玉東町木葉(このは)には西南戦争の史跡が多く残っていますが、ここでも激戦がありました。
鳥居をくぐり参道を登っていくと稲佐熊野座神社の本殿が見えてきます。
本殿の手前左に砲台跡の碑があります。
有栖川宮督戦の地
田原坂を望む
吉次峠を望む
日本赤十字の全身である博愛社が置かれていました。
熊本県下には日本赤十字発祥の地が幾つもあり、ここもその1つです。
官軍将校25名、下士官47名、兵卒249名、軍夫13名と抜刀隊64名の墓があり、墓石は階級が上の人ほど奥になってます。
官軍将校44名、下士官168名、兵卒764名、軍夫4名、計980名が眠る西南戦争官軍最大の墓地です。
三勇士の遺体は墓碑より少し離れた場所に埋葬されたと云う話もあります。
入口の案内板
官軍砲台跡から半高山、吉次峠を望む
官軍砲台跡入口の標柱
明治10年2月23日、前日22日に植木の緒戦において村田三介・伊東直二の小隊に敗れた乃木希典少佐率いる官軍第十四連隊は木葉まで退却します。
乃木は木葉本道とその左右に堡塁を築いて兵を配置して薩軍の進撃に備えました。
薩軍本営は22日の報告を受け23日午前1時熊本城攻囲隊から6個小隊1200名を派遣し南関を攻略して小倉を衝こうとします。
派遣された6個小隊
石原一郎右衛門(四番大隊七番小隊)
嶺崎半左衛門 (四番大隊八番小隊)
橋口成一 (四番大隊十番小隊)
神宮寺助左衛門(五番大隊三番小隊)
園田武一 (五番大隊五番小隊)
平野正介 (五番大隊七番小隊)
その他に大窪に駐屯していた國分壽介(五番大隊九番小隊)と鹿子木に駐屯していた松下助四郎(四番大隊六番小隊)が合併してこれに加わりました。
石原隊・嶺崎隊・神宮寺隊は山鹿方面に進み、橋口隊・園田隊・平野隊・國分隊・松下隊は高瀬(玉名市)に進みます。
官軍第十四連隊は午前5時、津森秀實大尉率いる20余名の別動支隊を植木方面に向かわせました。
田原坂近くの七本で両軍が遭遇しましたが別動支隊は薩軍を引きつけながら後退し、木葉まで誘導します。
午前8時30分木葉で待機していた第十四連隊は中央に吉松少佐隊、左翼に和田中尉隊、右翼に宇田川少尉隊を配備して接近した薩軍に一斉射撃を行いました。
不意をつかれた薩軍は一時混乱しましたが、すぐさま態勢を立て直し上木葉に拠って散開します。
また午後2時頃、山鹿に向かっていた薩軍も砲声を聞き木葉に駆けつけ、木葉山の北へ進出して官軍の側面、背後を襲撃しました。
増強された薩軍の勢いは凄まじく、第14連隊は苦戦を強いられます。
夕刻になると乃木少佐は全軍撤退を命じましたが薩軍の一隊が木葉山を迂回して、稲佐の背面から第十四連隊を襲撃。
これにより吉松少佐は戦死、乃木少佐は馬が被弾して落馬し薩軍に討たれそうになりましたが部下の大橋伍長と摺澤少尉試補に救われ、午後9時頃にようやく退却できました。
木葉を占領した薩軍でしたが本営より植木を守るようにと命令があり前進を中止します。
その後薩軍は高瀬へと向いますが博多から南下した官軍第一、二旅団と戦った高瀬会戦に敗れて後退し、再び木葉で戦闘が起こりました。
3月1日~3日高瀬から官軍が進出してくると薩軍は稲佐に大砲3門を設置して官軍を迎え撃ちます。
しかし、増強した官軍との戦闘は薩軍不利で後退していきました。
官軍は木葉を占領すると本営を設置して3月4日からの田原坂・吉次峠攻略に動き出します。
田原坂から木葉方面を望む
乃木希典奮戦の地
乃木希典が命を落としそうになった場所です。
薩軍砲台跡
乃木希典奮戦の地の隣りに稲佐熊野座神社鳥居があります。
鳥居をくぐり参道を登っていくと稲佐熊野座神社の本殿が見えてきます。
本殿の手前左に砲台跡の碑があります。
【明治十年西南戦役 田原・吉次・植木戦蹟図】に載っている稲佐の薩軍砲台
参道は急な石段で大変ですから車で行くことをお勧めします。
上木葉官軍本営跡
もとは高田家の屋敷跡で、田原坂陥落まで第一、二旅団の本営として使用されています。
旅団の本営が七本に移った後も陸軍中将・山縣有朋が本営を設けて作戦指導や戦後処理など行っていました。
有栖川宮督戦の地
征討総督に任ぜられた有栖川宮熾仁親王が田原坂攻略戦の戦地を見て廻られた場所です。
(有栖川宮は高瀬に居たので田原坂陥落後に見て廻ったのだと思います)
田原坂を望む
吉次峠を望む
正念寺
官軍病院跡ですが負傷者なら官軍、薩軍関係なく治療を行っていました。
山門横に官軍病院跡の碑が建立されています。
山門には当時の弾痕が残っています。
日本赤十字の全身である博愛社が置かれていました。
徳成寺
こちらも官軍病院跡で正念寺同様官軍、薩軍関係なく治療を行っていました。
熊本県下には日本赤十字発祥の地が幾つもあり、ここもその1つです。
宇蘇浦官軍墓地
徳成寺の隣りにある道を上がると宇蘇浦官軍墓地があります。
ここには田原坂、横平山、木葉での戦いで戦死した官軍が眠っています。
官軍将校25名、下士官47名、兵卒249名、軍夫13名と抜刀隊64名の墓があり、墓石は階級が上の人ほど奥になってます。
高月官軍墓地
木葉の中心にある高月官軍墓地は田原坂、横平山、吉次峠での戦死者が眠っています。
官軍将校44名、下士官168名、兵卒764名、軍夫4名、計980名が眠る西南戦争官軍最大の墓地です。
櫻田惣四郎辞世詩碑
玉東町出身の櫻田惣四郎は熊本隊参謀として西南戦争に参加しました。
出陣の際に残した辞世詩がここに建立されています。
薩軍三勇士の墓
ここには薩軍の藤坂吉左衛門宗隆・伊集院義兼・山倉文左衛門義種の墓があります。
3月10日薩軍の一隊は木葉の官軍本営付近を襲撃しようとしました。
しかし、木葉より離れた西安寺付近で官軍と衝突します。
これにより藤坂・伊集院は即死、山倉は負傷して近くの水車小屋にいました。
山倉は地元の山野家に匿われましたが5月20日に死亡。
その亡骸は藤坂・伊集院と同じ場所に埋葬され、山野家に手厚く供養されています。
三勇士の遺体は墓碑より少し離れた場所に埋葬されたと云う話もあります。
(写真の真中辺り)
入口の案内板
原倉西官軍砲台跡
みかん畑の中に碑が建っています。
半高山や吉次峠の薩軍に攻め込む官軍の援護砲撃をここから放っていたのでしょう。
官軍砲台跡から半高山、吉次峠を望む
官軍砲台跡入口の標柱