西南戦争史跡61の続きです。
官軍・別働第三旅団は都城を発し、三股の梶山に着きます。
(三股町史に書いてある山田川を挟んでの激戦は無かったようです)
三股の薩軍・干城三番と奇兵六番の兵士は20余名ほどが場所に居るだけで弾薬も乏しい状況から梶山を守備することができません。
早朝に梶山を発し、板谷越方面と新村越方面に向かいます。
上の段(徳阪)に官軍の追撃を防ぐ兵士を若干名置いていきますが、午前9時に官軍が迫り戦闘が行われました。
薩軍は地形が狭くなった場所で竹藪の間から狙撃を開始、官軍は動けない状態でした。
その状態を見て八木中尉は身を挺して進んで行きましたが足に銃弾が当たり負傷します。
副官の加藤中尉は兵を左右に分けて薩軍の背後から攻撃しました。
薩軍はそれに驚き敗走します。
この事から三股町史での薩軍はシラミを取っている最中に官軍が迫り、裸で逃げて行くという内容も事実とは考えられません。
尾佐川での戦闘に関しても橋を落とした事は事実ですがそこで薩軍20名が戦闘をした記述はありませんね。
【三股町が掲げている西南戦争史跡】
薩軍本営跡
ここには池辺吉十郎(三股町史では池辺吉次郎)がいたとのことです。
しかし、池辺吉十郎は熊本隊の隊長で都城陥落以前の熊本隊本営は財部にありました。
7月24日まで霧島から財部において戦闘をしており25日には都城から北東側の山之口に行ってますから三股にいたとは考えられないです。
(熊本隊の戦袍日記を参照)
薩軍の本営は庄内に置かれていたので三股の本営と云われる場所には誰がいたのでしょうか?
薩軍側の一次資料の薩南血涙史にも西南記伝にも三股本営の記述はないですね。
三股町の広報には辺見十郎太の逸話も残っていますが大口~菱刈~霧島大窪~財部~岩川~末吉と辺見の足取りからして三股にいた記述はありません。
とても不思議な本営跡です。
無名戦士の墓
薬師堂裏に建っている梶山での戦闘で戦死した兵士の墓と云われています。
激戦地 尾佐川橋
梶山から敗走する薩軍20名が橋を落して追撃してきた官軍と戦闘をしたと云われています。
疑問が残る場所です。
山田(沖水)川の激戦地
7月25日川を挟んで薩軍と官軍が激戦を繰り広げた場所です。
こちらも疑問が残ります。
鍋ふさぎの墓
薩軍によって殺害された鍋釜修理工一家の墓と伝えられています。
西南戦争一番隊出兵者の灯籠
西南戦争に従軍した長田地区の人たちの武運を祈って奉納されました。
西南戦争従軍碑・西南戦争招魂碑
山王原稲荷神社内に明治12年9月28日建立。
亡くなった薩軍・官軍従軍者20名の名前が刻まれています。
三股町の広報
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