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21/10/11(月) スポーツの日(でも、今日は休日じゃない)

2021-10-11 21:29:33 | 日記
起床 5:30






今日は「新聞休刊日」


今日は1日掛けてミニ机の移動と掃除をした。

◆今日のレシピ 
さつまいもとチキンの照り焼き風


1.材料
・さつまいも 150g(半本)
・鶏もも肉  150g
・たまねぎ  1/3個
・塩こしょう 適量
・片栗粉   適量
・サラダ油  大さじ1
・黒ごま   適量
・酒     大さじ1
・みりん   大さじ1
・砂糖    大さじ1
・しょうゆ  大さじ1



2.作り方
①さつまいもはカットし、水にさらした後600Wのレンジで4分加熱
②たまねぎを薄めのくし切りに、鶏もも肉は食べやすい大きさに切り塩こしょうで下味をつけ片栗粉をまぶす
③フライパンにサラダ油を入れ、鶏もも肉を皮目から焼く
④たまねぎ、さつまいもを加え炒める
⑤酒大さじ1、みりん大さじ1、砂糖大さじ1、しょうゆ大さじ1を加え炒める
⑥器に盛り、黒ごまをかける


◆柳家小三治(日経より)
自然体貫いた高座人生 柳家小三治さんを悼む
広瀬和生(落語評論家) 
カバーストーリー
2021年10月11日 17:00

高座の柳家小三治さん=共同
古典落語の第一人者で人間国宝の柳家小三治さんが81歳で亡くなった。小三治さんの高座を長年聴き続けてきた落語評論家の広瀬和生さんに、業績を振り返ってもらった。

柳家小三治は1939年生まれ。59年に五代目柳家小さんに入門、二ツ目の「さん治」の頃から頭角を現し、69年に17人抜きの抜擢(ばってき)で真打ち昇進、師匠の前名である「小三治」を襲名した。
八代目桂文楽、五代目古今亭志ん生といった昭和の名人たちが確立した古典落語の世界を、より現代人の感性に相応(ふさわ)しいものに磨き上げたのが古今亭志ん朝(62年真打ち)や五代目三遊亭圓楽(同)、立川談志(63年真打ち)の世代で、小三治は彼らに続く存在として落語ファンの期待を背負った。特に談志が83年に落語立川流を創設して落語協会から脱退して以降は「志ん朝・小三治」が二枚看板とみなされるようになっていく。
芸に厳しい六代目三遊亭圓生に可愛(かわい)がられたという小三治は、若い頃から抜群のテクニックを持つ"巧(うま)い演者"として定評があったが、円熟味を増していく中で師匠小さんの「了見で演じる」姿勢に落語の真髄(しんずい)を見いだし、より自由な芸風へと転じていく。落語の本題に入る前の長いマクラの面白さが話題となるのもこの頃からだ。
今思うと、小三治の長い落語家人生の中で一つの転機が訪れたのは、長年行ってきた上野・鈴本演芸場での独演会をやめた時だったのかもしれない。最終回は2007年10月31日。この時『鰍沢(かじかざわ)』を演じた。三遊亭圓朝作とされるこの噺(はなし)は歴代の名人が技を競った大ネタ。小三治は1986年に一度演じたきりだ。客席で僕は思いがけない『鰍沢』に興奮し、小三治の"巧さ"を堪能した。
小三治はその後、都内4カ所で立て続けに『鰍沢』を演じたが、その後、一切やっていない。そして、その頃を境に小三治は、高座に掛ける演目を絞っていくようになる。「落語は芸を見せるものではなく、おはなしをするもの」という境地に入った小三治の高座は、落語の演目を聴くのではなく「小三治に会うこと」を楽しむものになった。
10年に小三治は落語協会会長に就任した。ファンの多くは「そういう役職は嫌がると思っていた」と意外に受け止めたが、後に語ったところによれば、協会への恩返しという想(おも)いがそこにはあったのだという。さらに言えば、会長にならずして亡くなった志ん朝(01年没)の代わりに……という意識もあったのかもしれない。
14年6月に会長の座から勇退した小三治は、10月に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。落語家では五代目小さん、三代目桂米朝に続いて3人目だが、小三治自身は"人間国宝"などという肩書を積極的に欲したわけではなく、むしろ「断りきれなかった」のではないだろうか。
落語評論家・広瀬和生さん
小三治は今年3月に倦怠(けんたい)感を訴えて入院。腎機能に問題があったというが、5月には復帰し、以後もゆっくりしたペースながら順調に高座を務めていた。17年に頸椎(けいつい)の手術を受けた時も復帰後は元気な姿を見せていた小三治のこと、今回もまた「一時の体調不良」だろうと思っていた。それだけに、ここへ来ての突然の訃報には呆然(ぼうぜん)とするばかりである。
14年、僕は『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』という本を出した。その許可を求めた面接で、緊張する僕をリラックスさせるように「若き日の談志がいかに志ん朝を意識していたか」といった裏話の数々を語ってくれた小三治の優しさを今、懐かしく思い出す。
志ん朝・談志亡き後の落語界で孤高の存在となった小三治は、いわゆる"名人"のイメージとは対極にある自然体を貫いて高座人生を終えた。この稀有(けう)な表現者と同じ時代を生きることができたことに心から感謝したい。

柳家小三治さんが死去 81歳、人間国宝の落語家
2021年10月10日 14:34 (2021年10月10日 22:40更新)

柳家小三治さん(2013年12月撮影)
古典落語の第一人者で人間国宝の柳家小三治(やなぎや・こさんじ、本名=郡山剛蔵=こおりやま・たけぞう)さんが10月7日午後8時、心不全のため東京都内の自宅で死去した。81歳だった。告別式は近親者で行った。喪主は長男、郡山尋嗣(ひろつぐ)氏。
1939年、東京・新宿に生まれた。都立青山高校卒業後、59年に五代目柳家小さんに入門した。
69年に真打ちに昇進し、十代目小三治を襲名。「厩(うまや)火事」「小言念仏」などを得意とし、素朴な味わいのなかに独特のおかしさを感じさせる高座で親しまれた。
2004年芸術選奨文部科学大臣賞、05年紫綬褒章受章。10年に落語協会会長、14年から同顧問。著書に「ま・く・ら」「落語家論」など。
14年に人間国宝に認定された。
所属事務所によると、10月2日に東京都府中市で披露した「猫の皿」が最後の高座となった。
「孤高のはなし家」 落語協会の柳亭市馬会長の話
ただただ、ぼうぜんとするだけです。何事にも迎合することを嫌い、派手を好まず、極めて芸人らしからぬ、孤高のはなし家でした。師匠先代小さん亡き後、芸について口やかましい事を言ってくれるのは、小三治師匠だけだったので、いよいよ心細く、さみしくなります。どうかゆっくり、お休みください。ありがとうございました。
「大事な宝を失った」 落語芸術協会の春風亭昇太会長の話
落語協会会長を長く務められ、また人間国宝として落語界にとって大きな存在であった小三治師匠が亡くなったことは大事な宝を失ったような気がしますが、御一門の皆さんの変わらぬ努力で師匠の落語に対する思いを継承していただけるものと確信しております。若き日に師匠と番組をご一緒させていただき、よく声を掛けていただきました。あの頃の思い出と師匠の素晴らしい業績をたたえながら、ご冥福をお祈り申し上げます。〔共同〕
「落語と戯れるような高座」 落語家の桂文枝さんの話 
師匠の訃報にエッと驚いて、しばらく言葉が出てきませんでした。神戸で開催の東西落語会でご一緒いたしましたが、師匠のまくらは時に歴史の勉強になるような時もありました。飄逸(ひょういつ)と自然に落語とまるで戯れているような高座、うらやましい限りでした。残念でなりません。あの素晴らしい語りを全てたずさえて一緒に旅立たれたのですから、ただただご冥福をお祈りするばかりです。〔共同〕
「うまくやろうとしない」 現役貫いた柳家小三治さん
カバーストーリー

2021年10月10日 17:13 (2021年10月11日 19:00更新)
柳家小三治さん(2007年9月)

「うまくやろうとしないこと。それが、難しい。(中略)じゃあ、下手なまんまでいいのかっていうと、そうじゃないんだよねえ」。傘寿を迎えた2019年に出版した自伝「どこからお話ししましょうか」で、柳家小三治さんはこう語っている。
寄席で盛んに受けていた若手の頃、師匠の五代目小さんから「お前のはなしはおもしろくねえな」と鼻っ柱を折られた。この言葉が出発点となって「面白いとは何か」を考え続けた人だった。小三治さんの高座は、爆笑につぐ爆笑というよりも、聴衆が思わず、ふっと笑ってしまうようなものだった。
「東大以外は大学じゃねえ」と言う厳格な教師だった父に反発して、落語の道に入った。40代の頃はバイクを乗り回した。スキーも趣味で、クラシック音楽や映画にも詳しかった。
落語の〝本編〟に入る前の「まくら」が長いことも有名で、まくらだけを収めたCD全集まで出ている。話題も最近の出来事だけでなく、かつて東京にあった寄席の思い出、海外旅行でのエピソードなどさまざまで、人間のおかしみや、場の雰囲気を絶妙な語りで伝えた。
落語家の人数が史上最大といわれるまでに膨れ上がった昨今、個性が多様化して中心が見えにくくなっている。そんな中で数少ない「本格派」「主流」といえる落語家だった。10年から4年間、落語協会会長を務め、20歳以上も若い柳亭市馬さんにその座を譲った。その決断も見事だった。
21年春に入院したが、5月に復帰、7月には20枚組のCDも出した。10月2日の東京都府中市での一門会にも姿を見せ、今後も多くの高座の予定があった。まさに現役のまま逝った。


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