戸根明彦ブログ

ZIDEN.Produce.(自伝・自分史の制作)の運営をしています。HP:www.ziden-produce.jp

第15章 敗走(2) 

2013-02-17 19:51:26 | 日記
そんな中で思っていたのは映画関係の仕事への憧れだった。
そこで私はどうすればその場所へたどり着くかを思い描き、
東京に住んでまず始めたのが芸能プロダクションへの登録と
オーディションへのアプローチだった。

登録には4~5万円を要し安くもないものだったが、
自分自身に何が始まるかに少し期待も込めて
数件のプロダクションに登録した。

最初に登録したプロダクションからは早い段階で最初のオファーがあり、
とにかく何だかわからないまま指定された場所に行くと、
TV番組の「ぷっすま」の企画で数人の男性を並べて、
誰が本物のカツラかをユースけサンタマリアさんと
スマップの剛くんが当てるという内容の
その並べられる男性の一人という役での出演だった。

仕事としては何の準備も技術も必要なく楽なもので、
頂いたギャラは数千円だったかと思う。

その後もTVドラマのエキストラや
何かの雑誌の広告モデルの仕事が入ってきたのだったが、

一番良かったのは多少はプロらしい仕事で、
俳優の卵や劇団の若手の人に混じって
本来はある程度の経験か教練している人でないと
抜擢されない様なところでの仕事の依頼がきたのだったが、

プロダクションからもその時は
素人とは絶対言わないようにと言われて
多少の緊張感を持って行ったのが、

医療関係の教育用ビデオの制作のための撮影に
富山県まで交通費を出してもらって日帰りで行ったのが最高値で、
数カットの撮影で3万円ほどのギャラを頂いたと記憶する。

・・・つづく

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第15章 敗走(1) 

2013-02-16 19:49:00 | 日記
新たな人生のスタートを切る事となった私は
まずその居場所を求めて、
以前暮らしていた東京の墨田区に住んでいた
創価学会の先輩を頼って今後の事について相談し、
同区内にアパートを借りる事とし
その地を拠点に仕事を求めていく事とした。

それでもやはりすぐに行動を開始する事は出来ず、
一旦実家のある愛媛県に帰郷し心に空いた穴を
拡げないための時間を摂ることとして、

また心配をかけてしまった両親や姉兄に
これまでの事やこれからの事について話す事とし、
一週間ほど自らの人生に休息を与える事とした。

山形での事でバタバタしている中でも少しずつは、
今後の自身の人生をどう生きていくか、

中でも何に芯を置いて生きていくかを考えていたこの頃から私は、
自らが望んだとは言えない状況の変化の中であっても、
このような理由であったにせよ自由を与えられた様に思えていた私は、

何か今までやりたかったが状況がそれを
許さなかった事への挑戦を思い巡らせていた。

・・・つづく

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第14章 不遇(6) 

2013-02-15 22:11:11 | 日記
そして様々な問題の整理をつけるに至った
8月15日にこの戦いに終わりを告げた。
この日はこの国が戦争を終結した終戦記念日でもある。

そして私は8月31日をもってこの地と
かけがえのない筈であった家族との別れを告げた。

このような事が無ければごく普通に子供の成長を見守りながら、
充分ではないかもしれないまでもそのまま当時の仕事を続け、
家族の為だと思いながら日々を重ねていた事だろうと思われる。
どこにでもある平穏無事な毎日であった事だろう。

人はよくこのような何も無い平和な状態を幸せだという。
その状態を失った私は不幸であった事には違いはないであろうが、
だからと言って甘んじて不幸を背負って
生きていくつもりも無かったし、未だにそう思いたくもない。

結果として私が経験した事は私でないと
経験し得なかった事であると同時に、
思いがけずもその後の人生が良くも悪くも続いていくうちは、
その時の変化によって新たな経験を重ねて行っている訳だ。

その中で出会った人達や行った場所、経験してきた事は、
これもまた私の人生の一部である事に違いはなく、

カードがひっくり返ったお陰で初めて見えてきた事も
沢山あったのは間違いなさそうだ。

・・・つづく

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第14章 不遇(5) 

2013-02-14 21:15:29 | 日記
それからの私は離婚後の子供たちの事、
ローンの返済も始まったばかりのマイホームの事、
そして私自身の今後の事など、
ありとあらゆる環境の変化に対応すべく考動を開始していった。

とにかくその頃の私はショックが大きすぎて
その場から逃げ出したい思いであったが、

無思慮で無責任で信用できない相手方に任せておけなくて、
自らが様々な問題の処理にあたり、
いろんな人や機関での相談やアドバイスを貰いながら
自らの心の平静を保つよう努めつつ事にあたっていた。

願わくば大人としても、人間としても信用できない相手には
子供も任せたくなかったし、
子供たちの為にと建てた家も維持していきたかったが、

残念ながら私一人の力では経済的にも精神的にもその力は無く、
結局全てを手放すという選択を決断する事となってしまった。

但し相手方にも充分な力は無い為
完全に綺麗な形での整理はできず、
家庭裁判所において協議の上、
様々な条件を付記した形での離婚調停を行う事となった。

出来る範囲でのギリギリの調停であったが、
実は未だに私の負うべき責任の排除は出来ていない為、
この時の事は今もって私に大きくのしかかってきている状況だ。

そうこうしているうちに季節は夏となり、
私はこの地に来た理由が家族の為であった事を鑑みて、

今となってはその意味も失うこととなった事もあり
この地を離れる決断にも及んでいた為、

仕事についても辞職を願い出ていて、
特に不満もなく反って仕事も覚えそれなりの責任も帯びていた
職をもこの年の7月末をもって終える事とした。

・・・つづく

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第14章 不遇(4) 

2013-02-13 16:54:48 | 日記
私が我慢したり過ちを許すことで
問題の解決が図れるのならそうしようと、
己の心に言い聞かせるようにしていたのだった。

ところが彼女の方はと言うと、
既に次のパートナーも傍にいる事もあってか、
とにかく私と別れることを前提とした
考えを元に言動を繰り返すばかりだった。

その為には誇張して私を悪人扱いもするし、
脅しかと思えるような事まで口走っていたのだから、

全くもって自分のやっている事、
言っている事を否定する言葉や考えには耳も貸さないし、
そういう相手は全て敵だと思っていたようだ。

そんな状況下で、最初は娘に非があると言っていた義父も
なかなかの軽薄さで娘に嫌われないよう反旗を翻していったものだから、
義父と義母の関係もギクシャクし始めた。

こんなあまりに浅はかな人間関係を
維持することに疲れ始めた私は、
こうなってはもう方向転換し離婚に向けての整理を始める方向で
周りの人や法的な相談を始めていった。

こんな事になっても私にとっては一度は愛した人でもあり、
幸せにしようと尽くした訳だし、

既に子供も2人居てマイホームまで建てて間もない状態でもあり、
今後について考えないとならない事は山積みだった訳なので、

私が冷静にならなければどういう答えにしろ
前進する事は出来ないと意を決するに至った。

・・・つづく

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