西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡60 熊本県山都町

2024-06-05 19:13:00 | 熊本県西南戦争史跡
城東会戦で敗退した薩軍は山都町の矢部に集結します。

現在の通潤酒造の場所に薩軍本営が置かれ明治10年4月21日薩軍の編制が行われました。

これまでの第○大隊から○○隊に編制されたのがこの矢部会議です。

新たに編制された隊は次の通りです。

山鹿方面の軍  ⇒奇兵隊 隊長・野村忍介
田原方面の軍  ⇒振武隊 隊長・中島健彦
木留方面の軍  ⇒行進隊 隊長・相良長良
川尻口及び攻囲軍⇒正義隊 隊長・高城七之丞
御船方面の軍  ⇒干城隊 隊長・阿多壮五郎

熊本隊や熊本協同隊などもこの時編制をしています。

4月22日から24日にかけて各隊は矢部を発し人吉に向かいました。



通潤酒造(薩軍本営跡)







薩軍兵士三人の墓

御船での戦闘で負傷した薩軍青年兵士三人が息絶え、歌野家の人が自分の墓地内に『旅人』と墓石を建てて埋葬したと云われています。



残念ながら墓地内にはそれらしき墓石はありませんでした。







男成神社

明治10年4月21日熊本隊は矢部から男成村に隊を移します。

4月23日午後、熊本隊は男成神社で招魂祭を行い、開戦以来の熊本隊戦没者の霊を祀りました。











熊本隊砲台跡

男成神社の参道に熊本隊は砲台を構築しています。



砲台跡から参道入口を望む







伝えによる薩軍兵士の墓

人吉に向かう薩軍をこの地の住民達は手厚く迎えました。

もてなされた薩軍兵士ですが負傷により数名は死亡。

死亡した薩軍兵士は住民により埋葬されますが官軍の目をさける為『牛の墓』と言っていたと伝えられています。









龍専寺(薩軍野戦病院跡)

龍専寺の本堂は野戦病院として使われていました。

夕方薩軍は本堂の畳を全部上げて壁に立て掛け、板張りの上に薩軍重症者を並べています。

翌朝並んでいた負傷者は全ていなくなっており、また夕暮れになると連れて来られた負傷者が並べられていました。

そして朝にはその姿は消えていたそうです。



この碑は江藤政光氏が個人的に建立されたとの事です。







官軍本営跡の碑

これも江藤政光氏個人の建立ですが官軍本営はここにありませんでした。

本営は新八代屋の向かいにあったようですが現在は残っていません。



官軍本営跡の碑近くの新八代屋































薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡57 球磨郡山江村照岳

2024-05-26 02:03:00 | 熊本県西南戦争史跡
人吉市の北側にある球磨郡山江村・照岳に西南戦争の塹壕があるので探索してきました。



照岳における西南戦争

明治10年5月26日

別働第二旅団司令・山田顕義少将は人吉攻撃の義を決し、歩兵三十二個中隊・屯田兵二中隊・砲兵五小隊・工兵四小隊を以て五家、五木、種山、萬江(万江)、照嶽(照岳)、球磨川、佐敷の七道より漸次進軍するの部署を定め30日拂暁(夜の明けがた)より行進を開始せり。
【薩南血涙史より】

照岳道・照岳古道(殿さん道)

相良12代当主・相良為続が文明16年(1484年)八代地方に勢力を伸ばすため開拓した軍事用の古道。

人吉市上原田町から球磨郡山江村の照岳を越え、球磨村両村境の白岩山など尾根沿いから八代市坂本町に抜ける。



照岳を進軍した官軍は山地中佐が率いる五個中隊と選抜兵でした。

5月30日官軍は行進ラッパを吹奏して進軍。

照岳丘上において薩軍(隊号未詳)と激戦を繰り広げます。



薩軍は劣勢で人吉に援軍を要請しました。

援軍として発したのは雷撃二番中隊。

照岳に駆けつけた雷撃二番中隊の隊長・町田萬は自ら先鋒となり、官軍に斬り込みました。

官軍兵は驚き退却ラッパを吹奏して照岳に逃れます。

薩軍は尾激して官軍の銃器、弾薬を獲ることができました。

雷撃二番中隊は翌日に人吉南側の大畑に退きます。


照岳登り口



しばらくは林道が続きます。



分岐点が現れるました。



分岐点を左へと進みます。



その先は行き止まり…



周辺を探索すると下に行ける場所を見つけました♪



今度は急斜面…ロープを掴んで登ります。



長い年月で古道も崩壊したのでしょうか。

更に登って行きます。



歩きやすい道ですね。



古道の姿が実感できます。




分岐点に出ました。

矢印の方が照岳です。



しばらく登ると【山越えの神】馬頭観音の石像がありました。



この石像周辺に薩軍塹壕が残っています。

ここで官軍の人吉進軍を防ごうとしたのですね。









もう少し北に進むと今度は2段重ねの塹壕がありました。

地形は南に下がっており、構築したとすれば官軍側だと思われます。







この塹壕の北側斜面を登ると平坦な場所がありました。

別働第二旅団司令・山田顕義も照岳にいましたのでここが牙営地だった可能性があります。



塹壕分布図



照岳山頂





これにて照岳の探索は終了です。

西南戦争の激戦地としての名残りがある素晴らしい場所でした。

探索時間4時間

探索距離8.5km
























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊽ 熊本県玉名市②

2024-01-07 19:49:00 | 熊本県西南戦争史跡
高瀬大会戦の地

菊池川の河川敷に案内板があります。





川を挟み両軍の激しい戦闘がありました。






西郷小兵衛戦死の地

戦死の地とありますが、ここではまだ西郷小兵衛の息はありました。

小兵衛は熊本に運ばれる途中に亡くなっています。



永徳寺地区の堤防には昭和10年の命日に石碑が建立されています。



堤防より繁根木方面を望む






繁根木八幡宮

官軍の近衛兵が居た場所です。





弾痕と思われます。










鳳樹楼跡

官軍の征討軍本営跡で征討総督・有栖川熾仁親王がここに入り指揮しています。










菖蒲庵

荒木直平商店の裏で繁根木川河畔にあります。

当時、荒木酢屋の離れで有栖川熾仁親王が宿泊したと伝えられています。



酢屋だったことが残る酢屋橋






高瀬官軍墓地

ここには官軍兵の墓395柱がありましたが昭和41年に合祀塔に祀られました。

墓地の周りには多くの寺院がありますが、当時ほとんどが病院として使用されていました。












船隈官軍本営跡

田原坂方面に進撃するまで官軍首脳陣が作戦会議を開いた場所です。

熊本城から現状報告のため脱出した伍長・谷村計介はここで報告しました。








加治木隊集団自決の地

負傷した加治木隊16名が官軍に追い詰められて自決した場所です。





自決した加治木隊16名の亡骸は地元の嶋津太郎作氏により供養されています。

遺骨のほとんどが遺族に引き取られましたが1人だけ残されました。

2022年に残された墓の名前が東楠薗利助(加治木隊三番小隊・弓場利助)と判明、2023年に誰が墓を作ったのか判明されました。

弓場利助の郷里である加治木で幼馴染みの有村與助が加治木で墓石を制作して玉名まで運んだとのことです。

とても長い年月がかかりましたが判明されて良かったです。



自決の地より少し東へ行くと左に上る道があります。



ここを上がって行けば墓に着きますが民家の敷地内を通るので行かれる際は一言声をかける事をおすすめします。





【加治木隊士の墓の詳細】

薩軍兵士の墓 謎明らかに

自決した幼なじみの墓を『郷里の石』で作った元従軍兵



池邊吉十郎の墓

明治10年10月26日長崎で処刑された熊本隊隊長・池邊吉十郎の墓が玉名市横山町にあります。


























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊼ 熊本県玉名市①

2024-01-07 17:59:00 | 熊本県西南戦争史跡
玉名での西南戦争

玉名市は明治10年2月25日から27日の3日間激しい戦闘が行われました。

当時玉名は高瀬と呼ばれており、高瀬大会戦・高瀬の戦いと言われています。

2月25日

官軍第一旅団・第二旅団は南関におり、高瀬には前日木葉で敗退した官軍第十四連隊がいました。

薩軍は高瀬の南東にある小天(現天水町)に300人・小天の北にある伊倉に400人・木葉に500人・山鹿に1000人と集結し、高瀬へ進行していきます。

兵力が劣勢の官軍でしたが第一旅団の前衛隊が高瀬に入り、玉名船隈に集結しました。

25日の戦闘は夕方から始まり官軍は高瀬の北から進軍、薩軍は南から菊池川を渡河して進軍し銃撃戦や砲戦を行います。

戦いは午後8時頃まで続きましたが両軍引き上げました。

山鹿からの四番大隊ニ番小隊はこの戦闘には間に合わなかったようです。




2月26日

未明に官軍本隊が高瀬に入り増兵されました。

前衛 歩兵1個大隊
本隊 歩兵2個中隊
後衛 歩兵2個中隊
予備 歩兵1個大隊

午前5時に官軍は出発します。

迫間を出発した官軍の隊が南関へ前進中の薩軍を発見し、現在の現和水町白石で両軍の戦闘がありました。

この時負傷した薩軍16名は官軍に追い詰められ、下村(現玉名市下)にて集団自決をしています。

官軍は安楽寺から木葉に進み、木葉で官軍兵の死屍を収容し、伏兵ありと見た国見山に放火、木葉山は全山猛火に包まれる。

進んで待機していた官軍は三好少将から撤退せよと再度厳命を受け、午後3時撤退します。

伊倉から進出した熊本隊は寺田で官軍の罠に嵌まり第一連隊・第ハ連隊に囲まれ激しい銃撃を受け多数の熊本隊士は戦死し、隊長の池邊吉十郎は腹部に銃創を負い撤退しました。




2月27日

劣勢になった薩軍は26日午後に熊本京町から2800人を徹夜で高瀬に送ります。

右翼には山鹿から桐野利秋、中央には木葉から篠原国幹・別府晋介、左翼には小天から村田新八と大隊長が薩軍兵を率いて高瀬の官軍に戦闘を仕掛けました。

桐野隊は菊池川を渡河して玉名大神宮に立てこもります。

三好少将は督戦中に負傷、船隈本営に近い玉名大神宮を奪還しようとした乃木少佐は攻撃中に負傷しました。

しかし、高瀬に野津鎮雄少将が到着して、山砲の力を借り、ようやく桐野隊を撤退させます。

中央の篠原・別府隊は菊池川対岸に築かれた胸壁から官軍が銃撃しており渡ることができない状態でした。

左翼の村田隊は下流の大浜津に迂回し、渡河して岩崎原の第ハ連隊を攻撃、官軍は繁根木・永徳寺(地名)に放火して撤退。

この時に高瀬御蔵も炎上します。

しかし、第一連隊と近衛兵が応援に駆けつけ反撃。

その中、西郷隆盛の末弟で薩軍一番大隊一番小隊長・西郷小兵衛は近衛兵がいる繁根木八幡宮の崖下を潜行して読坂に出ました。

読坂に出た西郷小兵衛の隊でしたが背後の三池往還に官軍が突出、退路が断たれた西郷小兵衛は2連発の愛用のピストルで応戦中に左胸に被弾してしまい永徳寺の堤防まで退避、焼け残った民家・橋本鶴松方の戸板を1枚借り受けて熊本市北岡にある西郷隆盛の本営まで運ばれます。

しかしながら残念な事に小兵衛はその途中で絶命してしまいました。



野津少将の到着により、さらに増兵された官軍を相手に応戦していた薩軍でしたが兵力差には敵わず撤退します。



これにより高瀬での戦いは終わりました。

【史跡は西南戦争史跡㊽に続きます】


薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊻ 球磨郡多良木町槻木

2024-01-06 20:01:00 | 熊本県西南戦争史跡
西郷橋

西南戦争で敗北した薩軍は延岡から鹿児島へ敗走します。

九州山地を歩き、西米良村から槻木の大師集落に着いたのが明治10年8月27日でした。



槻木から小林に向かう薩軍でしたが24日から連日の暴風雨により川が氾濫して橋が流されていました。

薩軍は周りの木を伐採して橋を架けます。

しかし薩軍は食料が無いため水をがぶ飲みして歩行していたので力が出ない状態でした。

不憫に思った地元住民は牛を殺し寛大な接待で厚く饗しました。

西郷隆盛は地元住民の心情に感謝し、涙を流して御礼を言い這うように橋を渡ったそうです。

その時の姿が降伏の格好に見えた事から西郷降参橋とも言われたようです。

渡り終わった薩軍は官軍の追撃をかわすため、橋を壊して行こうとの話がありましたが、饗しの御礼と地元住民の不便を思いそのままで去って行ったとの事でした。

橋は昭和初期まであったそうですが、その後吊り橋に架け替えられ、現在はここから1km程下流に新西郷橋としてコンクリート造の橋に建替えられています。


大師集落の案内板



西郷橋の絵



大師集落の里道
(薩軍も通ったと思われます)



西郷橋があった場所



下流に掛けられている新西郷橋










【槻木のグルメ】

槻木のハムソーセージ工房ナカムラさんでは鹿肉のハンバーガーが食べられます。





今回はダブルバーガーをいただきました♪



鹿肉はサッパリして美味しいかったです!

オーナーの中村さんから猪肉の焼肉などもご馳走になったりと自分も薩軍同様に饗しを受けました。

感謝! 感謝!

お土産も買わせていただきました♪




【槻木の見どころ】

悠久石

球体の自然石です。

西郷橋跡の近くにあります。

自然の力とは神秘的ですね。










槻木集落の情報