戸根明彦ブログ

ZIDEN.Produce.(自伝・自分史の制作)の運営をしています。HP:www.ziden-produce.jp

第14章 不遇(3) 

2013-02-12 20:42:06 | 日記
その後私はねる事など出来る訳もなく
呆然としながらもこの状況を必死に整理しつつ、

今後のこと、つまり離婚する事となった場合の事、
また今までの事など、どうにも冷静さを保と事など
できない中でもがき苦しんでいた。

その夜は結局徹夜となり朦朧とした状態で仕事に向かった。
妻もこの夜は家のすら帰ってこなかった。

その日は山形に移住して6年目の春で、
桜の花も散り始めていた季節だったと記憶する。

それからの私はとにかく冷静さを失いながらも日々を送りつつ、
結局一人で悩んでも何の解決にもならないし、
当事者間で話をしても感情的な話に終始する有様で、
どうにもならない状況と感情で身も心もズタズタであった。

それでも私は一つ一つ問題を解決すべく、
義父や義母からの妻への説得や、
活動していた創価学会の先輩達からの
アドバイスや直接的なアプローチも試みて頂きながら、

可能であれば何とか一時的な過ちとして解決し
元の軌道に修正を図ろうと、
裏切られたショックを抑えながら試行錯誤していた。

・・・つづく

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第14章 不遇(2) 

2013-02-11 18:56:40 | 日記
特別な日となる事は予想もしていなかった訳だが、
この頃少し妻の帰りが遅かったり、
一度帰って地域の活動やママさんバレーに出かける事もあったので、

この日も帰宅した時には妻の姿はなく
義母とたまに来る義父も居たので妻の行き先を尋ねると、
バレーに出かけていると言っていたのだが、

時間もかなり遅くなっていたので
私は妻の携帯電話に電話したのだった。

するともうすぐ帰るというので安心しながらも、
ここのところ子供たちを置き去りにしているようにも思えていて、
多少時間配分を考えたほうが良いのではとも思っていた。

それから30分~1時間経っても妻は帰って来ず、
どうしたのかと思い再度電話をすると、
またもやもうすぐ帰るという。

なぜ遅いのか聞いても友達と話しているとか
はっきりしない返答だったが、
とりあえず帰りを待って一言言わないとならないかなと思っていた。

その時義父はバレーの練習をやっているはずの
小学校まで様子を見に行ったようだが、
学校の照明は全て消えており
明らかにそこにはいない事を告げられたのだった。

その後もなかなか帰って来ないので、
私はその時少し嫌な予感めいたものを感じていて、
最近の妻の言動や周辺の変化の事に思いを巡らしていた。

さすがに遅すぎると思った私はもう一度電話を入れたのだが、
この時は私も妻に対して何となくではあるが
疑念を持った状態だった。

そして電話に出た妻に対して誰といるのか、
何故そんなに遅いのかを問い詰めていくうちに、
どんどん答えがちぐはぐになる妻に対してとうとう私は、
男と居るのかと問い詰める事となる。

すぐに否定もしなければ肯定もしない妻に私は黒だと反応した。
それから暫く相手が誰なのか、何故なのか、
どういうつもりなのか問い詰めていくうちに、

妻は事もあろうか夫である私に非があると言い始め、
何とか自分のやっている事、考えている事を正当化しようとし始め、
とても正気とは思えず話にならないと思い、
私はその場でそこにいるであろう相手の男に
電話を替わるように求めたのだった。

すると電話を替わったその男は
詫びの一言も無いままに冷静を装いながら、
私に非があることを説き始めたのだった。

何ともお粗末で薄い男かと思いながらも、
この信じられないやりとりは1時間にも及んだ。

結局正論など通る訳もなく感情的な話では収まりもつかない為、
日を改めて話し合う事として電話を切った。

・・・つづく

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第14章 不遇(1) 

2013-02-10 20:15:38 | 日記
山形に移って6年目に入り仕事も順調で
不満もなく念願のマイホームも所有し、
子供たちもすくすく成長してくれ大きな怪我も病気もなく、

経済的にも割と安定していて将来に何の疑問を持つ事もなく、
健康で健全で幸せを感じていたこの頃、
不遇が突然とも言えるスピードで私に襲いかかって来た。

今考えてもなぜなのかと思える程なのだが、
これも運命であろうし、私の人生においては
結果的に避けて通れなかった経験であったと考えるより他にない。

やっとここまで築き上げてきた人となりは、
これより先大きく変化していく事となる。

その日も私はいつもと同じように一日の仕事を終え、
いつもと同じように帰宅したのだったと思うが、
帰宅時間はいつも遅くて夜の9時~10時、

時には日付の変わる様な日もあった状態で、
帰宅した頃には家族は皆寝ているような日もしばしばだった。

そんないつも通りと思っていた一日が突然、

第13章 新転地(4)

2013-02-09 21:59:32 | 日記
当然ながらミサワホームにての新築の計画であるのだが、
その頃はまだ社員価格も有難い価格設定であり、
新規分譲地も山形市内でありながらも単価の安いところであり、

社員でなければできなかった程の広さとグレードで計画でき、
大変有り難く幸せな事だった。

全体の予算としては3200万円~3300万円のところでまとめたと記憶する。
通常であれば2~3割増の感覚であろう。

当時はまだ山形市内市街地からは距離もあったし、
交通や道路のアクセスも便利な場所ではなかったが、
その後の市街地延長や道路計画を考えると、
十分に利便性や発展は想像できる場所だった。

ところで新築が完成し入居したのは、
山形に移って4年目も終え5年目に入ろうかとしていた頃であった。

正直なところこんなにも順調に我が家が手に入るなどとは
山形に来るまでは想像もしていなかった。

それでも私としては社会的にも、
家族に対しても責任を果たせたと感じる瞬間だった。

またその頃には山形の義母にも新築した家に同居してもらう事となり、
妻も少しづつ子供の手も離れてきたので
仕事に出るようになっていた。

子供たちもすっかり自己主張逞しく、
しょっちゅう姉弟げんかをしていたが、
大きな病気、怪我も無くすくすくと成長してけれていて、
2人とも近くの幼稚園に通い始めていた。

私は子供たちには多少厳し目の父親であろうと考えていて、
基本的な人間力を早い段階で教えていこうと思っていたので、
ズルや嘘には特に厳しく諌めていたのを覚えている。

子供からしては少し怖い父親であるよう努めていた。
またそうしていた他の理由として、
子供たちが成長していく途上で、

親が威厳をもてなければ、
他の大人に対しても敬意を持てない子供となってしまい、
人への尊厳や思いやりに欠いた大人になってほしくなかった
という思いもあっての事だった。

・・・つづく

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第13章 新転地(3)

2013-02-08 20:26:00 | 日記
長女はその時はまだ3歳にも満たない幼子であったので、
その時のことは恐らく覚えていないだろうと思いながらも、
折角の機会なので連れて行くこととした。

さすがに生まれて間もない長男は今回は残す事とし、
その間は山形の両親に預かってもらう事とした。

私は以前にもお話したように、
アメリカのLA近郊に1年間行ったことはあったが、
ハワイは初めてであり、
妻は初めての海外旅行という事であった。

ハワイはアメリカではあるが日本からの観光客も多いので、
現地でのコミュニケーションはさほど難しくもなく、
私もまだ多少の日常会話は可能だったので、

フリーの時間は家族3人でマウイ島へ出かけて行ったり、
滞在するオアフ島の動物園やビーチ、
ショッピングモール等へも出掛けて行った。

その後も何度か社内のキャンペーン、
コンテスト等で目標をクリアした時には、
海外や国内の旅行にも行っていたが、
家族を伴って行ったのは最初のハワイだけだった。

山形に移って4年目の年には、
いよいよ自らのマイホームについても考えるようになり、
山形市の北部に新しく出来る大型の分譲地内に
我が家を建てる計画をする事となる。

・・・つづく

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