小林市水流迫
岩瀬川を挟んで政府軍と薩軍が対峙して激しい砲撃戦が繰り広げられました。
薩軍はこの戦闘にも敗れ明治10年7月11日小林から撤退しています。
写真左側に政府軍(小林市街地方面)、右側の岩牟礼城跡に薩軍が陣を敷いています。
岩牟礼城跡
紙屋の薩軍墓
ここは小林市野尻町紙屋と宮崎市高岡の境付近にあります。
説明には8月とありますが政府軍第2旅団、別働第2旅団が小林から宮崎に進軍して7月28日に紙屋を占領していますのでその頃戦死した薩軍兵士と思われます。
西郷隆盛宿営地 川添源衛門宅
小林市須木にある西郷隆盛宿営地です。
延岡和田越決戦敗退後可愛岳を越えて鹿児島に向かう薩軍は8月27日にこの地へ着きます。
川添宅では南向き座敷の縁の上に輿が据えられると西郷はそのまま輿から這い出て奥の6畳の間に入ります。
すると護衛の薩軍兵が出てきてすぐに次の間との隔てに幕を下ろしました。
翌朝出発まで誰も西郷の姿を見た者はいなかったとのことです。
西郷どんの道
8月28日須木の川添宅を出発した西郷隆盛はここを通り小林市街地にある時任為英宅へと向かいます。
西郷隆盛宿陣ノ地 時任為英宅
西郷隆盛はここ時任宅には2度宿泊しています。
1度目は人吉から宮崎へ向かう途中の5月29日。
2度目は延岡から鹿児島に向かい敗走する8月28日です。
時任為英は17歳で薩軍に参加して田原坂で戦ってます。
小林からは368名が薩軍に参加して51名が戦死しました。
時任為英は命からがら生き延びて小林に帰ってきた内の1人です。
西郷隆盛は時任為英に感謝して座布団の下に金時計を置いて出発したという話が伝えられています。
浄信寺
現在浄信寺がある場所は西南戦争時、円岳寺跡に小林学校校舎が建てられていました。
6月13日に小林へ転進した薩軍はここに銃器製造を置いています。
今は当時の痕跡も案内もありません。
地頭仮屋跡【薩軍本営跡】
小林の薩軍本営には河野主一郎が指揮長として赴いています。
ここから須木口や飯野へ薩軍を配備して人吉から迫る官軍を食い止めようとしました。
小林を撤退する際薩軍は本営に火を付けています。
大年神社の戦死追吊碑