けつけて『敵の篝火が多い。暫くここに兵を止めて全軍が来るのを待ち、一気に敵塁を衝こう』と言いますが、相良と貴島は『先鋒の任を受けたからには一歩も止まれない。進んで死あるのみ』と拒みました。

本営付の池上・桐野・辺見が前軍に駆けつけるのはおかしいと言われる方もいますがこの時は既に軍は解散しており、司令や隊長などなかったと思われます。

池上は西郷のそばにいたので伝令になり、桐野・辺見は中隊の指揮者として行動の決定権があるので駆けつけたのでしょう。

主要な人物が西郷のそばを離れる訳がないと思う方もいるでしょうが可愛岳突囲での文献で全く名前が出てこない人物がいました。

村田新ハ・別府晋介の2人が西郷から離れなかったと思われます。

そう考えると辻褄が合うんですよね。

薩軍が見た多くの篝火は第ニ旅団本隊の6中隊でしょう。
(6中隊の兵数なら篝火がすごかったと思われます)

第ニ旅団本隊の経路



第ニ旅団本隊は中ノ越辺りから森木ノ坂を下り俵野へ向かっています。

桐野・辺見の言葉を拒んだ前軍は篝火を避け暗闇の方(長尾山からの尾根)に進路を変えます。

【官軍は哨兵が足りず中ノ越~長尾山近くまで空白地帯でした】

しばらく進むと官軍に隊列を断たれました。

薩軍の隊列を断ったのが第ニ旅団本隊です。



上記の地図で両軍が交わっているのがわかります。

6中隊が隊の間を進軍するので薩軍はしばらく動くことができなかったでしょう。

この時前軍が前後に分かれたと思われます。

前軍の後ろ側にいた河野主一郎は中軍に戻って西郷に官軍を奇襲する提案をしました。

西郷はその提案を許可したので河野と辺見が中ノ越から六首山の少ない第ニ旅団哨兵に午前4時半頃、英式喇叭と1発の銃声を合図に抜刀して斬り込みます。

いきなり薩軍が斬り込んできたので第ニ旅団哨兵は狼狽して六首山後方西側の小畑山へ後退しました。

六首山での戦闘を知った小畑山麓の官軍は桑平や浜砂から援隊を送りますがどちらも急斜面な山道なので一度に援隊が着かず、薩軍が押しては官軍が押し返すという状況を3度ほど繰り返します。



徐々に官軍の援隊が増えてくると薩軍は六首山から小畑山を抜け浜砂まで進むことを諦めて六首谷から浜砂に迂回して進みました。

午前8時頃浜砂で戦闘があり、薩軍は浜砂の食料課から食料を奪って祝子川の上流1kmほどの宮ヶ谷から再び山へ入ります。
(浜砂集落には祝子川が流れているのでその方面を目指しでいたのでしょう)



薩軍本隊は可愛岳山頂西側に登り山頂から北にある第一・二旅団牙営地に午前6時頃攻撃します。

六首山での戦闘を薩軍数人が仕掛けた小競り合いと牙営地で楽観視していた2人の旅団長野津少将・三好少将や第一・ニ旅団哨兵は薩軍の奇襲に驚き野津少将と三好少将は取るものも取らず逃げ、哨兵は戦闘で倒れ薩軍本隊は牙営・砲廠部を襲い、銃・弾薬・食料を奪って北西尾根に進みました。



第ニ旅団本隊に分断された相良率いる前軍数十人は長尾山尾根を進み空が明るくなった頃官軍に見つかり塹壕から銃撃を受けます。

相良達は銃撃の激しさで急斜面を下りて身を隠したようです。

この場所が1番不明でしたが【西南戦争之記録第四号】の中で著者・高橋信武氏『和田越の戦闘から可愛岳の戦闘までの経緯』に答えがありました。

相良に銃撃した官軍の塹壕がわかったのです。



この塹壕を空中写真で合わせると



更に3Dにすると



官軍の空白地帯を進んだ相良達が向かった場所でした。

相良達が戦闘した場所を六首山とか中ノ越と言われる方もいますが六首山での戦闘は午前4時半頃、相良達の戦闘は空が明るくなってからなので時間が合いません。

それに相良達は官軍に見つかり銃撃を受けているのに対し、六首山では薩軍が官軍に奇襲していますから戦闘状況も異なります。

仮に相良達が六首山周辺で戦闘したとすれば相良達との戦闘後に辺見と河野が再び斬り込みます。

その状況で官軍哨兵が2度目の攻撃に狼狽するとは考えられませんし、空の明るさも辻褄が合いません。

先に辺見・河野が六首山で戦闘をしたのなら相良達は空が明るくなるまでの約30分ほど何処で何をしてたのでしょう。

それに六首山では戦闘が既に始まっています。

あと薩軍の隊列を断った官軍は何処を進軍してたのでしょうか。

この事が常に疑問でしたが今回の解明で全て辻褄が合う結果になりました。



相良達と戦闘したのは第ニ旅団哨兵の右翼隊でしょう。

弾薬が少なくなった第ニ旅団哨兵右翼隊が第ニ旅団本隊に借りた事も説明がつきます。

既に六首山で戦闘が始まったことで山を下りていた第ニ旅団本隊の1中隊が引き返しましたが森木ノ坂下で上から銃撃する薩軍に足止めされていました。

長尾山尾根沿いを第ニ旅団哨兵が駆けつければ弾薬を借りることができます。



相良達は銃弾が降る状況で急斜面を中々這い上がることができず、夜を待って斜面を登り再び官軍に攻撃したのは19日でした。

攻撃を受けた官軍は第三旅団からの援隊2中隊で相良は傷を負って谷に墜落、川久保十次は戦死します。

相良達前軍は18日には壊滅しており、辺見・河野達が本隊とは別行動を取って前軍として動いたことが前軍指揮者が2通り書かれている結果になったという事です。

これで可愛岳突囲での疑問の全てが判明しました。

参考文献
鹿児島県史料西南戦争1巻~4巻
薩南血涙史
征西戦記稿
西南戦争之記録第4号
西南記伝



















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡63 宮崎県五ヶ瀬町・高千穂町

2024-07-06 18:06:00 | 宮崎県西南戦争史跡
宮崎県の高千穂町は三田井と呼ばれる場所でした。

三田井は馬見原(山都町)、竹田(大分)、延岡に通ずる要衝の地で薩軍はここを守備します。

総司令・池上四郎(5月4日三田井着その後延岡へ向かう)
指揮長・高城七之丞

三田井方面の薩軍
奇兵十六番中隊(隊長・小濱氏興)
正義五番中隊 (隊長・久永喜兵衛)
正義六番中隊 (隊長・肥後壮之助)
正義七番中隊 (隊長・橋本諒助)
中津隊    (隊長・増田宋太郎)
延岡隊    (隊長・大島景保)

馬見原の官軍
第三旅団(5月4日まで)
熊本鎮台(5月4日から5月16日まで)
第一旅団(5月16日から)

熊本、宮崎の県境にある鏡山に多くの塁を構築して三田井方面からの薩軍の攻撃に備えました。


明治10年5月10日

薩軍の先鋒・中津隊は江代から椎葉を抜け三ヶ所村(五ヶ瀬町)に入ります。

巡査風の人影が馬見原へ走って行ったのを見て中津隊は馬見原口に塁を構築し、擬兵を張ってここを守り中津隊本隊は三田井に入りました。

後続の隊も三ヶ所村から三田井に入り、奇兵十六番中隊は三ヶ所村の男山から広木野に兵を配置します。



『男山と男坂の場所がわかりませんでしたが五ヶ瀬町JA広報かるめごの中で室野から廻淵の経路が載っており、これによって男山と男坂の場所が判明。室野~男山越(金毘羅さん)~男坂~三ヶ所川沿い~貫原~戸の口~廻淵。征西戦記稿にも赤谷男山とあります。』



5月13日

薩軍兵力が少ないため三田井の守備は不利と判断して馬見原に向けて進軍すると各隊長の決議により決まりました。

6中隊を3に分けて薩軍は夜に鏡山に向けて進軍します。

隊の振り分けですが書籍により違いがありますので記載します。(実際の振り分けがわかりません)

【薩軍血涙史】
正義六番中隊 (笠部越)
中津隊    (岩神支道)
正義五番中隊 (鏡山)
正義七番中隊 (同上) 
奇兵十六番中隊(同上)
延岡隊    (同上)

【西南戦争延岡隊戦記】
奇兵十六番中隊(広木野から境松・岩神)
中津隊    (同上)
正義五番中隊 (中央から鏡山)
正義六番中隊 (ウツホギ越から鏡山)
延岡隊    (同上)

【西南役中津隊先陣ほぎ奮戦史】
奇兵十六番中隊(本道より境松)
正義七番中隊 (同上)
中津隊    (同上)
正義六番中隊 (鏡山)
小倉清左衛門 (同上)
延岡隊    (兼ヶ瀬から笠部峠から鞍岡)

隊の詳細はわかりませんが三方向から鏡山を攻撃したようですね。



5月14日午前6時から鏡山で激しい戦闘が繰り広げられます。

主な戦闘は鏡山中央と本道側のようでした。

左翼の笠部峠の部隊は鏡山よりも笠部集落や鞍岡(揚集落)での戦闘だったようです。

鏡山の熊本鎮台兵は薩軍の猛攻を防ぐことができず次々と塁を奪われ馬見原に敗走してしまいましたが午前9時頃薩軍の攻撃が止まります。

坂本本営より各隊長の招集命令が下され隊長は坂本に向かいました。

本営では到着したばかりの高城七之丞(延岡隊戦記では高城から派遣された大迫某)が状況報告(延岡隊戦記では三田井の守備放棄の詰問)のためだけに戦闘中の隊長を招集したようです。

小濱と増田は激怒して隊に戻りますが時既に遅し、進軍することが叶わず撤退してしまいます。

この事が無ければ少ない熊本鎮台兵を馬見原から撤退させられたかもしれません。

薩軍撤退後、熊本鎮台兵は鏡山に戻り警備を厳重にします。

5月24日

熊本鎮台と交代して第一旅団(一部熊本鎮台)が馬見原から五ヶ瀬町の男山方面に進軍します。

官軍左翼の兵は薩軍の炊事場に火を付け津花峠を越え男山の通路を絶とうとしますが薩軍の塁を抜くことができず退却しました。

官軍中央は男坂・広木野の塁に攻撃しますが守兵中津隊の右翼が高岳(男山か?)より激しく攻撃して正義六番右小隊が援隊として奮戦して官軍を退けます。

広木野の正義七番は偵察を出しましたが赤谷村で官軍と遭遇して防戦しました。

官軍は正義七番の塁に迫りますが隊長の橋本諒助が策を廻らせ地元民100名を左翼の山頂に登らせ勢援と見せかけた偽計で官軍を退却させています。



官軍は男山への進軍と同時に馬見原から椛山方面に迂回させて岩神の薩軍を攻撃、そのまま戸の口から三田井に進軍しました。



5月25日

官軍は再び男山に進軍、同時に三田井の小坂峠にも兵を進めます。

男山麓の男坂に中津隊、広木野に正義七番中隊が官軍を迎え撃ち午前9時から午後5時まで激しい戦闘が行われました。

薩軍は死守することができず中村に退却してしまいます。

三田井の小坂峠では山頂の5塁から薩軍が猛射して官軍を防ぎますが川越大尉の一隊が迂回して猿渡より薩軍の背後を突きました。

薩軍はこれにより退却してしまいます。



三ヶ所からの官軍主力部隊も27日には三田井に入り三田井は官軍に占領されてしまいますが、延岡への進軍を阻止すべく8月まで日之影町・延岡市北方町において膠着状態と戦闘を繰り返すことになります。



【西南戦争史跡】

《五ヶ瀬町》

広木野塹壕

5月4日に薩軍の構築が始まります。

ここを守備していたのは正義七番中隊でしたが石柱には中津隊増田宋太郎の名前が刻まれています。













大石越西南役薩軍塹壕跡

大石越に正義六番と延岡隊が構築して監視兵を置き、官軍の鞍岡からの侵攻を警戒させていました。













八人塚

城東会戦での負傷者は木山~矢部~馬見原~三ヶ所~三田井~延岡と運ばれました。

ここに埋蔵された薩軍8名は馬見原付近で亡くなった兵士のようです。







薩軍兵士の墓

ハ人塚近くの揚集落にある共同墓地には薩軍兵士2名の墓があります。

墓は共同墓地より一段上にあるので少し探さないといけません。

墓石には石塚順之助と(姓不詳)紀之とありました。

薩南血涙史の戦没者名簿には2人の名前がありません。

石塚姓は8名いましたが該当せず。

通称と諱の関係もあるのではと考えていますが今後の課題としておきます。

田原と彫られているので田原坂での負傷者がこの付近で絶命したのかもしれませんね。









集落から田んぼの中の細い道を進むと獣避けフェンスがあります。
フェンスの扉を開けて更に進むと共同墓地です。





薩軍坂本本営の専光寺

ここは西南戦争史跡①に載せています。



金光寺

こちらは五ヶ瀬町の戦闘ではなく、矢部浜町から椎葉村を経由して人吉に向かう途中に西郷隆盛と桐野利秋が宿泊した寺です。

4月22日 西郷隆盛宿泊
4月23日 桐野利秋宿泊





















《高千穂町》

高千穂官軍墓地

この墓地には三田井病院、可愛岳、陸地峠、黒土峠、金山峠などで病死や戦死した官軍兵士が埋葬されています。

中央には陸軍士官見習・村上清之進(8月18日可愛岳戦死)の墓が建っています。

8月18日という事は薩軍の可愛岳突囲戦での戦死ですね。























高千穂戸長役場跡(高千穂町役場)

ここは可愛岳から鹿児島に向かう西郷隆盛が8月21日三田井に入り宿泊した場所です。



























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡62 宮崎県三股町②

2024-06-10 03:04:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西南戦争史跡61の続きです。

7月25日

官軍・別働第三旅団は都城を発し、三股の梶山に着きます。
(三股町史に書いてある山田川を挟んでの激戦は無かったようです)

三股の薩軍・干城三番と奇兵六番の兵士は20余名ほどが場所に居るだけで弾薬も乏しい状況から梶山を守備することができません。

早朝に梶山を発し、板谷越方面と新村越方面に向かいます。

上の段(徳阪)に官軍の追撃を防ぐ兵士を若干名置いていきますが、午前9時に官軍が迫り戦闘が行われました。

薩軍は地形が狭くなった場所で竹藪の間から狙撃を開始、官軍は動けない状態でした。

その状態を見て八木中尉は身を挺して進んで行きましたが足に銃弾が当たり負傷します。

副官の加藤中尉は兵を左右に分けて薩軍の背後から攻撃しました。

薩軍はそれに驚き敗走します。



この事から三股町史での薩軍はシラミを取っている最中に官軍が迫り、裸で逃げて行くという内容も事実とは考えられません。

尾佐川での戦闘に関しても橋を落とした事は事実ですがそこで薩軍20名が戦闘をした記述はありませんね。


【三股町が掲げている西南戦争史跡】

薩軍本営跡

ここには池辺吉十郎(三股町史では池辺吉次郎)がいたとのことです。

しかし、池辺吉十郎は熊本隊の隊長で都城陥落以前の熊本隊本営は財部にありました。
7月24日まで霧島から財部において戦闘をしており25日には都城から北東側の山之口に行ってますから三股にいたとは考えられないです。
(熊本隊の戦袍日記を参照)

薩軍の本営は庄内に置かれていたので三股の本営と云われる場所には誰がいたのでしょうか?

薩軍側の一次資料の薩南血涙史にも西南記伝にも三股本営の記述はないですね。

三股町の広報には辺見十郎太の逸話も残っていますが大口~菱刈~霧島大窪~財部~岩川~末吉と辺見の足取りからして三股にいた記述はありません。

とても不思議な本営跡です。




無名戦士の墓

薬師堂裏に建っている梶山での戦闘で戦死した兵士の墓と云われています。







激戦地 尾佐川橋

梶山から敗走する薩軍20名が橋を落して追撃してきた官軍と戦闘をしたと云われています。

疑問が残る場所です。









山田(沖水)川の激戦地

7月25日川を挟んで薩軍と官軍が激戦を繰り広げた場所です。

こちらも疑問が残ります。









鍋ふさぎの墓

薩軍によって殺害された鍋釜修理工一家の墓と伝えられています。







西南戦争一番隊出兵者の灯籠

西南戦争に従軍した長田地区の人たちの武運を祈って奉納されました。









西南戦争従軍碑・西南戦争招魂碑

山王原稲荷神社内に明治12年9月28日建立。

亡くなった薩軍・官軍従軍者20名の名前が刻まれています。







三股町の広報
















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡61 宮崎県三股町①

2024-06-10 02:39:00 | 宮崎県西南戦争史跡
都城市隣にある三股町での西南戦争状況

都城陥落により薩軍の干城三番中隊(隊長・成尾哲之丞)と奇兵六番中隊(隊長・別府九郎)は三股に退却します。

三股に進軍してきた官軍は別働第三旅団でした。

戦闘状況を文献で調べましたが異なる状況ですので『三股町史』『薩南血涙史』『征西戦記稿』の文を載せてみます。(原文のママ)


【三股町史】

七月十日ごろから、都城を中心として官軍の進撃は目ざましく、諸県全域にわたつて激戦は展開された。二十日前後になって、山田・高城・庄内方面は敵味方入り乱れての斬り込みが繰り返され、二十四日になつて薩摩軍は三股まで引き上げて来た。都城から三股にかけての戦いは今までにないもので、官軍は打ち寄せる波のように三股街道を東へ東へ進軍、二十五日未明には山田川をはさんで撃戦が展開さた。

当時、薩摩軍右本隊の本部は梶山(現・榎田秀生宅)におかれ、薩将池辺吉次郎(熊本県の人)がここにいて、すべての情報は、この本営にもたらされた。臨時野戦病院は現在の榎田秀直宅(移転前)におかれて老医師が一人来ていた。

また仕出場(炊き出し)が下之馬場の鈴木利明宅におかれていた。

戦いが始まって以来数か月、官薩両軍の将兵は昼夜の別なく悪戦苦闘して死線をさまよい、身心を休める暇なく疲労もその極に達した。そのために軍服はほころび、わらじはずたずたに切れ、顔は硝煙と泥にまみれ、ひげはぼうぼうと伸びて、山賊さながらの風態、はてはシラをかわき、しばらくの休憩にも真裸になってシラミ取りに専念するような状態であった。山田川を乗り越えた官軍が梶山に殺到したとき、シラミ退治に余念のなかつた真裸の薩兵は、取るものも取りあえず中野の山をさして、ほうほうの態でにげて行つたというととである。

梶山を追われた薩軍は、梶山を出るとき官軍の宿営とならないように各家々に放火して退却したのであるが、残された女や子供だけの家族を苦しめる結果となった。梶山の戦に官軍の戦死者は五名、負傷者は二十名であつた。この五人の戦死者の墓標は梶山の入口(現・小牧ツネ宅裏)に立てられたが、無名の士として今は知る人もない。この戦いで薩軍には戦死傷者はなかったとある。

官軍は梶山から逃げる薩事をさらに追撃し、轟木の尾佐川橋にさしかかつたとき、この橋をはずして板谷に逃げるとちゆうの私学校隊二十人ばかりと、川をはさんで激しい戦いを展開した。橋をはずした二十人の薩軍は道路に待ちかまえてやがてここにさしかかつた官軍いつせいに銃火を浴びせたのである。官軍もただちに応戦したが、この戦いで両軍とも数名の負傷者を出した。官軍は二隊に分れて左右の峰を伝つて薩軍の背後に回ろうとしたので、薩軍は板谷をさして逃走したのである。この戦いが「第二尾佐川の戦」である。

この戦いの夜は、柳岳に残兵が残っているらしいとのことで、官軍は手分けして山狩りを行い、警戒を怠らなかつたが、その後森木に集合して板谷に向つて出発したとのことである。



【薩南血涙史】

七月廿五日三俣に在て敗兵をしう集せし薩軍は此日早天兵を分ちて二となし一は成尾哲之丞之を率ゐて新村越に一は別府九郎之を率ゐて板屋越に向て三俣を退却せり、而して別府が兵上の段に至る頃、成尾が兵も道を誤つて此地に會せり、是に於て兵士若干を上の段に(官軍の記には徳阪とあり)遺し追撃を拒がしめ諸隊は悉く板屋に退けり既にして上の段に止まり拒ぎたる兵も交戰幾ばくもなくして又來り會せり

(薩南血涙史の奇兵六番隊の記)

七月廿四日未明官軍不意に末吉に襲来我兵防ぐ事能はずして走る、都の城に守防せんとするに都の城も既に官兵の有となれり退て三俣に陣す、此時三俣に達するもの僅に二十餘名且つ彈藥乏く爰を保つこと能はず飫肥境に退き橋を落して守兵す、此地運輸不便にし尚ほ板屋に退く



【征西戦記稿】

七月廿五日別働第三旅團ハ七月廿四日更定ノ部署ニ依リ翌廿五日迫田少佐ノ第一大隊ヲ先鋒トシ江口少佐ノ小隊ヲ後隊トシ共ニ都ノ城ヲ發シテ寺柱村ニ入リ隧ニ梶山ヨリ諸隊ト合シ飫肥ニ進ントス

梶山ヨリスルノ諸隊ハ第二大隊ヲ先鋒トシ廿五日午前九時賊ニ三俣ノ徳阪ニ遇フ地形□仄、修竹鬱□トシテ路ヲ擁ス賊其中ヨリ狙撃ス偶ニ我兵部署ヲ破リ先鋒ヲ爭ハントスル者アリテ隊伍少ク動ク

八木中尉大ニ之ヲ憤リ挺身率先、其第一中隊ヲ以テ直チニ正面ヨリ進ミ親ヲ督戰シテ足ヲ銃傷ス副官加藤中尉代リテ指揮シ別ニ第二中隊三番小隊ノ半隊ト第三中隊ノ一番小隊ヲ右ヨリシ第五大隊ノ兩小隊ハ左ヨリシ共ニ其背後ニ出テシム賊狼狽樂ク能ハスシテ潰ユヌ斥候隊ヲ出シ追撃セシムルコト半里許因チ兵ヲ収メ哨兵ヲ要所ニ排シ全軍梶山郷に次ス此戰實ニ我カ不意ニ出ツ故ニ死傷モ亦多シ

『死傷十四』

廿六日午前四時我衆皆梶山郷を發ス山路羊腸、渓間千尺、到ル所、橋、賊ノ撤スル所ナリ我兵□シ□重ノ運搬ニ苦ム



三股町史に書かれている『都城から三股にかけていままでにない戦い』があった記述は他の文献には無く小規模の戦闘があったようです。


三股町の歴史においての今までにない戦いのことなのでしょうか。


この地域での大きな戦闘は7月24日の都城攻防戦です。


7月24日の戦闘図




《庄内方面》

官軍 
第三旅団(後方に第二旅団と別働第二旅団)

薩軍
雷撃八番・雷撃十三番・雷撃九番・正義一番・干城三番・熊本協同隊・正義四番・雷撃四番・雷撃五番

《財部方面》

官軍
別働第三旅団

薩軍
熊本隊・破竹(隊號不明)・雷撃二番・鵬翼一番・干城一番

《通山方面》

官軍
第四旅団

薩軍
振武二番・振武六番・振武七番・振武十三番

《末吉方面》

官軍
別働第一旅団

薩軍
加治木奇兵一番、二番・奇兵六番・奇兵十四番・雷撃六番・干城七番・行進一番・行進六番・行進十四番


午前4時、通山での戦闘で薩軍は守備を固め第四旅団を防いでいましたが官軍は突撃部隊を編制して薩軍陣地を破ります。


午前6時、庄内の薩軍は敗れてしまい敗走します。


午前7時、財部と末吉も官軍に占拠されます。


午前11時、都城は官軍に占拠され、薩軍は隊伍揃うことができず散り散りに敗走しました。


三股町②へ続きます。