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1981年生まれ、タカハシヨーコ

半生を振り返りました。名前は全て仮名です。
男尊女卑、毒親、毒母、シックマザー、不登校

悲しい別れ

2024-07-18 22:35:00 | 日記

家の敷地内で野良猫が仔猫を産んだ。

白い仔猫を拾って、チャロと名付けて飼うことになった。

赤ちゃんの頃はスポイトでミルクをあげて育てた。

チャロに会いたくて、学校にいても一刻も早く家に帰りたかった。

仔猫から人の手で育てられたチャロは、

甘えん坊で人懐っこい猫に育った。

白猫だが、しっぽだけうっすらと茶色の縞模様が入っており、しっぽの先は少し曲がっている。

青い目と、すこしごわごわとした毛並み。

寝る時も一緒で、チャロは時々母猫を思い出しているらしく、人の人差し指を吸いながら前足をふみふみした。


大きくなったチャロは、家と庭を自由に行き来して

毎朝、私と弟の登校班の集合場所近くまでついてきてくれた。

どれだけチャロの存在に癒され励まされただろう。

チャロは紛れもなく、家族の一員だった。


ある日のこと

隣家に住む女性の叫び声が聞こえた。

「犬が車に轢かれてる!!」

弟が走って家の前の道路まで見に行った。

車に撥ねられて、もがき苦しんでいるのは犬ではなく、チャロだった。

頭を強く打ったのか、眼球は飛び出しそうになり血まみれで苦しんでいた。


チャロと知って、私は道路まで見に行くことができずその場で腰が抜けた様に座り込み泣き叫んだ。


母が水色のシーツを持っていき、チャロを包んだ。

チャロは足をバタバタさせて、しばらくもがき苦しんだあと死んでしまったようだった。


ぐるぐる巻きに巻いたシーツには、大きな血の跡が滲んできていた。

チャロを抱いた母は、死んだ人間の赤ちゃんを抱っこしている様に見えた。


あんなに声をあげて泣いたのは

人生であとにも先にもあの時だけだったかもしれない。


騒ぎを聞きつけたのか、

祖父も出てきて、泣いている私を見るなり怒鳴った。


「泣くな!

父親が死んだ時は泣かなかったくせに、

猫ごときが死んでなんだ!」


珍しく母が、私を抱きしめてくれた。


祖父が、家から離れた庭にスコップで大きく深い穴を堀り、早々にチャロは埋葬された。


夢の中にチャロが出てきて、

弟と一緒に抱きよせて夢の中で喜んだ。

夢をみながら、これは夢なんだと気付いたのは初めてだった。


小学校でのいじめ

2024-07-18 18:25:00 | 日記

父が亡くなってから、もともと内気だった私は更に大人しくなっていた。


その頃の私は、夢遊病で夜中に突然起きて歩き出すことがあったり、

家にいても突然恐怖の感情に襲われ、居た堪れなくなる症状が出ていた。

今でこそそれが、パニック障害の発作だったとわかるが、

当時は何がなんだかわからないまま恐怖に震えた。

弟は円形脱毛症になった。


小学三年生になった私は

学校でも時折、現実感がなくなりボーッとしていた。

忘れ物は多く、先生にしょっちゅう注意される。


引っ越してきたばかりで、クラスに必死に馴染もうとしている男子がいた。

彼は勉強ができて難しい言葉を良く知っていた。


席が近かった彼は、皆に聞こえる様に私をからかって大声をあげた。

「こいつ、全然喋んないで

植物人間みてぇー!」

「植物人間!」


まわりのクラスメイトも笑った。

私は、「植物人間」という言葉をこの中の誰よりもよく知っていた。

父が植物状態になってから亡くなったからだ。

彼の言葉に心が凍りつきながら、

誤魔化すように私も苦し紛れの笑顔を作った。


同じ班の意地悪な女子も、私だけを無視する様になった。

私の前で目を合わさずに、

「大っ嫌い」と呟いた。


私の様に陰気な空気を纏っている人間は

それだけで周りの人をなんとなく居心地の悪い気持ちにさせたり、

サディスト気質の人間にとっては格好の餌食となるのだ。


ある日、

女子トイレの和式の個室に入り、流そうと立ち上がった瞬間、

隣の個室からどっと複数人の笑い声が聞こえた。

女子数人が、私が個室に入っているのを隣の個室の上から覗いていたのだった。

消えてしまいたいほど恥ずかしく、屈辱的だった。

覗いていたと思われる女子に、すれ違いざまに揶揄われる様なことを言われ、胸を抉られるようだった。


殴られたわけではない、

直接的に嫌がらせをされたり

何か物を隠された訳でもない。


しかし、彼らの何気ない言葉や振る舞いは

私を地獄の底に突き落とすに充分だった。


娘は小さなカウンセラー

2024-07-18 05:08:10 | 日記

父が亡くなってから母親は友人との付き合いも辞めてしまった。

他県に住んでいる友人から久々に電話がかかってきても、夫が亡くなったとは伝えられなかった。

長年文通をしている友人にも、手紙を書けなくなりそのまま縁を切った。

 

「自分が惨めだと思われたくないから」

父が亡くなってから泣き暮らしていた母はそう言って人を遠ざけた。

「惨め」その言葉を母はよく使った。

 「みじめ、みじめ、みじめぇ〜、惨めになっちゃった」とよく歌まで歌っていた。

 

孤独な母は、自分の気持ちを娘である私に吐くしかなかった。

義父母や親戚への不信感や愚痴、

昔からの友人の悪口、

将来や老後の不安、お金の不安、

過去の辛かったことや屈辱的な体験、等々。

私は母の嘆きを聞いて、慰めたり励ましたりして深夜まで話に付き合うこともあった。

時計の針が夜中の2時をすぎるまで母の話を聞いた時、

私は自分が大人になった様な誇らしい高揚感で満たされた。

 

母はそんな私を褒めてくれた。

「ヨーコちゃんは、頭がいいから

大人の話でもちゃんとわかるんだよね」

「ヨーコちゃんはパパに似てる、

死んだパパが乗り移って話してくれてるみたい。」

そう言われて素直に嬉しかった。

(お母さんが喜んでくれると私も嬉しい、

お母さんの役に立てて嬉しい、

可哀想なお母さんのためならなんでもしてあげたい。

お母さんに、

元気に幸せになって欲しい…)

 

当時、精神状態に波のある母がいつか自殺してしまうのではないか、

もしくは病気で死んでしまうのではないかと私はいつも不安だった。

時折見せる母の、母親らしい優しさに、

鼻がツーンと苦しくなって涙が溢れそうになるのを

私は明るく笑って誤魔化した。