西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊲ 人吉・球磨③

2023-03-28 15:32:00 | 熊本県西南戦争史跡
官軍瓦屋本陣跡(政岡邸)

照岳(球磨郡山江村万江にある山)で指揮をしていた官軍別働第ニ旅団の山田顕義少将は明治10年6月1日戦況の進むのを見て山を下ります。

人吉に入ると球磨川に架かる大橋は薩軍によって落とされ渡河が不可能でした。

官軍は球磨川北岸に陣を張り、翌日の攻撃に備えるため本陣をここに定めました。









官軍砲台跡

官軍は村山台地に砲台を築き、球磨川南側の薩軍本拠地永国寺、新宮家、薩軍の軍列に砲撃を行いました。





村山砲台から人吉城を望む

(写真中央に黒い板張りの角櫓と白い海鼠壁が見えます。







西南之役戦歿者慰霊之碑

ここはGoogle Mapsで見つけたのですが、何の情報もありません。

探し出せるかわからなかったのですが行ってみる事にしました。

Google Mapsを見ながら周辺をぐるぐる回り山の中に入る道を何本か入りましたが違います。

最後に入った山道で壊れかけた案内板を発見し辿り着くことができました。



現在も綺麗に管理されています。(下にある家の方なのでしょうか?)

裏の碑文から薩軍戦死者の慰霊碑かもしれません。

ご存知の方がいれば御教授お願い致します。

(投稿後コメントをいただき薩軍の慰霊碑だと教えてもらいました)

後日調べるとこの場所に多くの薩軍兵士が埋葬されていたと云われており、西郷隆秀氏(西郷隆盛の孫・西郷菊次郎の子)が慰霊碑を建立したとありました。人吉市史より



慰霊碑に行くにはHonda Cars人吉インター店近くの細い道に入ります。



その道を進むと左手に北向地蔵尊があります。



地蔵尊の先に左側へ登る山道があります。



その山道を進むと壊れかけた案内板が現れす。



案内板を左に進みます。



左下に民家がありますが、山沿いに進むと突き当りに慰霊碑があります。







池の下村台場

官軍は池の下村にある山上に台場を築き四斤山砲2門を備えます。

大明神山(一勝地阿蘇神社裏山)の薩軍陣地に向けて砲撃を行います。







大明神山





球磨郡球磨村





神瀬鹿三の墓(新宮禅寺)

人吉一番隊総長・神瀬鹿三は3月21日に植木にて戦死。38歳。



墓は新宮禅寺本堂から少し離れた場所にあります。





新宮禅寺







球磨郡錦町







西南戦争従軍記念の石灯篭

人吉隊の一員だった藤倉宗治が生還できたことに感謝して球磨郡錦町木上地区の葛掛神社の前に奉納した石灯篭です。

葛掛神社は地図で検索しても出てきません。





葛掛神社へ行くにはファミリーマート横の細い道を真っ直ぐ進みます。(途中から道幅が狭くなります。)

突き当りに民家があり、左に曲って上がって行くと神社があります。



球磨郡錦町



















 



薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊱ 人吉・球磨②

2023-03-28 14:09:00 | 熊本県西南戦争史跡
武家蔵

相良家家老・新宮家の屋敷跡です。

人吉一番隊小隊長・新宮嘉善の自宅で薩軍幹部の宿舎として使われました。

嘉善の父は官軍参謀・新宮簡で明治10年6月1日の戦闘では薩軍の宿舎という情報を得ると砲隊に自宅を砲撃するように指揮します。

親子が敵味方となった悲しい話ですね…







老神神社

西南戦争の弾痕が残る神社です。



本殿の隣りにあります。





















人吉城

人吉隊は人吉城三の丸に山砲を担ぎ上げ、村山にある官軍と砲撃戦を展開します。



しかし、人吉隊が放った砲弾は射程距離が足らず、官軍には届かなかったとのことです。



人吉城三の丸から官軍砲台を望む
(写真中央の小高い台地が官軍砲台跡です。)






戦死之碑(林鹿寺)

西南戦争後、元人吉隊の新宮嘉善を発起人として西南戦争殉難者の戦死之碑建設計画が持ち上がり、この寺に建立されました。











青井阿蘇神社

5月3日薩軍は決戦を前に戦勝祈願と閲兵式を行い、剣舞や相撲大会を開催しました。







戦死之碑(大信寺)

6月4日薩軍から離脱した人吉隊260名は官軍に降伏します。

大信寺は裁判までの人吉隊の拘置所となりました。

境内の山門脇に西南戦争での戦死者を偲んで戦死之碑が建立されています。
















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉟ 人吉・球磨①

2023-03-28 05:14:00 | 熊本県西南戦争史跡
人吉による西南戦争

薩軍は熊本城東会戦での敗戦により浜町から人吉へ撤退し、官軍を迎え撃つ作戦をとります。

明治10年4月27日西郷隆盛は人吉土手町の永国寺に入り本営とします。

桐野利秋は人吉の北東約25kmにある江代に入り出張本営を置きました。

人吉城には弾薬製造所が設置され1日2000発を生産しています。

薩軍は江代出張本営でこれまでの10個大隊から
奇兵隊(大隊長・野村忍介)
振武隊(大隊長・中島健彦)
破竹隊(大隊長・別府晋介)
雷撃隊(大隊長・辺見十郎太)
正義隊(大隊長・河野主一郎)
行進隊(大隊長・相良長良)
干城隊(大隊長・阿多壮五郎)
常山隊(大隊長・平野正介)
鵬翼隊(大隊長・淵辺高照)
と隊を編成しました。

4月28日江代出張本営で軍議が開かれ、今後の戦略方針が決定。

人吉の要害を堅守し、左翼は大口・水俣をうかがい、右翼は豊後へ進出して官軍を牽制、一方鹿児島にも部隊を派遣し確保につとめます。

豊後方面⇒奇兵隊
江代方面⇒正義隊・干城隊
神瀬方面⇒常山隊
大口方面⇒雷撃隊
佐敷方面⇒鵬翼隊
鹿児島方面⇒振武隊・行進隊

それに対して官軍は5月6日に人吉攻撃を決定します。

主攻部隊に山田顕義少将率いる別働第ニ旅団、助攻部隊に黒川通軌大佐率いる別働第四旅団(15日に別働第ニ旅団に編入されます)が人吉へ進出しました。

人吉に通じる7道を並進し、要所にある薩軍を撃破。

徐々に包囲網を狭めて人吉に迫ります。



6月1日官軍は人吉の薩軍を攻撃。

薩軍も官軍を球磨川を挟んで迎え撃ちますが圧倒的な兵力と火力にどんどん劣勢になりました。



要害の地と思われた人吉も1ヶ月でに薩軍は人吉の南東側の大畑・田代に撤退します。

6月2日薩軍は再び官軍と対峙するも、官軍の攻勢に抗えず飯野(宮崎県えびの市)へ撤退して人吉は陥落しました。




【人吉隊】

薩軍の党薩諸隊には人吉隊がありました。

3月3日神瀬鹿三を総長として人吉一番隊を結成します。

3月6日人吉一番隊は熊本隊と合併し川尻の警備任務に就きました。

3月21日植木にて初めて戦闘に参加するも総長の神瀬鹿三と数名の隊士が戦死します。

その後は木留、吉次峠にて戦闘を展開。

薩軍が熊本撤退を決した時に人吉へ向かうことを提案しました。

薩軍が人吉に入ると人吉隊はニ番隊、三番隊も編成され、五木口方面で1ヶ月余の戦闘を展開します。

しかし、人吉が陥落すると官軍参謀・新宮簡(人吉出身)の降伏勧告を受け入れ6月4日に降伏しました。

降伏1ヶ月後7月4日に罪を問わない事を交換条件に薩軍を裏切り官軍の別動第ニ旅団付属ニ中隊に配属され、宮崎にて薩軍を相手に戦闘を行いました。



永国寺

薩軍の本営が置かれた寺です。



案内板



山門



本堂内部



西郷隆盛の掛け軸



官軍の砲弾



お寺内にある西南戦争の錦絵














永国寺は幽霊寺でも有名です。





永国寺本堂横に建てられている西郷本営跡碑です。





人吉2番隊士の碑








西郷隆盛塩蔵跡



























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉞ 熊本市④

2023-03-24 11:00:00 | 熊本県西南戦争史跡
西郷隆盛本営跡(西区春日)

明治10年2月23日薩軍は春日村の北岡神社神官・光永大善宅を本営にしました。

ここは北岡の山陰で、はじめは熊本城からの狙い撃ちも受けない安全な場所でした。

しかし、3月11日以降北岡に本営があるらしいと気付いた熊本城籠城軍は砲撃を集中するようになります。

この砲撃により薩軍は二本木に本営を移すことになりました。

光永大善宅跡に石碑が建てられています。









二本木本営跡(西区二本木)

北岡神社・光永大善宅から二本木神社の西裏手にあった質屋・築地悌四郎宅(米穀商・筵屋鳥居宅という文献もあります)に本営を移します。

西郷隆盛は井戸水を飲むたびその美味しさに感激したと伝えられています。














薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉝ 熊本市③

2023-03-23 10:32:00 | 熊本県西南戦争史跡
熊本協同隊出陣の地(東区保田窪本町)

菅原神社内に碑があります。

協同隊は明治10年2月20日に出陣式を行い、21日に薩軍本営に入り戦闘を繰り広げることになります。

熊本協同隊は当初40名でしたが、その後続々と参加者が現れ約400名にまで増えていきました。







菅原神社付近は道路が狭いので訪れる際は気をつけてください。





熊本隊出陣の地(東区健軍)

健軍神社山門の前に碑があります。

2月22日健軍神社に集まり会議を開き挙兵を決めました。

熊本隊は約1500名。

その後熊本城北側の京町にある往生院に向います。









健軍神社の社務所にある西南戦争の銃撃戦で銃弾がめり込んだ木







延寿寺(南区川尻)

2月20日別府晋介率いる薩軍先鋒隊が川尻に到着します。



その後に西郷隆盛も川尻に着いています。

はじめこの寺に本営を置き軍議で熊本城強襲を決しました。

その後薩軍の兵站基地となり、野戦病院になっています。





薩軍本営並野戦病院跡の碑

西南戦争の戦闘が激しくなると各地から戦死傷者が運ばれ、戦病没者850余名が埋葬されています。



西南役薩軍戦没者墓碑

後年戦没者の遺骨のほとんどが遺族により故郷に改葬されました。



新しい埋葬者名簿が建てられています。










川尻薩軍本営跡(南区川尻)

川尻に入った西郷隆盛は布屋質商山本大蔵宅を宿営地にしています。

現在は料亭になってます。











泰養寺(南区川尻)

西南戦争での案内板や碑などありませんが、この寺も本営跡、野戦病院だったと云われています。