西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 番外編①

2022-09-24 00:12:00 | 鹿児島県西南戦争史跡
令和4年9月24日

今から145年前の明治10年9月24日

西南戦争が終結しました。

鹿児島の城山に立てこもる西郷隆盛以下薩軍に対して午前4時、大砲3発を合図に政府軍の総攻撃が始まります。




城山北西の夏蔭城から政府軍が薩軍を破り始めると次々と薩軍守備隊は戦死していきました。




岩崎谷の洞穴前に隊列する薩軍少将を前に洞穴から出てきた西郷隆盛は無言で歩き岩崎谷を下り始めます。

西郷隆盛の前に桐野利秋・逸見十郎太、後ろに村田新ハ・別府晋介が従います。



岩崎谷を下った島津応吉邸門前で西郷隆盛の太腿と左横腹に弾丸が当たりました。

その場で別府晋介の介錯により西郷隆盛は自決しました。



西郷隆盛の死を見届けた薩軍少将は政府軍へ切り込む者、切腹する者とそれぞれ西郷隆盛の後を追いました。



午前7時頃銃声も止み城山には静けさが漂います。

これで7ヶ月余に及ぶ西南戦争が終結しました。

城山での薩軍戦死者160名、負傷者・投降者240名とあります。



(古写真は当時の城山堡塁です)





薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡⑰ 熊本県山鹿市郊外

2022-09-23 20:24:00 | 熊本県西南戦争史跡
日輪寺

山鹿市の北側にある寺です。

山鹿口の戦いで薩軍の拠点として見張り所や指揮所が置かれていました。





この寺には政府軍の小隊長押川仙太郎の顕彰碑が建てられています。

押川は薩軍撤退後この地にやってくると道端に放置されている3人の薩軍兵士の遺体を見つけます。

戦死した者に敵味方は関係ないと考えた押川は地元の人にお金を渡して薩軍兵士の供養を依頼しました。

顕彰碑の隣りに薩軍兵士3人の墓があります。

写真は逆光で見えにくいです。












万行寺

山鹿市の上吉田にあるこの寺は薩軍と政府軍が宿営した寺です。

明治10年2月25日薩軍が山鹿を占領後万行寺北側にある深倉の間道を守るため薩軍60~70名が宿営しました。

3月21日薩軍が撤退後3月25日~28日まで政府軍が宿営しています。









協同隊士三人野満顕彰碑

山鹿市墓地公園にある野満長太郎・安親・富記の顕彰碑です。

3人は植木学校で学び協同隊に参加しました。

長太郎は協同隊分隊長として薩軍と転戦し、延岡俵野で政府軍に投降します。

2年の投獄後郷党の指導者として尊敬されました。

安親・富記兄弟は長太郎とは従兄弟にあたり、2月22日薩軍の熊本城総攻撃が始まると2人は真っ先に城壁取り付き奮戦しました。

兄弟はお互いその名を連呼しつつ弾丸雨注の中壮絶な戦死を遂げています。













薩軍仮繃帯所跡

山鹿市平山温泉の外れにあります。

ここには政府軍の平山別動隊がいました。

田原坂の激戦に先立つこと1週間余から田原坂陥落までの1ヶ月間この地区では薩軍と政府軍の攻防戦が繰り広げられています。

今田テキさん(当時13才)の話によれば、この付近は薩軍の宿営地となり、当今田宅は繃帯所ともなったとのことです。

















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡⑯ 熊本県山鹿市鍋田その3

2022-09-21 20:15:00 | 熊本県西南戦争史跡
永野原激戦地

鍋田の車坂を上ると永野原という場所があります。

豊前街道沿いのこの地で激しい戦闘が繰り広げられました。

第2次山鹿口の戦い(明治10年3月3・4日)で桐野利秋率いる薩軍は南関を目指し北上するも、政府軍に阻まれます。

この時、兵力で勝った薩軍は優勢でしたが桐野利秋の元に田原坂陥落の報告が届きます。

しかし、この報告は誤報でした。

桐野利秋は優勢で南関まで向かうことができる状況でしたが誤報のため山鹿へ引き返すことになりました。

この誤報がなければ薩軍は南関まで進軍して官軍第一旅団・第二旅団の南下を食い止めることができたかもしれません。



永野原は旧街道なので道が狭いです。







永野原激戦地の案内板近くに薩軍の墓と書かれた場所がありました。

調べてみると今は無いとの事です。






椿井の激戦地跡

椿井は鍋田の南西にあります。

政府軍は永野原・鍋田の薩軍を椿井側から側面攻撃するため進軍しました。

それを阻止する薩軍と激戦になってます。

ここにある墓石には銃弾により欠けている物もあります。








徳永三兄弟顕彰の碑

椿井で生まれ育ち植木学校で学んだ徳永慎太郎・政次・重蔵の兄弟は西南戦争が始まると熊本の協同隊に入りました。

長男・慎太郎は水俣で戦死(享年35)
3男・政次は鍋田での負傷がもとで亡くなる            (享年29)
5男・重蔵は菊池で戦死(享年24)








正泉寺

椿井集落にあるこの寺も激戦地になっています。

本堂には弾痕が残る柱があるようですが行った時は本堂が改装中で見ることができませんでした。










安田兄弟顕彰の碑

鍋田と椿井の間に西牧という場所があります。

ここから安田兄弟が熊本隊に参加して政府軍と戦いました。

碑には安田弾ハ・安田嘉七郎の名前が刻まれています。















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡⑮ 熊本県山鹿市鍋田その2

2022-09-16 19:06:00 | 熊本県西南戦争史跡
岩間間道

この間道は岩村と平山を結ぶ道で岩村付近には政府軍本隊があり、平山では政府軍の平山部隊が陣地を構築していました。

明治10年3月3.4日には薩軍先鋒で川久保十次・村田三介が率いる薩軍2個小隊、中軍に伊東直二・園田武一が率いる薩軍2個小隊及び佐土原籐吾・川上彦一が率いる飫肥隊2個小隊、遊軍に別府九郎率いる薩軍1個小隊が岩間間道を巡り攻防戦を行ってます。

岩間間道の攻防戦は薩軍が優勢だったとのことです。











村田三介戦死の地

岩間間道の標識近くに村田三介戦死の地石碑があります。

村田三介は西南の役初戦の頃2月22日に政府が熊本城に籠城する鎮台兵を援護するため派遣された乃木希典が率いる第14連隊を植木の向坂にて迎え撃ち、隊の誇りである連隊旗を奪った人物でした。

山鹿を攻略すべく政府軍は三浦少将の第3旅団約4000人を向かわせます。

それに対し薩軍は村田隊(5番大隊2番中隊)・その他薩軍各中隊が10隊、飫肥隊1番から4番、熊本協同隊の合わせて約2500人で迎え撃つ事となります。

3月11日両軍激戦の中、政府軍は村田隊の背後を衝こうと川沿いを進んで行きます。

それを見つけた薩軍の神宮司隊は政府軍が接近するのを待ち一斉に射撃を行いました。

これにより敗走した政府軍を見て、村田三介はこの機を逃さず奮戦、指揮します。

しかしながらその時、村田三介は銃弾に当たり倒れる事となりました。

石碑には村田三介の戦死は3月12日とありますが実際は3月11日になります。