【山鹿市の西南戦争史跡追加分です】
明治10年2月26日から3月20日にかけ、この車坂にて激烈な戦闘が展開されたが、ここは政府軍の台場跡である。
政府軍は斜面を利用して襲いかかる薩軍を猛射した。
(標柱文より)
玉祥山 光行寺
鍋田や永野原での戦闘で劣勢だった官軍でしたが明治10年3月10日に三浦梧楼少将は第三旅団を率いて本営を岩村の光行寺に移します。
官軍の総数は約4000人となり、薩軍約2500人を遥かに凌ぐ兵力になりました。
これにより官軍が薩軍を追い込んで行くようになります。
下岩官軍墓地
光行寺横に下岩官軍墓地があります。
墓碑数は134基を数え、明治10年3月3日の鍋田、岩(現在の和水町)の戦闘で戦死した官軍将兵の墓です。
正円寺
ここは官軍の包帯所があった寺です。
西南の役は明治10年2月22日岩地蔵坂の官薩両軍の衝突戦に始まり其の後鍋田原方面の攻防戦が続いた。
其の間第十四連隊の後続部隊は続々到着集結して正円寺前で野営を始めた。
2月28日寺内に乃木少佐の許に作戦会議が開かれ、其の中で正円寺は包帯所開設決定、6月4日の包帯所解散まで沢山の傷病兵の看護に努めた。
其の間2回も薩軍の襲撃を受けた中、野村忍介隊の攻撃、放火で居家及び渡廊下を全焼したが本堂の延焼は免れた。
(碑文より)
第十四連隊が野営した正円寺前
山鹿官軍墓地(宥明堂官軍墓地)
西南戦争山鹿口の戦いにおいて鍋田や岩村(現在の和水町)などで戦死した官軍の将兵とその後菊池郡(現在の菊池市、合志市等)で戦死した官軍将兵153名を葬った墓地です。
上の段にあった墓地を明治100年にあたる昭和43年、山鹿市老人福祉センター建設に伴い整理し、荒廃していた墓石は現在地へ改葬されました。
(標柱文より)